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<東京怪談ノベル(シングル)>


待宵の君

夕刻を迎え、舗装の道が西日を受けて金色に輝き始める。ラフな服装の一人の男が、その光を背にして静かに歩む。まだ若い。ともすれば少年のようにも見えるが、その表情にはある種の覚悟を決めた者にだけ見られる落ち着きがあった。
(「休日ももう終わり、か――」)
休日。この『フェイト』と呼ばれる青年が、任務を離れ、一人の人間として生きることを許される、ほんのわずかな時間。誰よりも平凡な生き方を愛したはずの少年は、その望みを捨てて戦い続ける者となった。人の身にはありえぬほどの能力。そして、力に溺れ、慢心するどころか努力を重ねて次々と手に入れた新たな才能。己の身を化け物と呼ばれるほどにまで鍛え上げ、IO2随一のエージェントの座を手に入れたのは、自分の日常を捨てることで、誰かの日常を救えることを知ってしまったから。自分が傷ついても、誰かを救うことができるなら、それこそが彼の願いであったから。
せっかくの休日ですら、頭に浮かぶのは任務のこと、自分の選んだ生き方のことばかり。彼はこの日も『フェイト』のままだった。生来の優しさや明るさが失われたわけではない。しかし、あまりにも多くのことがありすぎた。戦いすぎ、傷つきすぎた。彼はここ数年の経験によって、エージェント・フェイトとして完成されてしまっていた。運命の名を持つ男の運命は、その名を忘れることを許さなかった。
(「俺はこれでいいんだ。自分の選択に、悔いはない」)
考え事をしながら歩いているうちに、フェイトはいつの間にか、普段はあまり通らない裏路地に入り込んでいた。街のこちら側は、旧市街であったのだろうか。傷み始めた木造やモルタルの古い家が多く、商店と思われる建物のいくつかは、シャッターが下りたままになっている。ゆっくりと朽ちていく街並みと、今の自分の気持ちはきれいに調和しているように思えて、この場所を歩くのは悪くない気がした。
家屋の陰で薄暗い色が続くばかりの行く手に、鮮やかな赤が飛び込んできて、フェイトはふと立ち止まる。古ぼけた木造家屋の軒先に、欠けた鉢が無造作に置かれていた。薄汚れた鉢から伸びているのは長い茎と葉、それと重そうに首をもたげる大きなつぼみ。もうすぐ咲く頃合だ。はかなく薄い花弁が幾重にも折り重なった姿で咲くこの花を、フェイトは知っていた。月下美人という名だ。ただ、その花は彼の知る月下美人とは決定的に違うところがあった。白いはずのつぼみは、血のように赤い。そして彼の視界に突然現れた赤は、この花の色ではなかった。花の傍らに立つ、少女の着ている和服の色。まっすぐな黒い髪、白い顔、そして花と同じ深い強い赤。花と少女のいる場所だけが、まるで別な空間から切り取って持って来たかのように鮮烈だった。

何かが、おかしい。

赤い着物の少女、赤い花。夕暮れの裏路地の中で嫌でも目立つはずなのに、立ち止まる者どころか、目を向ける者は誰一人としていない。学校帰りの制服姿の学生も、買い物袋を提げた主婦も、杖つき歩く老人も、少女など存在しないかのように、のろのろと路地を通り過ぎていく。そして誰もが、どこか虚ろな目をしていた。疲れ果ててしまった、病人のような目。フェイトは軽いめまいを覚えた。頭のどこかが痺れてしまったように、うまく結論を導き出すことができない。錆びて空っぽの郵便受け、無人の家屋。手入れのされていない鉢、みずみずしい赤い月下美人。赤い着物の見えない少女。
「これは……何なんだ!?」
フェイトの目には、確かに少女が映っていた。少女は着物の袖からわずかに覗く手を堅く握り締め、うつむいている。その少女が顔を上げ、フェイトの目をまっすぐに見る。表情のない少女の、小さな唇がわずかに動いた。

