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Encounter of a Woman and a Dog.
リビングを、暖かな光が照らし出していた。柔らかな夕暮れの陽射しが部屋中を染め上げて、まるで茜色の海にたゆたっているような錯覚すら感じられて。
茜の空は、時が経つに連れて夜闇の色と混じり始めて、ラベンダーへと移っていく。その様子を見つめる金本・ミランダの表情は、ひどく穏やかだった。
穏やかで――くつろいでいて。落ち着いているように見えるのは、きっと、『此処』に居るからだ。
彼女と、彼女の『犬』であるヴェルノ・マーズだけが存在する空間。2人だけの部屋。ミランダが今腰をかけている座り心地の良いソファも、ソファと併せてあつらえたローチェストも、その他の様々な調度も、すべてが彼女達がくつろぐためだけに存在している。
その部屋で、茜から闇へと移り行く空を見上げているミランダは、不意に背後から近付く者の気配を感じてそっと、苦笑した。馴染み深い気配は、寝ぼけていたって間違えやしない、ヴェルノのものだ。
だからミランダは微動だにせず、ただ夜に向かう窓の外を眺めていた。ラベンダー色だった空がさらに闇に染まり、夜へと移り行くのを――ただ、静かに。
それはかつて、ヴェルノと出会った時と同じ空。同じような頃合に、同じような空の下で――あの町で彼を見つけて、拾った。
ふと瞳を閉じればあの日の、繁華街の賑わいすら聞こえてくるような気が、した。
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それは、何と言う事のない毎日の繰り返しの中の、何と言う事はない仕事の休憩中の出来事だった。
夕方から夜へと移り変わり行く、繁華街。歩いている客層が目に見えて変わって行き、街を彩る色も、灯りも、気配も、何もかもが変わっていく、混沌の時間。
その中をミランダは、特に見回りと言うわけでもなく、足の向くままに歩いていた。時折、鳥井組の者だったり、そうでなくとも見知った顔がミランダを見て声をかけてくるのに、適当に合わせて幾つかの言葉を交わし、また別れる。
この生活にもすっかり慣れてしまったなと、思うと知らず、苦笑が込み上げてきた。極道組織に身を置くようになったのは、ただ純粋に己の命を守るための選択に過ぎなかったはずなのに、いつの間にか鳥井組の一員として動く事を、自分でも当たり前だと思っている。
それが良い事なのか悪い事なのか、ミランダには判断がつかなかった。鳥井組の一員である以上、それに違和感を覚えていては元も子もない――という意味でなら良い事なのだろうけれども、極道である己に違和感を覚えなくなるのは、果たしてどうなのか。
父母の顔を、祖父母の眼差しを思い出す。彼らから譲り受けた容姿も何もかも、今のミランダは持たないけれども――
(――ん? なんだ)
そんな事を取り止めもなく考えながら歩いていたミランダは、目の前に広がる『いつも通りの夕暮れの光景』の中に不意に違和感を覚え、思考を止めた。感傷に浸りかけた己の頬をひっぱたくように、その違和感の正体を探る。
いつも通りの繁華街。ちらほら街頭に立ち始めた客引きの黒服に、露出の多い衣服で誰かに誘われるのを待っている若い娘。そんな人々と目を併せないように足早に通り過ぎて行く、昼間の住人。怖いもの見たさで足を踏み入れてきた、明らかに余所者と判る一般人――
