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<東京怪談ノベル(シングル)>


夜陰挿話

 死が、今や高らかに足音を立てて近付いて来ているのを、辰川・幸輔(たつかわ・こうすけ)は悟っていた。
 己が負った外傷を確かめるまでもない。あの男に撃ち込まれた弾丸が、これ以上なく見事に幸助の肉を引き裂き、致命傷になっているのは、やられた幸輔自身が誰よりも良く解っている。
 刻一刻と身体の中から流れ出していく、生命の証。鉄臭くて温かい、真紅の液体がゆっくりとアスファルトに広がっていくたびに、幸輔の身体は対照的に冷たく凍えていく。
 けれどももはや幸輔には、指の1本すら動かす気力は残って居なかった。撃たれた衝撃でアスファルトに転がったまま、ただ、遠からず訪れる死を待つより術がなくて。

(クソ‥‥ッ)

 胸の内で毒吐いた。死ぬのが恐ろしいのではない。そんなものは、こんな生業だ、とっくに覚悟は出来ているし――命を惜しいと思った事も、正直なところ余り、ない。
 だから幸輔が毒吐いたのは、ただ、このまま何の甲斐もなく死に行くのが未練で仕方がなかったからだ。繁華街の裏路地は、夜も遅いとあってなまじな者は近付きもしないせいで、辺りに充満する血と硝煙の匂いも、誰にも気付かれないままだ。
 それは、けれども悪い事ではない。極道者は極道者、ある程度のヤンチャは仕方ねぇが、素人さんに迷惑だけはかけちゃいけねぇ――いつだったかそう言っていた、親父の言葉が今夜もまた守られた、その証だからだ。
 けれども――

「‥‥‥ッ」

 朦朧とした意識の中で、苦しく荒い息を吐く。けれども何かを孕んだような静寂は、死に行く幸輔をただ包み込んでいて、そんな音ですらも不気味な闇の中に飲み込んでしまう。
 遠くに、繁華街の喧騒が聞こえた。だが気のせいかも知れない。そろそろ、暗闇だというだけでなく視界が暗くなってきたし、変な耳鳴りも聞こえてきた。

(俺ァ‥‥)

 一体何をしてきたのだろうと。何をしているのだろうと。
 思う幸輔の視界の中に、かつて自分に『許して』と謝り泣いた人の面影が、確かに現れた気がした。





 すべての始まりは、幸輔が生まれた頃にあった。その頃、幸輔の父は母と生まれたばかりの幸輔を捨て、家を出て行ったのだという。
 もちろん、当時赤ん坊に過ぎなかった幸助が、その頃の事を覚えているはずもない。けれども物心ついた時から、もしかしたらつく前からも母に、何度も何度も恨み節で聞かされたその情景は、今でも鮮やかに思い描ける。
 みっともなく泣き喚き、縋り、脅し、どうか捨てないでと懇願する母。そんな母を一顧だにせず、家を出て行った顔も知らぬ父。放り出され、泣き喚く赤ん坊。
 母が父を心底好いていたのは、その話からも、それ以外の、例えば大切に仕舞い込まれた父の衣類やそんな物からだって、容易に想像出来た。だからこそ――幸輔が生まれてしまったばっかりに、父が自分を見捨てて出て行ってしまったのだと考えるのも、理解は、出来た。
 だから。

「アンタなんか産まなきゃ‥‥ッ!」

 酒に酔い、薬に溺れ、父を失った事を嘆き悲しみ、その怒りの全てを幸輔にぶつける母を、恨んだことは実の所、あまりない。ほんの一瞬の憎しみや怒り、そんな感情がまったくなかったかと言えばきっと嘘になるだろうけれども、思い返す限り、殆ど覚えがなくて。
 顔を歪め、アンタのせいで捨てられたと怒り、罵り、その衝動に任せて強か殴る母。鬼女の如き形相で幼い幸輔の髪を掴んで引きずり倒し、髪を振り乱して圧し掛かってきて、胸倉を掴み上げて抵抗を封じ、両頬を容赦なく殴打する。
 ――けれども酒や薬の酩酊から冷めれば、母はいつも泣きながら幸輔に謝るばかりだったから。

