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<東京怪談ノベル(シングル)>


祈り

 ものものしい装甲車が、深夜のビジネス街を走る。付近の公道はこれから行われる作戦行動のために全て封鎖されていた。一夜とはいえ大都会の血管である道路を完全封鎖する、これほどの大技をなし得る存在は限られている。今宵の街を支配した絶対権力の名を、『教会』と言った。装甲車はうなりを上げて走り、そして一つの高層ビルの前で止まった。扉が開くと、白い姿が舞うように降り立った。無骨な鉄の塊から出てくるなど、およそ想像もつかないような美しい若い女である。女は丈の長い黒いドレスを身に纏っていたが、衣装の上からでも素晴らしいプロポーションを持っていることがわかった。
「白鳥審問官。お気をつけて」
 完全武装の男性教会員が、女に敬礼する。同乗の男たちもそれに倣った。このビルの中には恐るべき敵がいるはずなのだが、その殲滅に向かうのはこの屈強な男たちではなく、彼らが敬礼を捧げる娘であった。若干21歳にして『教会』最強の武装審問官、白鳥・瑞科。彼女は並の人間では倒せぬ敵にただ一人立ち向かおうとしていた。麗しい乙女の姿をしてはいるが、彼女の戦闘力は一個の戦術兵器に匹敵する。誰もが瑞科の勝利を確信していた。お気をつけて、の挨拶は形式的なものに過ぎない。
「付近の方々はどうなっていますの?」
「避難させてあります」
短く問い、一般人の安否を再確認すると、若い女――瑞科はビルに向かって歩みだす。その姿を教会員は静かに見送った。しずしずと歩む姿は、ドレスのシルエットもあいまって、敬虔な修道女のようにしか見えない。もし、こんな世の中でなかったら。『教会』が瑞科を見出さなかったら。彼女は心優しきシスターとして、穏やかな人生を送っていたのかもしれない。決してかなわぬ絵空事を思いながら、彼らは黙って瑞科の背を見守るしかなかった。

 白く長い手袋に覆われた手が、黒いスカートに触れる。太腿の際まで深く切れ込んだ両のスリットに指を差し込み、ドレスとソックスを軽く整えた。続いて手袋の上からつけられた革のグローブのバンドを絞めなおす。どちらも戦いとは無縁に思われる、レースや刺繍による美しい装飾が施されていた。うつむく瑞科の栗色の髪とその横顔を、白いヴェールが覆う。薄絹越しにその表情を読み取ることはできなかった。
「瑞科ちゃん。がんばってね。あなたは女の子なのよ? 無茶しちゃだめよ」
ドレスの胸元に視線を落とすと、小柄な困り眉の女性の顔と、その声が頭に浮かぶ。この新型戦闘服を開発するため、心血を注いでくれた開発部の主任。瑞科の戦闘力を知りながらも、いつも年下の女の子として気遣ってくれ、妹のように接してくれる彼女の思いがこのドレスにはこもっている。シスター服と同じ、ゆったりした白いケープの下の胸からウエスト、腕までは、ぴったりと黒いドレスの生地が覆い、ダンサーのように強さとしなやかさを併せ持った体と、その上に乗った豊満なバストを強調していた。こぼれ落ちそうな瑞科のたわわな胸は、強靭で伸縮性に優れた特殊素材と、その内側に張られたパワーネットに支えられ、先のツンと尖った魅惑の曲線を見せている。素材が生み出す鈍い光沢が、艶かしいボディラインを闇の中に浮き上がらせていた。機能性と美しさを兼ね備えるアクセントとして、胸のすぐ下には同じ色の強化コルセットが締められている。瑞科の好む花のデザインがあしらわれたコルセットは、ウエストを力強く支えると同時に、彼女の中に潜む凶暴なまでの力を戒めているようでもあった。タイトに包まれた細いウエストからは、張り出たまろやかなヒップラインと、スリットの際どいロングスカートが続く。左のスリットは、腰に下げた小剣の剣帯と鞘で押さえられていた。