その中に、路地裏から出てくる数人の男が混じっているのに気付いて、目を留めた。おかしいと、眉を寄せる。
この街の路地裏は、ただ単に繁華街から外れたうら寂しい場所、と言うだけの意味ではない。大通りから一本外れれば、そこには文字通りの闇が広がっているのであり――そうしてありとあらゆる非合法な出来事を深く飲み込み、さらなる深淵へと踏み込んだ者を容赦なく引きずり込む、場所。
かつて、ミランダもあの闇の中で、危うく命を奪われかけた。ミランダだけじゃない、鳥井に身を寄せる者の中には同じように、命からがらあの闇の中から救い出され、けれども他に行くあてもなく留まった者も、珍しくない。
――だから。
(あいつらは‥‥おかしい)
ミランダが目を留めた、その数人の男たちがまず見慣れぬ異国の人間だったことに、彼女は大きな不審を抱いた。ましてその男達が纏っている雰囲気が、明らかに堅気ではないとくれば尚更だ。
ここは鳥井組のシマである。極道にせよマフィアにせよ、闇に生きる者達にとってシマは絶対的な物であり、多くの場合は互いに不可侵を貫くものだ。逆にシマに他の組の者が踏み込めば、最悪は宣戦布告と取られてもおかしくない。
だからこそ、あんな物騒な雰囲気を持つ異国の者が鳥井のシマに――しかも裏路地から出て来るなんて、普通ではありえない事で。となればおそらく、良くても何らかのありがたくないトラブルを持ち込んできた迷惑な客――悪ければ鳥井に仕掛けに来たどこぞのマフィア、と言うことだって考えられる。
(どうすっかね)
男達が繁華街の人々に危害を加えない事を確かめながら、ミランダはしばし、思考を巡らせた。そんなミランダの視界の中で、男たちが懐から、そのガタイからすればちっぽけなおもちゃのように見える携帯を取り出して、どこぞに連絡を取り始める。
だが繋がらなかったのだろう、大仰に頭を振って肩を竦めると、男達は繁華街の外に向かって歩き始めた。その後ろ姿にさらに、後を追うかどうか迷ったものの、意を決してミランダは、彼らが完全に姿を消すのを待つ。
連中を追って正体を突き止める事も考えたが、それよりは、彼らが出てきた路地裏を探った方がよほど上策だろう。どこかに連絡を取った、と言う事は恐らく応援を呼ぼうとしたのだろうし、ならば連中の目的はまだ、路地裏に残されているということになる。
故にミランダは視界から去って行った連中の姿が完全に消えると、素早く辺りを見回して他に注目している者が居ない事を確かめてから、同じ路地裏に急いで、だが慎重に足を踏み入れた。途端、踏み入れた者を押し潰そうとするかの如き薄暗い闇が、彼女をすっぽりと包み込む。
その闇の中で、慎重に辺りの気配を探りながらミランダは、ゆっくりと歩き出した。連中の目的が『何』なのかは解らないにせよ、おおよそ、迷い犬や迷い猫といった穏やかな用件でない事は確かだろう。
ゆっくりと、慎重に。数歩、足を進めたミランダは不意に、鼻腔をくすぐるかすかな血臭に気が付いた。
瞬間、ミランダはとっさに大きく横に跳び退り、元居た場所から距離を取る。と同時に、それまで彼女が居た場所目掛けて、鋭い回し蹴りを放つ!
「チ‥‥‥ッ」
「グフ‥‥‥ッ!?」
――ド‥‥ッ!!
