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海の中の石像
「これ、美味しいわね」
「あら、本当? 良かったわ」
「イアルったらあっという間に腕を上げて、これじゃあ私の立場がないじゃない」
拗ねた口調で言う割には、カスミの表情は穏やかだ。
イアルの石化をカスミが解いてからすでに数週間が経ち、二人の仲もだいぶ打ち解けつつあった。
カスミが仕事を終え帰宅すると、現代の調理方法を学んだイアルが夕飯を作って待っており、すぐに楽しい夕食の時間となったのだ。
白身魚のムニエルを上品に口に運びながら、イアルは苦笑交じりに告げる。
「でもまだまだこの時代のことは分からないことが多いのよ、わたし」
「あら、そんなことを言っておきながら今ではインターネットも使いこなしてるくせに」
「新しいことを学ぶのは楽しいわ」
「確かに。どんどん吸収していくものね」
貪欲に知識を吸収していくイアルは、この時代にもすぐに溶け込めそうだった。
「カスミと一緒にこの時代を知ることは楽しいわ」
「本当? それなら今週末の休みはどこに行く?」
毎週休みを使って、カスミはイアルにこの時代を肌で感じてもらうために色々な場所に連れ出していた。
二人にとっては都会の雑踏さえも楽しいものだった。一緒にいれば平凡なものも特別なものへと変わる。
「そうやってあなたは聞くけれど、もう決めてるんでしょう?」
イアルは、知ってるんですからね、と不服そうに頬を膨らませるがすぐに破顔する。
「ご名答。今週末は超穴場の海に行ってみようと思ってるの。電車で移動するけどそんなに遠くはないのよ」
「海なんて久しぶり。でも暑そうね」
「そこは日焼け止めたっぷり塗って、麦藁帽子に日傘まで装備して行きましょ」
「日焼け止め?」
「そうよ。イアルの白い肌が真っ赤になったり黒くなるのは嫌だし」
「今はそんな薬があるのね」
便利でしょ、とカスミはウインクをして白ワインを飲みほす。喉を通るアルコールの熱さが心地よい。
良い気分に浸りながら、二人は週末の予定を立てたのだった。
青い空の下に広がる海へとやってきた二人は、貸切状態の海岸を裸足で歩く。もちろん、日焼けをしないようにと準備万端だ。
「さすがに足の裏が痛いわね」
「本当。焼けるようだわ」
でも楽しい、と波打ち際をイアルは微笑を浮かべながら駆け出しカスミを振り返る。
その時、波間から人の顔が一瞬見えたような気がしてイアルは首を傾げた。それを受けてカスミも同じように首を傾げる。
「どうかした?」
「今、波間に……」
人ならば息継ぎをするだろう、とイアルは波間を見つめ続けたが一向に人が顔を出すことはなかった。見間違いだ、とイアルは判断し左右に首を振る。
「気のせいだったみたい。一気に色々頭に詰め込んだから疲れてたのかも」
「それはあるかもよ。今日はのんびり過ごしましょ」
「そうね。あ、あっちの組み合わさったオブジェみたいなものはなんて言うのかしら」
「あれは消波ブロック。行ってみる?」
行きましょう、とイアルはカスミの手を取り歩き出し、カスミはくすりと微笑んだ。
消波ブロックがいくつも組み合わさった場所は足場が悪く、二人は何度も体制を崩しながらも登り、その上から海を眺めた。
光輝く水面は眩しくて二人は水面が煌く度に目を細めてしまう。
「夏の海って感じね。でももっと南に行ったら海の色も青さが増すんでしょうけど」
「色が濃いのは水深があるからじゃないの? 地域差も関係しているの?」
そう言いながらイアルが風に舞う髪を抑えながらカスミを振り返った瞬間、消波ブロックの隙間から伸びた手がカスミを捕まえたのを見た。咄嗟に手を伸ばしたが、カスミが水面へと吸い込まれる方が早かった。
「カスミ!」
イアルもカスミを追い、海へと飛び込む。上から眺めていた海は穏やかに見えたが、それなりに海流があり体を流されてしまう。必死に瞳はカスミを捕らえそちらに近づこうと試みるが、カスミを捕らえているのはいわゆる人魚と呼ばれる類のもので泳ぎでは到底追いつけそうになかった。それでも必死にイアルはカスミと人魚を追う。
もう少しで手が届きそうだとイアルが再度手を必死に伸ばすが、その手を掴んだのは横から伸びてきたカスミとは別の人物だった。
