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『carry on』
部屋の中には何もなかった。それは空間的な話だけでなく、時間的にもそうだったし、二人の間に流れる空間とも時間とも言い切れない、いくつかのやりとりもそうだった。窓はずっと開けていたが、日当たりが悪かった。夕暮れ時になると、ここにはもう初夏の明るみというぼんやりしたイメージが残るだけで、互いの顔もはっきりとは見えなかった。しかし、どちらも電気を点けようとはせずに、男はボロボロの窓枠に座って風を受け、女は万年床の上で胡座をかきながらラジオを聴いていた。
「このDJ嫌い。絶対自分が誰よりも偉いって思ってる」
女はいつもそんな事ばかり言っていたから、男ももううんざりという様子で何も返さなかった。だが彼女もまたそれを承知であるようにチューナーを回しながら文句を続けていて、しばらくすると彼がやっと独り言のようにそれに答える、とそんな風に日々は成り立っていた。
「やっぱり、テレビくらい欲しいな」
「静かなのもいいさ」
「でも、ラジオはついてるじゃん」
「テレビよりラジオの方が静かだ」
「意味分かんない。同じだよ」
男は黙ってしまった。その静けさを確かめるために耳を澄ましたようにも思えた。彼は白いジーンズを履いて、端に白抜きで複雑な葉がプリントされた黒のロングTシャツを着ていた。袖は適当に肘までまくられていて、そこには引き締まった腕が見えており、黒髪はまとまりのないまま肩口近くまで伸びている。彼はいかにも人に懐きそうにない顔付きをしていた。
女はそれをじっと眺めていた。彼女は他人の顔を遠慮なく注視出来る人間だった。背中まである明るく染めた金髪が、その可愛らしくも暗い表情によく映えた。怒ったような瞳の下にははっきりとした隈が鼻横まで伸びていて、けれどそれが鋭く細いシルエットの中で鉤のように人の心を引っ掻き、強い印象を残すのだった。彼女はグレーのキャミソールとデニム地のショートパンツ姿だったが、肩紐の一方がずり落ち、前のボタンもだらしなく開いていた。
「静かなのは嫌。考え事しちゃうから」
「たまにはいいだろ」
「嫌。辛い事ばっかりだし」
「辛いのなんて欺けるさ」
彼は女の後ろへ行って座り、腰に手を回した。そしてその金色の髪に顔を埋め、それをかき分けて首筋に口付けした。鎖骨のほくろにもした。真っ白な肌は柔らかく少し火照っていた。彼女は男がやりやすいように首を少し傾けながら、しかしつまらなさそうな顔をしたままラジオをいじり続けた。
「お前はいつも、自分の顔の右半分が嫌いだって言うよな。微妙に左右が違うんだって。だけど左半分は気に入ってる」
「うん」
彼は左右から彼女の唇にキスし、前を向いた。
「どっちも自分だよ」
「何それ?」
「人が言う程、そんなに悪い事じゃあないって事。まして自分が思う程でもない」
「ふーん」
「後は、目を瞑って慣れればいい」
彼女は少し考えてから、男の首へ手を回し強く引っ掻いた。そこには赤い線がくっきりと四本残ってしまった。彼は苦笑いのようなものを浮かべて、鼻で大きく息を吸いながらもう一度女をきつく抱きしめると、その背中のぬくもりを頬で感じた。
「そうしなきゃ、救いようないだろ。俺がどんな風に言ったって、どうせお前は聞かないんだ」
「……やっぱり今度テレビ買ってくる。小さいの」
「そんな金あるのか?」
「あんたがお金の心配しないでよ。ねえ、小さいテレビって何だか可愛くない?」
男はそれには何も言わなかった。代わりに彼女を倒しながら布団に寝転び、足を絡めた。女はいつも通り不機嫌そうに彼の髪をくしゃくしゃにして、乱暴に愛撫した。首の爪痕は、もう跡形もなく消えていた。
呼び鈴は壊れていて、鳴らない。だから人が来ると、少し遅れて古い玄関扉が叩かれる。男はそのやり方、回数、テンポで、外にいる人間がどんな者かを大まかに判断できた。この時もそうするために、動きを止めて息を潜めていた。
それはわざと焦らすような叩き方で、けれど一つ一つの音はいかにも洗練されていた。女には違いない。だがここに人が訪ねてくる事自体稀なのに、まして女というのはいかにも嫌な予感がした。しかもその女は、郊外に建つ部屋も埋まりきっていないこのアパートの、真っ暗な一室を飽きもせずノックし続けている。
