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<東京怪談ノベル(シングル)>


ナイン・フィンガー


 拳1つで貧民街から這い上がり、巨万の富を築いた男である。
 私生活はいささかスキャンダルにまみれていたようだが、リング上の彼は紛れもなくヒーローだった。アメリカン・ドリームの体現者だった。
 そんな最強のヘビー級ボクサーが、失踪した。
「失踪……ってレベルじゃないな、これは」
 豪奢な部屋の全体にぶちまけられた血の汚れを見回しつつ、IO2捜査員の1人が呟いた。
 眼鏡をかけた、白人の青年。フェイトの同僚である。
 失踪したボクサーの豪邸に今、2人はいる。調査と言うか、現場検証である。
 数日前の「黒い花嫁」事件と同じく、人間ではないものの気配が濃厚な事件なので、IO2に仕事が回って来たというわけだ。
「まったく……犠牲者がここまで増える前に、回してくれればいいのにな」
 フェイトはぼやいた。
 ここ数日、アメリカ全土で失踪者が続出しているのだ。
 もちろん行方不明者など年間何万人にも上るわけだが、それらはほとんど警察の領分である。
 警察の管轄外と思われる失踪事件が、続いているのだ。
 有名人が多かった。
 スポーツ選手、政治家、ミュージシャン、ハリウッド俳優……そういった人々が、このような大量の血痕を残し、姿を消しているのである。
「仕方ないさ。警察やFBIだって、メンツってもんがあるからな」
 ソファに染み付いた血の汚れを調べながら、同僚が言った。
「手に負えないから他人に任せるってわけには、なかなかいかないだろうさ……うーん、こりゃどう見ても致死量だよなあ」
「でも死体は見つからない、と……」
 他の失踪者たちも同様であった。
 現場に残された血の量から考えて十中八九、生きてはいない。だが死体はどうしても見つからない。
「まあ見つからないだろうな。何しろ食われてるし」
 フェイトは耳を疑った。この同僚は今、さらりと何を言ったのか。
「何……だって?」
「だから、食われてるんだよ死体が。髪の毛1本も残らずにな」
 殺人犯が、被害者の死体を己の胃袋に隠してしまった。
 馬鹿げた話のようだが、死体が発見出来ない理由としては、これしかないという気もする。
 そう思いつつ、フェイトは訊いてみた。
「……そんな事まで、わかるのか?」
「残留思念、って奴かな。血を調べれば、そのくらいはわかるさ」
 この同僚は、フェイトと同じ力を持っている。
 否、同じではない。他者の記憶を読み取るサイコハック能力に関しては、フェイトよりも上だ。
 血痕に残った僅かな残留念から、殺人状況を全て読み取ってしまうのだから。
「全て読み取るってわけにはいかないが、まあ犯人が人間じゃない事だけはわかった……人を食う、化け物だな」
「化け物か……」
 そう呼ばれた事もある、とフェイトは思い返した。
 自分をバケモノと呼びながら、死んでいった男もいる。
 バケモノなら、いっぱいいるよ。そう言って工藤勇太を励ましてくれた少女もいる。あれは恐らく、励ましてくれたのだろう。
(自分がバケモノだって事くらい……あの時から受け入れてる、はずなんだけどな俺……)
「ところで話は変わるんだがな」
 言いながら同僚が、スマートフォンを取り出して見せた。
 画面の中で、ウエディングドレス姿のフェイトが拳銃をぶっ放している。
「……綺麗だぜ、フェイト」
「お前! 何撮ってるんだよ!」
「みんな撮ってるぜー。はっははは、どうだい若奥さん? 教官との新婚生活は」
「……冗談でもそういう事言うなよ、頼むから」
 あの少女と同じく、この同僚も、もしかしたらフェイトを励ましてくれている……つもり、なのかも知れなかった。