 白いブーツの足が一歩前に出る。少し遅れてビルの床に澄んだ靴音が響いた。上階には排除すべき敵はない。誰もいない受付ロビーを過ぎて、エレベーターのボタンを押す。行き先は地下10階だった。片耳につけた通信機が状況を伝える。
『ターゲットは恐らく想定していた場所にいるはずです。予定通りの作戦行動をお願いします』
「了解いたしましたわ」
瑞科の答えと同時に、エレベーターは目標階に到着した。

 表向きは国際的な製薬会社、その本社ビル。だがその実態は――。瑞科は『教会』の用意したカードキーでロックを次々と開け、地上階とはうって変わって非現実的な雰囲気の地下フロアを進んで行く。毒性、放射線、バイオハザードなど種々のハザードシンボルが掲げられ、青白い光が天井から壁、床へと投げかけられている。長い廊下には人影もなく、英字と数字で分けられた無機質な扉が転々と続くばかりだ。
『ビルの周囲はすべて包囲しました』
屋外の作戦部隊からの報告が届く。瑞科はまっすぐに、目的地である最奥部の部屋を目指した。カードキーをスロットに差し込み、すいと引き下ろすと何の警告もなく扉は開いた。室内は不気味なほどに明るく、こうこうと不気味な機器が照らされている。天井まで届く高さの何本ものチューブは、まるで巨大な試験管のようだった。互いに連結されたそれは、濁った液体で満たされている。瑞科は臆することなく前へ進んだ。その先には、中年を過ぎ、初老に差しかかろうかという白衣の男が立っていた。
「では、君が『教会』の人間兵器と言うわけだね。お嬢さん」
驚く様子もなく、耳障りな低い声で語りかける。
「その通りですわ。審問官、白鳥・瑞科と申します」
黒いドレスの裾がふわりと広がる。宮廷婦人のような礼を一つ。頭を上げた瑞科の顔には、優雅な所作には似合わぬ厳しい怒りが表されていた。
「今すぐ投降なさいませ。施設を明け渡し、子供たちを解放していただけますかしら」
「何のことかな」
知らぬ振りを決め込む男の、口の端がわずかにつり上がる。
「わたくしがここに来た意味、ご存知でいらっしゃるのでしょう?」
答えぬ男に、彼女は言葉を続ける。
「ここ一帯は『教会』が封鎖、包囲しております。このビルに残っている人間はもういませんわ。あなたと同じ、許されざる計画に加担していた科学者たちもすでに捕らえました」
耳の痛くなるような静寂、沈黙。それを破ったのはまたも瑞科であった。
「一人逃げ場もない研究室に残って、どうするおつもりでしたの?」
「……逃げ場など要らないのだよ」
老いかけた科学者の答えは、瑞科を驚かせた。
「凡人にはこれが人類の新時代を拓くものだとはわかるまい。君たち『教会』はあまりに了見が狭すぎ、それでいてしつこいと来ている。我々はさっさと逃げさせてもらう。これ以上相手をする気はないんだよ」
企業の研究は、人間や動物と魍魎を掛け合わせ新たな生物を――意のままに動く半不死の兵を作り出すためのものなのだ。『教会』が動き出したのは、この研究に関わるもの全てを消し去るためであった。そのおぞましい計画を担った人間が目の前にいる。それを承知の上で来たはずなのに、瑞科の心には抑えきれないほどの怒りが湧き上がってくる。
「生物を作り変えるなんて! 神に、自然の摂理に逆らう行為ですわ!」
「何度話しても同じことだな。……まあいい。干からびた太古の教義を信奉する君たちは、気に入らないものは叩き潰さねば気に食わないのだろう? 私の命はくれてやろう。遠慮なく殺すといい。だが!」
自嘲するような男の言葉は次第に力強い叫びとなる。