ハッ、としたイアルは手を掴んだ者へ視線を向けるが、ニヤリ、と笑ったその人物の口元を捉えた瞬間、腹部に強い衝撃を受け息をすべて吐き出してしまう。息苦しさで意識を手放す直前に、連れ去られるカスミの長い髪と人魚の群れを見たような気がした。
腹部に鈍痛を感じ、イアルはゆっくりと意識を取り戻す。ぼんやりとした状態でイアルは、自分とカスミの置かれた状況を思い出していた。
海の中に引きずり込まれたカスミを追ってイアルが飛び込んだ海中にいたのは人魚の群れだった。その群れに捕らえられたのは間違いないだろう。しかし人魚が人間を捕らえる理由は思いつかず、思いを巡らす。
そうこうしている間に段々と体の感覚も戻ってきたため、イアルは鈍痛を感じる腹を撫でようと腕を動かすがそれは叶わなかった。動かない腕を眺めれば、自分が裸で寝せられている実験台のような場所に取り付けられた手枷に繋がれており、よく見れば足も足枷に繋がれていた。
身動きが取れないままに視線を横に向ければ、隣には同じ状態のカスミが横たわっていた。まだ目を覚ましてはいないようだ。
その時、何かが床を這うような音と共に声が聞こえた。
「おや、起きたようだねえ。妾たちの身代わりとなる者よ」
「身代わりってどういうことかしら」
イアルが見つめた先に居たのは、予想したとおりの人魚の姿だった。濡れた床を這い、あまり段差のない台に捕らえられたイアルに嫌な笑みを向けている。
「そのままの意味よ。妾たちの代わりにシーメデューサの生贄となるがいいわ」
「身代わりになんてなれる訳がないじゃない」
「今からそうなるようにしてあげるのよ」
これをお飲みなさいな、と人魚は虹色に光る液体の入った小瓶をイアルに見せた。その輝きは人魚の鱗にも似ている。
「はいそうですか、なんて飲むわけがないでしょう」
「ならば飲ますまで」
このようにな、と人魚はその液体を口に含むとカスミの鼻を摘み口移しでその薬を飲ませようとした。息苦しさで目覚めたカスミは顔を振って逃れようとする。しかし人魚の力のほうが強いのかびくともせず、カスミはその液体を飲み干してしまう。カスミの喉が動き、薬を嚥下したのを見届けると人魚はうっとりとした表情で見つめた。
「これで妾たちの仲間入り」
「かっ……はっ……」
引き付けを起こし体を痙攣させるカスミは、息がうまく出来ないのか苦しそうにもがく。そしてついには四肢を強張らせ動かなくなった。
「カスミっ!」
悲痛なイアルの声が部屋に響くが、その声を掻き消すような悲鳴がカスミからあがった。
イアルはカスミから目を離せずにいた。絶叫が響く中、ゆっくりとカスミの体が変化し始めたのだ。二本の足は太股から融合し、艶かしい肢体は鱗をまとった尾へと変わっていく。それを確認すると人魚は足枷をはずしその足を揃えてやる。
「カスミ、カスミっ!」
体が自由になればカスミを助けられるのに、とイアルは唇を噛み締める。
「イ……アル……」
小さくイアルの名を呼び、完全に人魚の姿となったカスミは意識を手放した。
「そなたも妾たちと同じ姿になるがいい」
いやらしく笑う人魚は再び薬を口に含むとイアルへと近づく。強く拒否をするイアルだったが、動きを封じられていてはどうすることも出来ない。力を使えば石化してしまい、それでは意味がなかった。
味のしない液体を注ぎ込まれ無理やり含まされ嚥下する。酷く屈辱的なのに体は火照る。気が遠くなり、そして次に来る激痛。
カスミの悲鳴に勝るとも劣らない声をあげ、イアルは手足を引きつらせのた打ち回る。どうにかして体の中からあの液体を排除したくてもがいたが、気持ちとは裏腹に下半身は形を変えていく。
「こんなの……」
「ほほほ、屈辱も一時的なものよ。今からじっくり記憶を植えつけてやるから楽しみにしていなさいな。まあ、覚えていればの話だけれど」
薄れていく意識の中、人魚の楽しげな笑い声だけが響いていた。
「さあ、妾たちの娘よ。そなたたちはシーメデューサの元へといきなさい」
こくり、と素直に頷いたのはカスミだ。人魚と化したカスミは床を這い、岩場から海へ下半身を滑らせると器用にその場に座る。綺麗な珊瑚のティアラを身につけたカスミの後を追うのはイアルだ。イアルはティアラではなく、同じく珊瑚で出来ている髪飾りをつけている。