足に伝わる鈍い感触と、男の呻き声。そうして容赦なく吹っ飛ばされて路地裏の壁に叩きつけられる、薄暗い光の中でも明らかにぼろぼろになった男の姿。
――どうやらまだ、勘は鈍ってないらしい。
壁に叩きつけられたきり、動こうといない男の姿にミランダはそう、どこかほっとしながら考えた。――実の所、鳥井の牧歌的な空気に中てられて、むしろ以前よりも平和ボケしたんじゃないかと、少し心配になっていたのだった。
●
思い切り蹴り抜かれた腹を押さえて、男はもはや指1本動かす気力もなく、ぐったりと路地裏の壁にもたれかかった。ずるずると、崩れ落ちそうになるのをぎりぎりで堪える。
全身が心臓になったかのように、どくどくと大きく脈を打っていた。そのたびに、蹴り抜かれた腹だけではなく、手足や背中に負った傷までもが熱と痛みを帯びて自己主張を繰り返し、男を苦しめる。
ぎり、と歯軋りをした。けれどもそれにすら力が入らない事に、彼自身も気付いて、いて。
(情けねぇ‥‥ッ)
歯噛みしながら、痛みに歪む視界の無効に捕らえたのは、1人の女。目の覚めるような金の髪を持ち、剣呑な光を湛えたグリーンアイズで彼を値踏みするように見ている――たった今、彼の腹を蹴り抜いた女。
その事実を噛み締めてまた、彼は悔しさと、情けなさに歯噛みした。こんな女にと思い、目の前の女を『こんな女』と侮った己の不甲斐なさを、思う。
(まったく‥‥情けねぇ‥‥)
身を置いていた組織から逃亡しようとして、ヘマを踏んで深手を負って、こんな所までしつこく追いかけられて。何とか追っ手の目を逃れる事に成功したかと思えば、逃亡資金を頂戴しようと狙った女に返り討ちを食らって、このザマ。
ヘマを踏んだことも情けなければ、こんな何処とも知れない、人影もない薄暗い場所まで追っ手をまけなかったのも情けない。おまけに、たかが女と侮って相手の力量を図り損ねるなど、愚の骨頂。
もしも彼が、誰か別の者が同じようなヘマを踏んだと聞いたなら、心底笑い飛ばしたに違いなかった。だからこそ己が情けなく、呪わしく、自嘲するより他がない。
ゆえに男は血色に染まった唾を吐き捨て、怨嗟の呻きを上げた。
「Damn‥‥!」
苛立ちと怒りと自己嫌悪は、収まるどころか増していく一方だ。動けるならば辺り構わず暴れ回って、手当たり次第に破壊しまわっていた事だろう。
そんな彼の、全身から立ち上る苛立ちのオーラに気付いていたものか、女の眼差しが不意に、値踏みするそれから不可解な色へと変わった。けれどもその色を何と表現するべきなのか、男には解らない。
だからただ不審に、不信に睨んだ男を、確かめるように女がゆっくりと近付いてきた。慎重に、けれどもどこか無造作に。
彼が手を伸ばしても届かない、ギリギリの距離まで近づいてきて、女が紅を引いた唇を開く。
「‥‥あんた、名前は? 国は?」
そうして尋ねてきた言葉に、瞬間、胸の奥から込み上げてきた感情を抑える術も、男には解らなかった。胸の中に渦巻く自嘲がより一層激しさを増し、その衝動に突き動かされるように男は唇を皮肉に歪める。
全身を苛む痛みを堪えながら、血反吐と共に吐き捨てた。
「はッ、俺みたいな奴には‥‥居場所も、帰る場所も‥‥何もねぇさ‥‥!」
親も居なければ、そもそも故郷なんてものもない。物心ついた頃から暮らしていたスラムは、故郷なんて暖かな言葉で呼べるような街ではなく、常に犯罪と死が隣り合わせにある、気の抜けない場所だった。
名前だって、今まで使っていたものは組織に入ってから与えられたり、自分でその時々に都合良く名乗ったりしたものばかり。それだって組織を抜けた時に無くなったし――あの場所から逃げた事で、辛うじて『居ても良かった』場所さえ失った。
それを、悔やんでいる訳ではない。組織を抜けると決めた時点で、あの場所はすでに彼の居場所ではなかった。だから抜けると決めたのだし、それは今だって変わらない。
けれども――
「‥‥そうか。何もないって言うなら、あたしの所に来な」
皮肉と自嘲と憤怒と諦念と、あらゆる感情で吐き捨てた言葉に、なぜか女は笑みを浮かべてそう言った。彼を馬鹿にしているのでもない、だったらどんな意味が込められているのか、彼には理解出来ない――そんな笑み。