「あたし、出る?」
息を殺す彼女に頷き、男は衣服を手に取った。それから二人は慎重に音の方へと向かい、彼が陰に隠れて一呼吸置いてから、鍵が開けられた。明かりはゆっくり漏れこんできた。
「こんばんは」
「誰?」
「水嶋琴美と申しますわ」
そこには立っていたのは、奇妙な格好の女だった。夜に溶け込む紺青色をした袖の短い着物、浅葱色の帯、その下には白ラインの入った黒の短いプリーツスカートとスパッツ、そして編み上げのロングブーツを身に付けていた。水嶋琴美は、その見事な黒髪、吸い込まれそうな微笑で、この場の意識の支配者が誰なのかをはっきり告げてしまうような女だった。
「何の用……?」
しかし彼女も、明かな敵意を出す事でそれに抗った。琴美はその様を見つめながら、指先で自分の耳たぶを撫でた。
「ここに男の方がいますでしょう?」
「いないわ。でもいたとしても、あなたには会わせない」
「あら、どうして? 大切なお話がありますのに」
「こっちにはない」
「現金輸送車襲撃事件のお話なのですけど」
早々にドアを閉じようとしていた動きが止まった。女の眼輪筋がかすかに動いている。
「ねえ、ずっとあなたから濃い男性の匂いがしてるの、気付いてる? 奥に誰がいるのかしら?」
「中入ってろ」
低い声が聞こえたと同時に、暗がりから腕が伸びた。その拳でも平手でもない不気味な手は琴美の顔へ急に近付いていったが、彼女は逆にそれを捕らえてしまうと、瞬時にクナイを振り下ろしていた。ところが、すかさず姿を現した男が力を込めただけでその拘束は解けた。彼は一瞥を残して素早くその場から離れ、工事用ガードフェンスで囲まれた目の前の敷地へと跳んだ。
マンションのようなものが取り壊された跡らしく、しばらく何の施工予定もないために草がそこら中に伸び、ゴミがいくつも放り込まれているような広い敷地だった。追ってきた琴美の両手にはクナイが握られていた。男は驚き怪訝な顔をしたが、ひとまず彼女がたった一人である事を確認出来ただけで彼には十分で、それはここで相手を始末するかしないかという唯一重要な判断に簡単な決着をつけてくれた。
互いのリーチは大したものではなかった。が、驚異的な運動能力がその間合いの意味を薄めた。男の回し蹴りがすんででかわされた際には、体勢が戻り切る前にもう懐に琴美がいるという具合である。一方の男も、密着距離で下から顔面に突き進む刃を素手で躊躇なく受け止めてしまう。貫通し血が噴き出しても全く構わずに、彼はそのまま手中に収めた琴美の手を握り潰した。
音は確かだ。ただ手応えはいまいちで、彼女は離れた所で外した関節を元に戻していた。男は表情も変えずに抜き取ったクナイを捨てて指の動きを確かめ、もう一度構えた。身を屈めたタックル。単純な力の差が圧倒的である事は二人とも分かっていて、倒すか倒されるかが一度きりの勝負だった。
だが琴美もまた男に向かって駆けた。これまで見せたスピードよりも更に速く動き、低姿勢に膝を合わせた。一撃が、完璧に入った。にもかかわらずその動きは止まらず、両側から死の腕が彼女の細身を囲みつつあった。
それでも笑みは崩れない。むしろ琴美が身をこなす姿は更に楽しそうに映る。彼女は迂闊な動きを見せた腕を片方自ら引き寄せてしまうと、それごと首に両足で巻き付き、三角締めを極めた。瞬間、股の間で男の形相に明かな変化が見られた。そしてとんでもない力で彼女を持ち上げ、地面に叩き付けようとしたところで、クナイが彼の目を貫いた。
琴美は血にまみれたスパッツを脱ぎ捨て、肉付きのいい太ももを月明かりに晒しながら、髪を掻き上げて空を見た。するとまるでそれに応えるように、一陣の風が生暖かい空気を洗い流していった。彼女は新鮮な空気を一通り味わった後、雑草の繁茂する地面に視線を落とした。
「お話、出来るようになったかしら?」
そこにはぐったりと男が横たわり、一つ残った眼球がぎょろりと上を睨み付けた。
「あんた、一体何なんだ……」
「自衛隊の人間。もしかすると、あなたの相談を受けられるかも知れませんわよ」
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