「ただでは死なんよ、『教会』最強の武装審問官よ! 君と我が最高の研究成果、どちらが優れているか見させてもらおう!」
白衣のポケットから取り出したスイッチを押す。動きに感づいた瑞科の指先からは、鋭い重力弾が放たれた。肺に耐えられないほどの圧力を受け、男の口から鮮血があふれ出る。陥没した胸を押さえ、倒れこみながら、それでも科学者の指はスイッチを押しきることに成功した。
「君たちへの生贄は私だけで充分だ……。我が研究は後継者に託された。追えるものなら、追って、みる、が……い……」
笑いとも、咳ともつかぬ音を立て、もう一度血を吐き出すと狂った科学者は事切れた。

 途端左右の壁を覆う機器が動き出し、繋がれていた巨大なチューブから水が抜き取られていく。不透明な液体が取り除かれた空間から現れたのは、見るもおぞましい物体、いや、生物だった。四足獣に触覚と触手、余分な足や腕を最も嫌悪感を抱かせる形で取り付けた不気味な形。何より汚らわしいことに、その顔だけは人間によく似ていた。ひょっとして、人間も素材の一つとして含まれているのかもしれない。だが、もはや真実を教えてくれる人間はこの場にはいなかった。瑞科の周りを取り囲むのは、生命を冒涜する所業によって産み出された悪夢のキメラが十数体。あるものは這いずり、のたくりながら、あるものは尖った爪音を立てながら、じわじわと彼女に迫りつつあった。獣の立てる不快な唸りが、瑞科には助けを求めて苦しむ声のように聞こえた。
(「許せない……。許せませんわ、このようなこと!」)
 瑞科をはるか上から見下ろす怪物の腕が、その巨体に見合わぬ速度で振り下ろされる。同時に、あるいはそれより数瞬早く、黒いドレスの裾が舞う。乙女のいた場所に異形の拳が打ち付けられ、骨の砕ける音がした。およそ血液とは思われない黒い粘液が床に散る。瑞科は軽やかに怪物の上空に跳躍していた。背を弓なりに反らし、棒高跳びの選手のような美しいフォルムを描いて瑞科は回転する。豊かな胸が天へとそそり立ち、スカートが戦旗のごとくはためいた。白いレースのヴェールが戦乙女の顔を一瞬覆う。自分の起こした風で薄絹が払われ、再び見えた瑞科の顔には、諦めと悲しみが浮かんでいた。
(「この生物たちが、何から、何のために生み出されたのか。わたくしはそれを知ることなく、ただ殲滅を行わなければならないのですわね……」)
それが使命。それが任務。だがこの割り切れない思いは消し去ることができない。瑞科はこの感情が『憐れみ』であることをよく知っていた。
(「わたくしにできること、それは――)」
一つの腕を失っても、怪物にはまだ三本の腕が残されている。まるで痛みなど知らぬかのようにゆっくりと向き直り、残った腕を宙の瑞科へと伸ばして来た。その動きを合図とするかのように、他の異形どもも躍りかかる。瑞科は落下しながら鞘から小剣を抜き放つ。白いブーツの足が床を叩くと同時に、怪物の腕は一本を残して切り落とされた。背後からの長い角の一撃を身を低くしてかわし、振り向きざまに黒い血で染まった剣を異形の肉体に叩き込む。傾ぐ巨体から引き抜かれた剣は、体液で汚れてはいるものの刃こぼれ一つない。そのまま剣を掲げるように振り上げると、さらに後ろから迫っていた鞭のような触手が二本、三本と切り裂かれ、用を成さない肉片となって落ちた。瑞科は敵を目視することすらしない。大きな異形の体が空気を揺らす、その気配だけを感じ取って敵を切り裂いていった。
(「この哀れな怪物たちの命を終わらせてやることだけですわ!」)