けれども少なくとも、その笑みに嫌な感じは覚えなかった。彼を見下したり、馬鹿にしたり、自分勝手に同情したりする人間が浮かべるような、そんな笑みとは種類の違う物だと、解った。
その意味を、探ろうとする。けれどもその答えはどうやっても彼の中に見出せず、その事がまた情けなくて眼差しを落とす。
女の言葉が闇の中、静かに耳に響いた。
「あたしがあんたの居場所になってやるさ」
「‥‥‥」
「名前は‥‥そうだな‥‥。――ヴェルノ。ヴェルノ=マーズ。良い名だろ?」
からりとした口調でそう言ってから、女は彼の反応を待つかのように口を閉ざす。路地裏に降り積もる沈黙が、痛いほどに彼らを包み込んで、遠くから聞こえてくる喧騒を切り離す。
夕闇に、沈む小汚い場所で。全身を銃創や打撲や切創や、その他の様々な傷が発する熱と痛みに苛まれて。
暫しの沈黙の後、ようやく彼は眼差しを上げ、沈黙した女へと向けた。そこに女はまだ立っていて、彼の眼差しを正面からしっかり捕らえ、グリーンアイズに笑みを浮かべる。
その感情の名を、彼は知らない。けれども、向けられるその感情は、今までに感じたどれとも違ってただ、心地良い。
てらいなく真っ直ぐに、押し付けですらなく当たり前に、あんたの居場所になってやろうと言った女。
(あぁ‥‥‥)
彼女の後ろにいつしか浮かぶ、月が酷く美しかった。月の光に照らされて、女の髪が冴え冴えと黄金に輝き、眩しさに目を細める。
そんな男に向かって真っすぐに、その人は美しい月を背負い、手を差し出してきたのだった――
●
「ミラさん?」
物思いに囚われて、動かない彼女に焦れたようなヴェルノに抱きつかれ、ミランダは我に返った。気付けばいつしか空には月が登っていて、夕暮れに染まっていた部屋の中を、柔らかな金の光で染め上げている。
どうしたのかと、問いかけるように抱き付く腕に力を込めてくるヴェルノに、苦笑した。あの日、まさしく手負いの獣のように路地裏の闇の中に沈んで彼女を睨んでいた男は、今では誰よりも彼女に忠実な『飼い犬』だ。
可愛い、可愛い。大切な、彼女の新しい『家族』。
そんなヴェルノの頭をくしゃりと撫でて、ミランダは彼の耳元で細く笑った。
「ちょっと、出会った頃を思い出してた」
「――そっか」
その言葉に、ヴェルノは小さく呟いて頷くと、まさしく犬がじゃれかかる様にミランダに頬をすり寄せてくる。頬をすり寄せ、抱き付く腕に力を込めて、甘えるように全身をぴとりと寄り添わせて――
そんなヴェルノに、苦笑にも似た笑みを浮かべて、ミランダは手櫛で彼の髪をすき、頭を撫でてやる。そうして可愛い『飼い犬』の気が済むまで存分に、愛情を込めて構ってやる『飼い主』を、窓から差し込む月の光がただ、静かに包み込んでいたのだった。
━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業 】
8598 / ヴェルノ・マーズ / 男 / 27 / ミランダの飼い犬
8590 / 金本・ミランダ / 女 / 25 / 会計、犬の主
ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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いつもお世話になっております、蓮華・水無月でございます。
この度はご発注頂きまして、本当にありがとうございました。
飼い犬様が飼い主様に拾われた日の物語、如何でしたでしょうか。
――何でしょう、こう書きますと酷く背徳的な感じが致しまして、なんだか蔵倫大丈夫だろうかと心配になってしまう、小心者の蓮華です(何
内容はシリアスなのに、何故でしょう‥‥シリアス、ですよね?(なぜ聞く
色々とイメージに合わないとか、そんな内容じゃないとか、イメージに合わないとか、ございましたらいつでもお気軽にリテイクくださいますと幸いです。
お2人のイメージ通りの、新たな日々の始まりを思い起こすノベルになっていれば良いのですけれども。
それでは、これにて失礼致します(深々と
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