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<東京怪談ノベル(シングル)>


【スーツ姿でも鬼退治】


 人という生物が、いかに脆弱な生き物であるか。目の前の存在と対峙して、瑞香ははっきりと思い知った。
 銃弾すら弾きかねない分厚い皮膚、暴力的なまでに強靭でしなやかな筋肉。
 赤鬼と化した男は、ことごとく瑞科の攻撃を弾き返していた。しかも、いっさいの防御なしで、である。
 人の、しかも女性である瑞科と、野生の獣をも凌ぐ肉体を持つ赤鬼とでは、肉体の持つポテンシャルが根本的に違うのだ。
 猟銃を持っていれば、野生の熊とも対峙しうるが、素手ではどうしようもできないように、食物連鎖の頂点を気取っている人という種が、いかに科学の名のもとに生み出された武器や兵器によって、ようやく他の生物に対抗しうることができるようになっているのか。
 それは悲しいまでに現実であり、真実なのであった。
 

 赤鬼と化した男は、瑞科の胴体ほどもある腕を、無造作とも言える動きで振り下ろした。パンチとも呼べない、ただの殴りつけ。しかし、その一撃は大気を切り裂き、風切り音が後から聞こえるほどのスピードと、コンクリートの壁をも粉砕する威力を備えている。
 瑞科の横顔に、すぐ近くを大型トラックが走り抜けたかのような風圧が襲う。だが、それだけだ。瑞科はその攻撃を容易く回避していた。
 凶暴で凶悪、まさしく殺人的な一撃であるが、それだけだ。武でもなければ技でもない。瑞科からすればそれは、「今から殴りますよ」と宣言してから殴りかかってきているような、幼稚とすら言える攻撃だった。
 鬼の男が振り回す拳の風切り音が繰り返される。その音の合間を縫うように、鈍い音が響く。
 瑞科は男の攻撃を躱すだけでなく、カウンターで拳、蹴りを打ち込んでいた。しかし、男の体はまるで鋼のように強靭で、ほとんど効いている様子はない。
 そんな攻防が続くが、結果は変わらない。男の攻撃は瑞科に当たらず、瑞科の攻撃は男に効かない。このままでは埒が明かない。
「あなたのその姿は生まれつきのものなのかしら?」
 瑞科は鋭い蹴りを男の脇腹に叩き込みながら、尋ねた。ミニのタイトスカートから、タイツに覆われた脚が際どいところまで覗く。男なら誰もが目を奪われる姿だったが、理性と知性を失った赤鬼は、そんな瑞科の姿に反応することはなかった。ついでに言うと、ダメージもなく、瑞科としては二重の意味で屈辱的な反応だった。
 男は脇で挟み込むように、瑞科の右脚を掴んだ。そのまま、瑞科の体を持ち上げ、地面に叩きつけようとする。
 甘いですわね。
 しかし、瑞科に慌てた様子はない。それどころか、持ち上げられる勢いを利用し、左脚で男の側頭部に蹴りを叩きこんだ。
 首が吹き飛ぶのでは、というほどの威力を備えた鋭い蹴りだ。しかし、それでも男にダメージを与えることは出来なかった。だが、少なからず男の体勢を崩すことはできた。
 右脚の拘束が緩んだ隙に、瑞科は脚を引き抜き、両足で男の顔面を蹴り付け、後方宙返りで男との距離を取った。
 やはり硬いですわね。瑞科は冷静に男を分析する。まともに瑞科の蹴りを喰らって平気な顔をしているなんて、少なくとも瑞科にとっては初めてのことだった。
 だが、それならそれでやり方を変えるまでだ。
 男は愚直なまでに繰り返し、大振りな攻撃を仕掛けてくる。頭の上からハンマーを殴りつけるように、男は拳を振り下ろしてきた。
 瑞科はそれをただ躱すのではなく、半歩前に踏み込む。それだけで男の攻撃の威力を半減させることができる。しかし、スピードと威力だけは一級品の攻撃だ。その半歩前に踏み込む、というのがどれほど勇気のいる事か。しかし、瑞科はそれを容易く実行して見せる。
 男は気にした様子もなく、そのまま拳を振り下ろす。本当に威力の乗った拳の射程から瑞科は外れたが、その丸太のように太い腕で、瑞科を押し潰そうとする。
 男が微かに口元を笑みに歪めた。威力の劣る腕での攻撃でも、瑞科を潰すには十分だ、と。
 次の瞬間には、小さな隕石でも落ちたのでは、というほどの轟音がその場に響いた。


