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雪山の温泉に行こう!
白王社・月刊アトラス編集部の碇・麗香が取引先から貰った無料温泉宿泊券は様々な人の手を渡り、最終的には松本・太一の手に渡った。
「…困りましたね。私も仕事が忙しいのですが…」
『えーっ! せっかく貰ったタダ券が勿体無い! ここ最近、忙しかったからお肌が荒れちゃっているし、ここいらでゆっくりしましょーよ!』
頭の中で響く女悪魔の声を聞いて、太一は頭痛を感じて顔をしかめる。
「48の男はお肌のことなんて気にしません。それより貴女が温泉に行きたいだけでしょう?」
『あら、バレた?』
女悪魔は楽しそうにクスクス笑う。
『でも体が疲れているのは本当でしょう? 仕事なんて魔法でもう一人の自分を作って、行かせればいいじゃない。…それとも連れがいない48歳の男が一人で温泉に行くのがイヤなのかしら? それなら女の姿になればいいじゃない。少なくとも男の姿よりは、周囲のあなたを見る目は違うわよ』
確かに中年男性が一人で温泉に行くと、どこかあわれみの視線を向けられるだろう。
しかし女性一人の旅行は近年では流行っている為に、普通に接してくれることが予想できる。
ここ最近、仕事が忙しくて体に疲れがたまってきているのも事実。
たまには温泉でゆっくり…と何度も考えてはいた。ならばいい機会だと思って、ここは素直に行くことにしよう。
「はあ…、分かりました。では準備をはじめましょうか」
『やった♪』
●温泉宿に到着
女性の姿になり、温泉宿のある場所まで来た太一は、一面に広がる雪景色を見て身を震わせる。
「う〜ん、寒い…。わざわざ女性用の防寒着を買って着たけど、こう山奥だとあんまり意味なかったかも…」
『なら魔法であたたまりなさいよ』
頭の中で女悪魔がパチンっと指を鳴らす姿が浮かんだと同時に、寒さを感じなくなった。
けれど太一は物足りなさそうに、首を傾げる。
「…でも雪がいっぱい見えるのに、寒くないというのも情緒がないと言うか」
『もうとっとと宿に行きなさい!』
こうして宿に行って受付を済ませ、部屋で一息ついた後、浴衣と綿入れを着て旅館の中を探索した。
隠れ宿と言われているだけあり、あまり人がいないことに太一はほっとしている。
自分の中にいる女悪魔と声を出して会話をしても、誰かに見られる心配は少ないからだ。
いつもよりも柔和な表情で、楽しそうにキョロキョロと周囲を見回していた。
「帰りに会社の人達にお土産を買わなきゃね。温泉まんじゅうが一般的で良いかな? まあお土産は知人から貰ったということにして…」
『気が早いわね。まずは温泉について考えなさいよ。その為に来たようなものなんだから』
「それもそうね」
宿の中にある温泉の案内板を見て、太一はふと思い出す。
「でも女性が温泉に入るのに必要な物ってなかったのね」
『まっ、別に温泉に入るからといって、特別な物が必要なわけないし。ちょーっと考えればすぐに分かることなのにぃ』
「うるさいな。知ってたんなら、教えてくれてもよかったのに」
太一は少し顔を赤く染め、口をとがらせて拗ねる。
それは旅行に行く前のことだった。
久々の旅行だったので必要な物を買いに行ったのだが、困ったのが温泉に入る時に使う用品だ。
「いつもは男性の体でお風呂に入っていますし、銭湯など外でお風呂に入ることなんて滅多になかったですからね。…女性は何を持って、露天風呂に入るのでしょう?」
ブツブツ呟きながら見て回ったものの、よく分からずため息を吐く。
そして中年の女性店員が近くを通ったので、尋ねてみた。
だが聞いたところ、露天風呂には一通りの品はそろっていると教えられた。
シャンプー、リンス、ボディーソープはもちろんのこと、タオルや体を洗うスポンジも置いてあると言う。温泉がある宿では化粧水や乳液も置いてあるし、ドライヤーもあるので身一つで充分らしい。
嫌な顔一つせず、笑顔で教えてくれたのはいいものの、最後に「娘さんから頼まれたんですか?」と言われた時には何かがグッサリ胸に突き刺さった。
しかし他に良い理由が無かった為に、頷くしかない。
頭の中では女悪魔が腹を抱えて大笑いしている姿が浮かんだものの、注意する気力もなかった。
「…まっ、娘の一人がいても、おかしくない歳ですしね」
と、思うしかない。
『でも楽で良かったじゃないの。男の時と変わらなくて』
「まあそうね。…あっ、深夜や早朝なら、露天風呂を貸し切りにできるのね。今日はお客さんがあまりいないみたいだし、予約してこようかな?」