「幸輔、ごめんねぇ‥‥母さんを許してね‥‥‥」

 そうしてほろほろ、ほろほろ泣きじゃくる母は、まるで小さな子供のように感じられて、ただひたすら哀れだった。ああ、この人は本当に父が好きなのだと、傷ついているのだと、そう思うとほんの僅か浮かび上がった怒りも消えうせ、だいじょうぶ、と首を振る。
 だから、母を嫌った事は一度もなかった。酒と薬さえやらなければさほど悪い人ではなく、むしろ可哀想な、可哀想な人だった。
 自分さえ居なければ母に父を失わせずに済んだのだろうか、そう考えたことも一度や二度ではなかったし、例え自分が居なくともいずれ父は母を捨てたのだろうかと、考えたことも同じくらいある。自分を殴る事で母の気が少しでも紛れるのなら、それで良いという気持ちだって確かにあった。
 本来的に、幼い子供にとって母親は絶対者だという。だからこそ相依存の関係が生まれ、家庭内虐待が続くのだと――幸輔にそんな難しい事は判らないが、誰だったかが話していた事はある。
 ならば、あの頃の自分はきっと、そうだったのだろう。少なくとも母の暴力に抵抗する気すら起きず、哀れむのみだった自分の中のどこかにはきっと、母に逆らって捨てられる事を恐れる気持ちもあっただろう。
 学校ではヤクザと娼婦の息子というだけでいじめられていて、居場所などどこにもなかった。教師達も厄介ごとには関わりたくないと、見て見ぬフリをしていたから、それがますます子供達に『自分達は正しいのだ』という認識を与え、いじめもエスカレートする一方で。
 絶望は、覚えなかった。それが絶望という感情なのだと、知らずにいた。どこにも居場所はなく、どこにも救いはなく、けれども何もかも仕方のない事なのだと諦めていた。
 そうしてこのまま、閉じられた歪んだ世界が続いて行くのだと――あの日までは信じていた。





 すべてが崩れ落ちたのは、幸輔が14歳になってしばらくしてからの事だ。その頃になってもまだ、幸輔を取り巻く世界は変わり映えもせず、どころかますます狂った様に軋みを上げる一方だった。
 その1つには、幸輔自身が成長するに従って、どうやらどんどんと父に似て行ったらしい事が原因だ。父の写真を見た事など殆どないが、それでも母を始め、父を知る者が見ればちょっと動きを止める程度には、自分の容貌は父に似ていたらしかった。
 中でも、一番影響を浮けたのはやはり、母だ。成長するに従って母の暴力は殴るだけではすまなくなって行き、幸輔の身体に刻まれた生々しい傷も、それに従って増えて行く一方だった。
 蹴る、髪を掴んで引きずり回す、物を投げつけるなどはざらだ。酷い時には風呂桶に顔を付けられたり、圧し掛かられて首を締められた事だってある。
 気絶するまで殴られる事も、その頃は珍しくなくなっていた。けれどもやっぱりその後で、酒と薬の酩酊が覚めれば母は、ごめんと泣いて謝るのだ。

「ごめんねぇ‥‥ごめんねぇ‥‥‥」
「――良いよ、おふくろ」

 そうして泣いて縋る母に、首を振った言葉が本心だったのかどうか、今思い返して見ても良く判らない。けれども少なくとも、幸輔を殴る事で自分自身も心身ともに傷ついて行く母を、哀れむ気持ちは変わって居なかったのだと、思う。
 母にとって自分という存在は、父の化身であり、父の残したたった一つの形見であり、父を奪った憎い存在だったのだろう。だからこそ幸輔に向ける感情は、我が子へと向ける物、自分を捨てた憎い男へ向ける物、心底好いた愛しい男に向ける物、自分から愛しい人を奪った憎い仇へ向ける物――あたかも万華鏡のように、くるくると入れ替わった。
 捨てないでと、泣いて縋る母。どうして捨てたのと、恨み言を吐き捨てる母。アンタさえ居なきゃと憎しむ母。母さんを許してと泣きじゃくる母――
 あの日も母は薬をキメていて、現実と幻の境も解らなくなっていた。あの頃はすでに現実に生きていた方が少なかったから、学校から帰ってきたばかりの自分は多分、またか、と思ったのだと思う。
 母さんと、声をかけたら返ってくる、胡乱な眼差し。くすくすと零れる嬌声。ぼさぼさに乱れた髪。下着同然の格好で、だがそれすらも半ばは脱げかけ、だらしなく床に座りこんでいた母。
 いずれ薬の酩酊が薄れれば、幻覚は恐ろしい物となって母に襲い掛かり、また幸輔に手を上げるのだろう。ならば今のうちにどこかへ行こうかと、カバンを置き、幸輔は再び玄関のノブへと手をかける。
 アテなど在りはしなかったが、その頃になればいい加減、町中を適当にぶらついて時間を潰すくらいの知恵はあった。と言って所詮はヤクザと娼婦の息子だ、構ってくる奴らと言えばやはりその筋の人間か、幸輔を自分達とは違う価値のない人間だとみなして鬱憤晴らしや、ゲーム変わりに追い回すような連中しか居なかったけれども。
 それでも、ここに居るよりはマシだと思った。我に返って泣く母の、ぼろぼろになった哀れな姿を見たくなかった。
 けれども――あの時、幸輔は家に居るべきだったのだ。