 何が起きたのか分からない。そんな表情を浮かべていた。
 赤鬼の男は、瑞科の前で仰向けに倒れていた。男は呆けたように空を見上げたまま、動きを止めている。
 男に苦悶の表情はいっさい見受けられないが、男が背中を預けるアスファルトの地面が大きく窪みクレーターを作っていることからも、どれだけ強い勢いで男が地面に叩きつけられたかが推し量れる。
 要は単純な話だ。男が腕を振り下ろす力を利用し、瑞科は背負い投げの要領で、男を地面に叩きつけたのだ。
 あまり期待はしていませんでしたが、やはり駄目でしたわね。
 男の表情からも分かる通り、ダメージを与えることは叶わなかった。しかし、まったくの無意味だった、というわけでもない。
 男の虚を突くことで、一瞬ではあるが動きを止めることができた。その隙を易々と見逃す瑞科ではない。
 なら、これはどうですの!
 瑞科は拳を握らず、手の平を開いた状態で、男の胸に打ちつけた。いわゆる掌底である。
 一拍遅れて、衝撃音が響く。男の体が跳ねる。初めて男の表情に変化が生まれた。驚愕と衝撃、そして痛みに歪んだ苦悶の表情だ。
 男は口から、息と共に赤い血を吐き出す。それは男に瑞科の攻撃が通ったことの証明である。
鬼と化しても血は赤いのですわね。
 裏打ち。それが瑞科の行った攻撃の正体だ。
 攻撃を当てた場所に直接ダメージを与えるのではなく、その裏、つまり分厚い筋肉の壁の内に守られた内臓への攻撃。いくら鬼となっても、内臓まではそこまでの変質を果たしていなかったのかもしれない。或いは、鬼の内臓も、他の生物と同じように、そこまでの強度は誇っていなかったのか。
 どちらにしろこの瞬間、勝負を分かつ天秤は大きく傾いたのだ。


 男は驚愕していた。自分とまともに戦うことのできる人間などいるはずがなく、よもや自分に攻撃を通せる人間など、存在してはいけなかった。
 それは思考ほどの明瞭さを持たない、感情と直結した思いだ。今の男に、物ごとを理論的に考える知能は残っていない。ただ、本能の赴くままに破壊し、敵を殲滅する。敵とはいったい誰なのかも理解せぬままに。
 そんな、野生の獣と変わらない思考能力しか持たない男でも、いや、本能しか持ち合わせていないからこそ、瑞科には勝てない、と男は直感的に理解した。
 自分の攻撃は、どれだけの威力を込めて振り回しても当たらない。瑞科の攻撃が効かない、という唯一のアドバンテージもここにきて覆された。
 勝ち目がない。痛い。苦しい。逃げたい。本能が男の体を浸食する。このままでは殺される。早く逃げろ、と。
 男は倒れたまま腕を振り回した。瑞科は後方に跳躍し、距離を取る。男はその隙に立ち上がった。
 このままでは、勝ち目はない。男にとって、選択肢はただ一つしか残されていなかった。
 だから男は、その選択肢を迷わず選んだ。


 男の突然の行動に、瑞科は身構えた。
 男はズボンから何かを取り出す。瑞科は武器の類を予想した。しかし、男が取り出したものは一本の注射器だった。
 注射器が割れてしまうのでは、というくらい強く、男はそれを握りしめている。男はそれを、躊躇いなく自分の腕に突き刺した。注射器内の薬品が、男の腕に呑み込まれていく。
 どくん、どくん、と鼓動が早まる。
 一刻も早く、男を止めるべきだ。瑞科の頭にそんな声が響いた。
 瑞科は右手を突きだした。音もなく、風もなく、ただその瞬間、男が何かに弾かれたように吹き飛んだ。
 間違いなく全力全開。瑞科にとって本気の重力弾だ。大型トラックをも破壊しうる威力を内包したその一撃は、確実に男の胸を捉えた。
 路上駐車していた車を巻き込み、電柱をへし折り、ビルの壁に突っ込んでようやく、男は止まった。


 土煙が巻き起こり、視界が曇る。音はなく、静寂に包まれたその空間で、瑞科は男の吹き飛んだ先を見据えたまま、構えを解くことはなかった。
 はっきりと感じる。あの男はあの程度でくたばってはいない。
 瑞科が感じたのはそれだけではなかった。土埃に煙る視界の先から感じる気配が、膨らんでいる。
 少しずつ視界が晴れていく。そして、男の姿が徐々に露わになる。
 鬼の姿。それは変わりない。しかし、その体は肥大した筋肉で一回りも大きく膨らみ、額から生える二本の角は鋭利な刃物のように鋭く、伸びていた。
 完全に堕ちた。男は完全に人ではないものへと成り果ててしまった。
 吐く息は瘴気と化し、その瞳に光はなく、ただ破壊のみを求める鬼へと。
 男は体勢を沈めると、爆発音がした。それは男が地面を蹴った音。次の瞬間には男は目の前に迫っていた。先程まででも十分に恐ろしい威力を備えていた拳が、更に鋭さを増して瑞科を襲う。
 普通の人間なら反応するどころか、男に殴られたことにも気づかぬうちに死んでいる。それほどのスピードだった。しかし、瑞科は半歩、左足を半歩下げるという最小限の動きだけでその攻撃を避けてみせた。
 その時には、瑞科の右の掌底が男の胸を打ち抜いていた。一拍遅れて、男の体が跳ねる。
 手応えは十分だ。攻撃が完全に徹ったという確信が瑞科にはあった。
『……くふふ』
 しかし、男は嘲笑うように口元を歪めたのだった。