『客が少ないなら、普通に入りなさいよ。知った人間がいるわけでもあるまいし。今更、恥ずかしがることもないでしょ?』
「そっそれでも恥ずかしいものは恥ずかしいの!」
『はいはい。それじゃあとっとと受付に行って、予約してきなさいよ。もうすぐ夕飯の時間じゃないの?』
「あっ、いけない!」
慌てて太一は受付に向かう。
思っていた通り、今日は客が少ないので予約はあっさり受け入れられた。
ホッとするとお腹が鳴り、部屋に戻るとちょうど夕食の時間になる。
山の幸をふんだんに使った夕飯を平らげてゆっくりしていると、露天風呂の予約の時間になった。
『太一、そろそろ時間よ』
「あっ、そうだね」
受付で聞いたのだが、やはり露天風呂に持ち込む物はないらしい。
なのでそのまま露天風呂へと向かうと入口に女中の人がいて、『現在貸切』の看板を女性用の露天風呂の壁にかけている最中だった。
名前を告げると中に入るように言われ、露天風呂にはタオルを巻いた体で入らないようにとだけ言われる。
外は暗いながらも雪の白さと満月の光があり、一瞬寒さすら忘れられるような幻想的な空間になっていた。
「…っくしゅん! ううっ…、でもやっぱり寒い…」
桶でお湯をすくって体にかけ、ゆっくりと露天風呂に入ると、太一の口から大きなため息と共に声が出る。
「くっ…うう〜! 少し熱いけど、身に染みるぅ。気持ち良い〜」
『またジジくさいことを…。しかし露天風呂は良いわね。肌が潤うのが感じるわ』
「それはババくさい…」
『ここで裸踊りしたい?』
「なっ何でもない! 何も言ってないから!」
静かながらも迫力のある脅しに、太一は慌てて首を横に振った。
その後は手足を伸ばして、背伸びをし、湯を肌にかけていくと、緊張していた体が徐々に解れていくのを感じる。
「…ここに来て良かったわ。身も心も、ずいぶん楽になったもの」
『あなたは少し考えすぎなのよ。たまにはこうやって羽を伸ばさないと、人間も悪魔だって疲れてしまうもの』
「……でも貴女が疲れているところなんて、知らないんだけど」
そこそこ長い付き合いになるも、いつも明るく元気なままでいるような気がした。
『バッカねぇ。女は弱いところを人前では見せないのよ。あなただってそうでしょう?』
「あの、私、そもそも性別は男なんだけど……」
今の体は女だが、元々は男なのだ。余計に弱っている姿など、他人には見せられない。
…だけど自分の中にいる女悪魔には、全て見抜かれているような気がする。
今回のことも、太一の体を気遣ってのことだろう。
まあもっとも、宿っている肉体が疲労しているので焦った、ということもあるだろうけど。
『今回は一泊しかできなかったけど、今度はもう少し長く滞在しましょうよ。そしたら完全に体調も良くなるんじゃない?』
「でもあんまり仕事を休んでいると、逆に気になって精神的に疲れちゃいそう。…んっ、けど二泊ぐらいならしても良いかな? その時はぜひ男の姿のままで」
『えっー!』
女悪魔は不服そうに声を上げるが、宿には男性一人で来ている客もいたのだ。
隠れ宿に癒しを求めて来る人の中に太一みたいな男性がいても、ここでは目立たないことが分かった。
「来て見て分かった。こういう所にある温泉宿なら、男一人でも大丈夫! 次はそうしよーっと」
『ぶぅ! つまらないわねぇ』
拗ねる女悪魔の顔が頭の中に浮かぶも、太一は笑みを浮かべながら空を見上げる。
…太一一人だけだったら、タダ券を貰った時点で別の人に渡していただろう。
けれど今ここに来れたのは、本当の意味で『一人』ではなくなったから。
奇妙な状況に慣れてしまったことにほんの少し悲しさを感じながらも、割と悪くないと思った。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【8504/松本・太一/男性/48歳/会社員 魔女】
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■ ライター通信 ■
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はじめまして。
このたびはご依頼していただき、ありがとうございました。
まったり&コメディストーリーを書いてみました。
楽しんで読んでいただければ、幸いです。
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