「‥‥‥る、の‥‥」

 ぶつぶつと呟く母の声と、がちゃん、と何か金属のようなものが触れ合う音、そうしてゆらりと立ち上がった気配を感じて、幸輔は背後を振り返った。そうして、先ほどまで床に座りこんでいた母がゆらりと立ち上がっているのを、見る。
 ぼさぼさに乱れた髪は顔にかかって、どんな表情をしているのか解らなかった。それはいつもの、錯乱状態に陥った母と同じに思えた。

「――おふくろ」
「‥‥タも‥‥アタシを捨てるの‥‥ッ!?」
「‥‥‥ッ!?」

 だから、そう言いながら幸輔を睨みつけ、襲いかかって来た母の手に包丁が握られているのに気付いたのは、間抜けな事に、顔のすれすれを白刃が通り過ぎて行ってからだった。本能的に避けたお陰で、紙一重で助かったのだ。
 ゾクッ、と背筋が震えて母を、明らかに常軌を逸した眼差しで幸輔を見つめてくる人を、見た。そんな幸輔を、彼女が幸輔と認識していたのかどうかは、解らない。
 薬で興奮して、震える手で、握った指が白くなるほど力を入れて、母は幸輔へと包丁を向けていた。哀れな、哀れな姿だった。これほどにこの人は追い詰められていたのか、最初に思ったのはその事だった。
 とはいえ、このまま放っておいては、母が危ない。あの手つきでは間違って自分を刺してしまいかねないし、幸輔を刺して警察沙汰にでもなったらきっと、今度こそこの人は壊れてしまう。
 刺されても良いと、思っていたのかは解らなかった。考える余裕もきっと、なかったのだろう。
 何とか包丁を取り上げようと、幸輔は隙を突いて母の小さな身体に飛びついた。母は、抵抗した。奇声を上げて暴れ、何とか幸輔を振り払おうとした。
 ――そうして。何かの拍子に手に伝わってきた、肉を刺す鈍い感触。母の、断末魔。

「ぎゃ‥‥ッ!」
「‥‥ッ! お、ふく、ろ‥‥?」
「う、ぅ‥‥ぐ‥‥‥ッ」

 揉み合っている間に母の手に在った包丁は、当の母の腹を貫き、抉ったのだ。その感触は、包丁を奪うべく母の手を握っていた幸輔の手にも、もちろん残らず伝わった。
 呆然と、した。一体何が起こったのか――見えてはいるのだけれども、理解がついて来ない。
 救急車とか、警察とか、そんな事すら思いつかず、幸輔はただ母の腹を抉った包丁を握り締め、阿呆の様に母の命が失われて行くのを見つめるだけだった。腹から血がどくどくと流れ出し、台所の床を染めていくのを、ひたすら。
 それからどれ位経ったのだろうか、騒ぎに気付いた近所の住人が呼んだ警察が、苦悶の表情で事切れた母と、母の血に塗れた包丁を握り締め、自らも血に汚れた幸輔を発見した。当然、幸輔が殺したのだろうと決め付ける警察に、けれども幸輔も否定はしなかった。
 だって、母の腹を抉ったのは自分だった事に間違いは、ない。たとえ殺すつもりはなかったとしても、母の命を経ったのは間違いなく自分なのだ。
 今度こそ、どこからも居場所がなくなった。親戚なんてものはない。学校も保身と、ついでにこの機会に厄介払いをしたかったのだろう、幸輔がいかに学校内でも問題の生徒だったかを世間に主張し、生徒達やその親までも『いつかやると思ってた』『一緒の学校に通うのが怖かった』などと言い始める。
 世間なんてそんなものだと、解っていたはずの事を改めて突きつけられて、乾いた笑いすら零れなかった。こんな息子に殺された、母の幸いを思う。あの哀れな人の幸いは、一体どこにあったのだろう――少なくとも、息子に刺し殺されて人生を終えるなんて、思っても居なかったに違いない。
 何もかもがどうでも良かった。どうせこの世に救いはなく、どうせこの世に慈悲はない。ならばこのまま墜ちる所まで堕ちてしまえば良い、そう思っていた――そんな頃。