 全く効いていない。その事実は少なからず瑞科に衝撃を与えた。
 どうする? どうすればいいんですの?
 瑞科がそんな思考に襲われている間も、男の攻撃が止むことはない。嵐のような攻撃が瑞科を襲う。それでも、男の攻撃は瑞科を捉えることはない。
 スーツ姿の瑞科は舞い踊る。時に体を反らし、時にステップを踏み、回り、舞い、踊る。焦りはない。恐怖もない。
 男の攻撃は荒々しさを増す。攻めているはずの男に、焦りの色が浮かぶ。恐怖がよぎる。なぜ当たらない。なぜ恐れない。この女は何なんだ。
 男の殺気がひときわ濃くなった。男は拳を振り抜く。猛り狂うその一撃はこの世のすべてを破壊せんとするかのようだ。
 だが、当たらない。瑞科は上体を反らし、躱す。しなやかな体は弓のようにしなり、そのまま後方に手をつく。その手を起点に脚が持ち上げられ、鞭のような蹴りを放つ。
 瑞科の左の蹴りが男のこめかみを襲う。しかし、男も瑞科の攻撃に反応し、それを躱そうと首を反らす。蹴りは男の角を捉えるが、折れることはない。
 瑞科は起点にした手を中心に円運動を始める。そのまま右の蹴りが先程と同じ場所を捉える。それでも鬼の角が折れることはない。
 だが、男の体勢が僅かに崩れる。瑞科の攻撃は止まらない。
 瑞科の蹴りは執拗なまでに鬼の角を打ち抜く。鞭のようにしなやかだった蹴りは、その勢いを増し、高々と掲げられた右脚が振り下ろされる様は、まるで死刑囚の首を跳ねるギロチンを連想させる。
 そして遂にその時はきた。鬼の角は根本から折れたのだった。


 驚きはあったものの、男に焦りはなかった。人間の蹴りで自分の角が折れたのは予想外。けれど、男にダメージは皆無に等しかった。
 角には神経も血も通っていない。人間でいうなら、爪を切られたようなものだ。文字通り、痛くも痒くもない。
 瑞科は地面についた手をバネのように弾き、体勢を起こす。
 男は間髪入れず瑞科に肉薄してくる。その目に映るのは愉悦と殺意。角を折られても、自分の優位が絶対と信じている目だ。
 瑞科の眼前の男の拳が迫る。しかし、瑞科は目を閉じることも、顔を背けることもなく、その拳を見つめていた。
「これで終わりですわ……」
 瑞科は小さく呟く。
 男の拳は瑞科の目の前、ほんの数センチ手前で止まった。拳圧で瑞科の髪が揺れる。
 男はゆっくりと視線を落とす。男の胸には深々と、先ほど瑞科に折られた角が突き刺さっていた。
 強靱な肉体。どんな攻撃をも弾き、びくともしなかった男の体。
 それを突き破ることのできるのは、その男が誇る、鬼の角だった。


 男は電池の切れたように、膝からくず折れた。
 みるみるうちに男の体が縮んでいく。気がつけば、鬼と化していた男は、人間の姿に戻っていた。
 この男は一体、何者だったのか? なぜ鬼の姿をしていたのか?
 あの注射の正体は?
 その答えに、瑞科はすでに気づいている。しかし、それはまた別の話。
 結局こうしてみれば、今回の任務も瑞科の圧勝という結果である。圧倒的不利な状況であったことは確かなはずなのに。
 瑞科は懐から携帯を取り出す。
「ああ、わたしだ」
 数回の呼び出し音で相手は出た。もちろん、相手は神父である。
「ただいま、任務を完了致しましたわ」
「さすがに仕事が早いですね」
 神父は満足そうな声を出した。瑞科への期待と信頼が窺える。
「これでも時間がかかってしまいましたわ」
 これは瑞科の本音だ。予想以上の敵だった。ただ、それで無傷で任務を遂行してみせるところが、白鳥・瑞科が白鳥・瑞科である由縁だ。
「そんなことはないですよ。これからも期待しています」
「はいですわ」
「今日は急な任務、本当にご苦労様。事後処理はこちらで手配しましょう。瑞科君は帰宅してゆっくり休むといい。そうだ、埋め合わせとして明日は休日とします。素敵な休日を過ごしてください」
「ありがとうございます。それでは、失礼しますわ」
 瑞科は通話の切れた携帯を仕舞う。
 瑞科はスポーツカーに乗り込むとエンジンをかけた。腹に響くエンジン音と、小刻みに体を揺らす振動。
 久しぶりの休日。何をして過ごしましょうか。
 それは瑞科の心の高揚を表しているようでもあった。
 瑞科はアクセルを踏み込む。スポーツカーはあっという間に見えなくなったのだった。