 その同僚が、行方知れずとなった。
 例の失踪事件と同一犯の仕業、であるのかどうかは不明である。
 ただ彼の部屋には、大量の血痕が残されていた。


 その男は、彗星の如くハリウッドに現れ、並み居るアカデミー賞俳優も顔負けの芝居で鮮烈なデビューを果たした。
 走れば世界記録を更新し、歌えばヒットチャート首位を独占し、メジャーリーガーを相手にホームランを乱発し、今や政界にまで進出しようというこの男に、全米が熱狂している。
 そんな男からIO2に、依頼が来た。妻と娘を捜して欲しい、と。
 しかも、フェイトを名指しである。
「……どうして、俺を?」
「貴方のお名前は聞いていますよ、フェイトさん。IO2で最も優秀なエージェントとして、ね」
 テーブルの向こうで、男が微笑む。
 先日のボクサー宅をも上回る豪邸だ。テーブルに並んでいるのも、豪勢としか表現しようのない料理である。
「……どうか妻と娘を、よろしくお願いしますよ」
 男の口調と表情が、沈痛なものになった。
 彼の妻も娘も、大量の血痕を残して姿を消したのだという。
(化け物に食われた……なんて、今は言うべきじゃないよなあ)
 フェイトは頭痛を覚えた。
 本当に、頭が痛い。先程、食前酒を飲んでから、どうも体調がおかしいような気がする。確かに酒はあまり強い方ではないが……
「あんた……!」
 テーブルの向こうにいる男を睨みながら、フェイトは椅子もろとも床に倒れていた。
 すぐに起き上がった。泥酔者のような足取りで立ち上がるのが、精一杯だった。
「おや、まだ動けるとは……」
 意外そうな声を発しつつ、男が立ち上がり、こちらに歩み寄って来る。
 沈痛な表情は、邪悪な笑顔に変わっていた。
「さすがはIO2最強のエージェント、という事なのかな?」
「……投薬には、慣れているんだ」
 フェイトは無理矢理、微笑んで見せた。
「あんた、自分の奥さんと娘さんを……食って……人の道を、踏み外したんだな……?」
「今は、新しい道を歩んでいる」
 言葉と共に、凄まじい衝撃が来た。
 フェイトは物のように吹っ飛んで壁に激突し、ずり落ちた。
 右のストレート。顔面に残った拳の感触で、辛うじてそれがわかる。
 ヘビー級ボクサーのパンチだった。薬で麻痺しかけた身体で、かわせるものではない。
 舞うようなフットワークを披露しながら、男が語る。
「ありふれた夫婦喧嘩で、うっかり妻を殺してしまった……その時、私の身体に何かが降りて来たのさ」
 悪魔・悪霊の類か。あるいは元々この男が、人間ではなくなる因子のようなものを持っていたのか。
「死体を食したのは、最初は証拠隠滅のためだった……そのうち私は、食べた相手の能力と記憶を、自分のものに出来るようになった。このようになあ!」
 高速の踏み込みが来た。
 辛うじて立ち上がったフェイトに、機関銃のようなパンチの連打が叩き込まれる。
 飛びそうになった意識を、フェイトは辛うじて繋ぎ止めた。
 だが、よろめく足を踏みとどまらせる事は出来なかった。
「君の力も、私のものになる!」
 倒れゆくフェイトの胸ぐらを、男が荒々しく掴む。
 服がちぎれた。フェイトの細い身体から、シャツとジャケットとネクタイが一緒くたに引きちぎられていた。
 目立った筋肉のない、しなやかに柔軟に鍛え込まれた裸の上半身を露わにしながら、フェイトは倒れた。
「ある時、私の事を調べ回っていたIO2のエージェントに出会った」
 語りに合わせて男の頬が裂け、凶悪なほどに鋭い牙の列が現れた。舌が、禍々しく嫌らしく伸びた。
「彼の記憶から、私は君の事を知ったのさ……フェイト君」
 男が、フェイトの半裸身に覆い被さって来た。
 綺麗に引き締まった首筋や胸板に、牙が迫る。舌が這い寄る。
「IO2最強のエージェント……私のような存在を、これまで多数、葬り去ってきたのだろう? その力……今、私のものに……!」
「……そうか……やっぱり、あんたが……あいつを殺したんだな……そして、食った……」
 迫り来る男の顔面を、フェイトは右手で掴んだ。
 どうだい若奥さん? 教官との新婚生活は。
 そう言っておどける友の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
「俺、少しだけ……バケモノになるぞ……お前のせいだぞ……お前が、死んだりするからあああああ!」
 フェイトの絶叫に合わせ、五指の先端から男の頭蓋骨の中へと、念動力が激しく流れ込んだ。
 様々なものが、花火のように飛び散った。
 首から上の消し飛んだ屍が、布団の如くのしかかって来る。
 それを押しのけ、フェイトは上体を起こした。
 破砕の感触が残る右掌を、じっと見つめる。
 人間ではなくなる因子なら自分も持っている、とフェイトは思う。
 おぞましく凶悪な化け物が、自分の中には棲んでいる。
 それを上手く飼い馴らすために渡米し、IO2に入った。
「飼い馴らす自信、なくなっちまったよ……どうして、くれるんだよ……」
 眼鏡をかけた白人の青年が、脳裏で微笑んでいる。
 永遠に失われてしまった面影に、フェイトは語りかけた。声が震えた。
「お前のせいだぞ……お前が、死んだりするから……」
 翡翠の色の瞳から、とめどなく涙が流れ落ちた。