「だったらお前ェ、うちに来るか」

 幸輔にそう言った、物好きな男が居た。当たり前の笑顔で、朗らかに。誰もが顔を背け、眉を顰める幸輔を真っ直ぐに見つめて。
 俄かには信じられず、警戒の眼差しになった幸輔に、男はからからと楽しそうに笑った。笑って組んでいた腕を解くと、ほれ、と躊躇いなく幸輔に手を差し伸べてくれたのだ。

「若ェのがそんな目してんじゃ、仁義も通らねェってもんだ。うちァ大きかねぇが、お前ェの居場所になるくらいは出来るさ」
「――組に箔でもつけようってのか?」
「ははッ。その程度じゃ箔にもならねぇよ」

 疑う幸輔の言葉に、返って来る言葉はあくまで軽快で、どこか親しみを感じさせる。その手を、取ってしまいたい衝動。だが、どうせコイツも厄介になれば放り出すに違いない、という疑念。
 そんな幸輔の内心を見透かしたように、男はただ、曇りなく笑った。

「うちに来て、俺の息子になりな。何があっても、俺ぁお前の味方だ」

 その、偽りのない響き。初めて向けられる、衒いのない真っ直ぐな感情。――無条件の親愛。
 ふ、と。その感情が胸の奥にまで染み渡ったとき、込み上げてきたものが、あった。

「ぅ‥‥ぁ‥‥ああああぁぁぁぁぁ‥‥ッ!」

 その衝動を堪える術も知らず、幸輔は男に縋りついて号泣する。号泣し、言葉にならない叫び声を上げ続ける幸輔の肩を、宥めるでもなくぽんぽんと叩く男の手の暖かさに、また衝動が込み上げて来る。
 初めて、人前で泣いた。――初めて、救われた。
 この人の為なら何でもしよう、この人が望むことなら何でも叶えよう――そう、思った。





 かふッ、と血を吐いて、幸輔は弱々しく笑った。あの日、命ではなく魂を親父に救われた。鳥井組は幸輔を荒っぽくも暖かく迎えてくれ、今では親父の右腕、若頭になって――

(――俺の人生ぁ一体、何だったんだ)

 目から涙が零れた――或いは、視界が真っ赤に染まったところを見れば、血だったのかもしれない。
 甲斐なく死んでいく事に、悔しさしか覚えなかった。あの日救ってくれた親父への恩も、何も返しちゃいないのに。自分を慕ってくれる舎弟の気持ちにも、応えられないままで。
 ましてこの頃、鳥井組を脅かしているのが庭名会の企みだと、ようやく気付いたのが事ここに至ってからときた。せめて、逃がした組員が組にもたらす筈の情報が、役に立てばいいと思うが、十分ではない。
 解っている。判っているのに今、幸輔はただ死を待つ事しか出来ない。何も出来ない――何の意味もない。
 あの日、せっかく救われたのに。――いつもいつも、大切なものは自分の手の中を、甲斐なくすり抜けていくばかりだ。

「‥‥‥ッ」

 胸に浮かんだ名を、呼んだ。一番会いたかった人。今、一番会いたい人。
 けれども声は出ず、かすれた息が唇をヒューヒューと通り抜けていくばかりだった。それにまた血の涙を零して、幸輔は瞳をゆっくり閉じた――





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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【整理番号 /  PC名  / 性別 / 年齢 /     職業     】
 8542   / 辰川・幸輔 / 男  / 36  / 極道一家「鳥井組」若頭

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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いつもお世話になっております、蓮華・水無月でございます。
この度はご発注頂きましてありがとうございました。

息子さんの終わりへと向かう物語、如何でしたでしょうか。
思うままに書き連ねていたら、思った以上にひたすら暗くなりまして、何だか申し訳ございません(土下座
色々とイメージに合わないとか、合わないとか、合わないとかございましたら、いつでもお気軽にリテイクくださいますと幸いです。

息子さんのイメージ通りの、物語の合間を切り取った、挿話の如きノベルになっていれば良いのですけれども。

それでは、これにて失礼致します(深々と