た す け て

黒い瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
途端、周りの現実が薄くなり、ぼやけて、ついには掻き消えた。今感じられる世界には古民家の軒と赤い花、そして少女とフェイト自身しかいない。フェイトは吸い寄せられるように少女に近づき、その肩に手を触れた。

「どうしたんだ。あんたは……人間じゃないな」
(もう待つのはいや)
言葉ではない言葉が、フェイトの精神に直に届けられる。
「俺で助けられるのか? 誰を待っている」
(あの人に会いたい)
少女の顔に悲しみが浮かぶ。また一筋、涙が頬をつたった。それだけではなく、幾筋もの流れが少女の体を流れ落ちていることにフェイトは気づいた。赤い着物の上を這うようにして、絹地よりもなお赤い液体が滑り落ちていく。血液だ。
「……あんたの記憶を見せてくれ」
両手で肩に触れようとする。だが、少女はすっと身を引いた。拒絶の証かとフェイトは戸惑うが、すぐに彼女が伝えたいことを理解した。彼女は月下美人の鉢の後ろに立ち、促すようにフェイトを見上げる。
「花に触れればいいんだな」
少女はこくりと頷いた。フェイトは少女と、その手前の鉢の前にひざまずき、ほころび始めた赤い花に手を触れた。――サイコハックで、記憶を覗く。物言わぬ花の精神を探し当て、赤く染まってしまった月下美人の秘密を垣間見る。

この家に、人が住んでいた頃。老婆が一人で暮らす部屋には、美しく咲く月下美人が置かれていた。花は白い。――まだ、白い。水と土はきれいで、日陰が涼しく心地よい。老婆は花を愛で、微笑んでいた。
次に見えたのは、同じ部屋。老婆が倒れ伏し、動かない。自らの喀血の上に倒れこむ彼女の側には、同じ白い月下美人があった。主人の血を浴びて花弁の一部が赤く染まっている。そのまま長い時間が流れ、玄関が赤色灯の色に染まると、感染防止衣とヘルメットの男たちが老婆を担架に載せ、運び去っていった。そこから先は、あっという間だった。葬式が行われ、邪魔になった月下美人の鉢は軒先に出され、主を失った家は荒れていき、花は枯れた。
だが、それで記憶は終わりではなかった。花は枯れることを拒み、主人を失う現実を拒んだ。花は再び起き上がり、咲き続け、老婆の帰りを待ち続けることに『決めた』。あの日味わった、倒れた主人の血から得たもの――人間の精気を取り込んで、咲き続ける。何日も何年も寂しい思いをしても、日差しに焼かれて辛くとも、咲き続けて老婆を待つ。軒下に晒された月下美人は、自分に、老婆に、目もくれないで通り過ぎていった通行人たちから精気を奪い取って生き続けていたのだ。赤い色に染まってまでも。主人と同じ人の姿の化身を作り出して。
全てをさらけ出した赤い月下美人の少女は、フェイトを見つめ続けている。
「そうか。そうだったんだな」
意識を月下美人の少女から離す。鉢の花ではなく、化身の少女に向き合って、フェイトは自分の思いを伝える。
「あんたと一緒に暮らして、あの人は幸せだったんだ。花が枯れるように、人にも最後の時がある。あれが、あの人のその時だったんだ」
少女は何も答えない。
「もう待たなくていいんだ。あの人と同じところに行けばいい。あんたが精気を盗んだ人たちが倒れたら、その人を大切に思っている誰かが、またあんたみたいになる」
少女の表情にわずかな変化が生まれた。驚いているようでもある。
「あんたは白いままでよかったんだよ。今からでも遅くない」
慰めるように、励ますように、フェイトは最後の言葉を伝えた。
「さあ、行っておいで」

かすかな微笑みを残して少女が消えると、世界に引き戻されるような感覚に襲われた。一瞬で現実が戻ってくる。フェイトは暗くなった路地に、一人で立っていた。
「俺は……救えたのかな、あんたを」
足元にある月下美人はねじれて枯れ果てていた。たった一片残った花弁だけが、透き通るような白だった。