「オマエは声の出ない人魚姫のメイドとして行くのです」
「……はい」
イアルは焦点の合わない瞳のまま頷くとカスミの脇から水中へと潜り、顔を出した。そしてカスミへと水中から手を伸ばす。
「行きましょう」
頷き微笑んだカスミはイアルの手を取り、静かに水中へと身を沈めた。
上書きされた記憶を元に、イアルはカスミの手を引きながら海の中を進んでいく。目印などないが、体と脳裏に刻み込まれた地図がイアルにはあった。
目的地まで進んだ二人は前方に同じ姿の人魚を見つけたが、ある地点に近づいた途端、身動きが取れなくなった。
その二人に気付くと、遠くに見えた人魚が素早い動きで二人の元へとやってくる。近づくその姿に二人は表情を変えた。
シーメデューサの知識は頭にあった。
その海の人魚を監視下に置き、生贄を出させそれらを石化し恐怖を魔力に変え喰らって生きていく者たち。
もちろん二人にも生贄としてやってきた自覚はあったが、自分たちを喰らう者たちを目にしてしまうと途端に恐怖心が芽生えてくる。見た目がすでに恐ろしいのだ。
基本的に人魚は見目麗しい。しかしシーメデューサは下半身は人魚だが、恐ろしい形相で毛髪が蛇というお世辞にも美しいとは言えない容姿をしているのだ。
四方八方に舌を出した蛇たちが蠢いて、カスミたちを品定めしていく。その間にもじわりじわりとカスミたちの足は石化していた。
「あ……わたしたち……」
「綺麗よのぅ。この肌、この髪、妾たちにはないものじゃ」
ぺろり、と蛇の舌がカスミの頬を舐める。その瞬間、カスミは声にならぬ声をあげた。カスミのこういった恐怖を味わえば気を失う体質も、上書きされた記憶により発動することはなく、恐怖だけが蓄積されていく。
「ああ、妬ましい、妬ましい。しかしこれを石に変えたら今日は最高の気分じゃ。妾たちにどのような美味を与えてくれるかのう」
シーメデューサがカスミの右頬に視線を移す。するとその場所からゆっくりと石化し始め、喉を潰されているカスミはくぐもった叫び声をあげる。初めはヒューという息が多かったが、すぐに引きつった音が出た。
「おぉ、毎回これが楽しみじゃ。声の出ない中、振り絞る悲鳴。なんと甘美なものよ」
苦悶の表情を浮かべたまま、石化していくカスミ。
「今日は気分が良いからの。いつもより時間をかけて石化させてやろう」
どれ、とシーメデューサはまだ生身のカスミの肌に触れ、ゆっくりと視線をずらしていく。視線が動くたびに、石となる部分が増えていく。しかし恐怖を喰らう生き物は、意識だけはしっかりと保つようにしているのかカスミからは終始恐怖の感情が漏れ出していた。
「弄ぶのはやめてください」
「それは妾たちの勝手じゃ。そなたたちは生贄。口答えなど許される身分ではないわ」
うるさいのう、とシーメデューサはカチリと視線をイアルに合わせる。その瞬間、イアルは喉が裂けるのではないかというくらいの声を張り上げ、一気に体を強張らせた。ほぼ全身がその一瞬で石化し、喉から上だけがかろうじて生身を保っていた。
イアルは絶叫し続け、気が狂いそうな恐怖に涙をこぼした。
「そうじゃ、その悲鳴こそ妾たちのご馳走じゃ」
先に喰らってやろう、と舌なめずりをし近づくとイアルの零れ落ちる涙を舌先で舐め取った。ズズッ、と目の端まで舐め取るとイアルの体は完全に石となり動きを止めた。
もうイアルの意識はない。
カスミの振り絞る声だけがその場に響き渡り、それもゆっくりと消えていく。
「もっと恐怖に顔を歪めるがいい。心の臓も動きを止めるその瞬間まで、妾たちに力を」
たくさんの笑い声が響いてきて、それはカスミを取り囲む。何人ものシーメデューサがカスミの恐怖を喰らおうと群がった。
すべてが石化するまで恐怖を毟り取られたカスミは醜い姿のままシーメデューサたちの住処の入り口に飾られる。そして反対側にはイアルの姿もあった。これはシーメデューサたちの習性で、一番今までで美味だった人物たちの石像をその場に飾るというものだった。
夏の海へと気分転換に向かった二人は、史上最高の恐怖と引き換えに海の中で石像となったのだった。
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