心の中で、呪われた生を受けた異形たちのために涙を流す。悲しい決意と共に、若き女審問官の握り締めた剣がひらめいた。天井灯の強い光を受けた刃の軌跡が一閃、また一閃。体をひねり、勢いをつけた瑞科の一突きが鱗の怪物の腹にめり込んでいく。半ばほど埋まった銀の刃から、瞬時目の眩むような雷撃がほとばしったかと思うと、内側から焼かれた巨体が地響きを立てて沈んだ。己の放った魔力の稲妻にも、怪物たちの飛び散る黒い血にも汚されることなく、瑞科の手袋とケープは白い輝きを保っていた。瑞科の体は、その装備も含めて、今まで戦ったどんな相手にも傷つけられたことがない。彼女自身が聖域であるかのごとく、邪なものが触れることを決して許さなかったのだ。

 まぶしい光を受けて立つ、瑞科のグラマラスな肢体は妖艶でありながら、ある種の神々しさすら感じさせる。瑞科のただ一人で完璧な肉体と、生命の掛け合わせによって生まれた醜悪な怪物たちとの対比は残酷な現実を表していた。すなわち、美しい者が勝者となる。
 長く太い尾の一撃を、瑞科は事もなげにバックフリップでかわす。艶かしく露わになった片足で敵を蹴り上げ、立ち上がる上体に覆いかぶさろうとする半魚人めいた異形に手のひらをかざす。獣に『待て』と命令するように向けられた白いグローブの前の空気が黒くよどみ、歪む。何もないところから生じた重力の塊が、目の離れた異様な顔に命中し、大きな穴を穿った。倒れる姿に振り向くことなく、瑞科は新たなターゲットに向き直る。細腕から繰り出される攻撃は、ことごとく雷撃や重力を纏っており、見かけよりもずっと重い。豊満な胸は格闘戦の弱点になるかと思われたが、特殊素材のドレスにしっかりと包まれ、動きに隙を作ることは決してなかった。一方スリットで前後に分けられたスカートは巧みな足捌きと強烈な蹴りによって奔放に舞い、その姿を変える。長いソックスの覆わぬ、太腿の際どいラインまでを惜しげもなく晒した瑞科の足技に、合成生物たちは次々となぎ倒されていった。重い体が観測機器やチューブと激突し、研究所の設備が破壊されるけたたましい音、そして獣の苦悶の声が地下研究所を満たす。耳をつんざくような騒音に刺激されたか、残りの怪物たちはいきり立ち、狂おしい叫びとともに瑞科にその腕を、角を、棘のある触手を一斉に伸ばす。異形の巨体に覆われて、たちまちその姿は見えなくなってしまった。
 もしこの場で戦いを見ている者があったなら、若き女審問官の倒れ伏す姿を想像したかもしれない。そしてすぐに、そのような想像はありえないものであったことに気づくだろう。空のない地下に青い雷撃が落ち、目障りなほど明るかった照明が全て消える。刹那の闇のあと、異形の者たちの塊の内側から、同じ色をした稲光がほとばしった。弾け飛ぶ巨体から現れたのは、稲妻の輝きに包まれた瑞科その人。美しい髪や肌はもちろん、戦うために作られた、乙女の美しさを際立たせるドレスには傷どころか汚れの一片も見当たらない。辺りには肉や毛の焦げる不快な臭いと、独特のオゾン臭が立ち込める。程なくして電源が復旧すると、換気ファンの回転するけたたましい音が部屋に響いた。明るくなった室内には、もはやぴくりとも動かなくなった合成生物たちが転がっている。
『拘束した科学者から、少年少女の監禁位置を得ました。ただ今救出に向かっています』
 作戦終了を知った情報班からの通信に、瑞科はほっとする。小さくブーツのかかとを鳴らして、壁にもたれるようにして死んでいる怪物に歩み寄ると、かがみこんでその醜い姿を静かに見つめた。トカゲ、獣、鳥……複数の動物の特徴をみとめた彼女は、四足歩行の足の下から生え出た何かに気づく。そこからは、小さく細い、人間の手が生え出ていた。何かを探るように伸ばし、指を少し曲げた形で硬直している。瑞科は全てを悟り、右の手袋をそっと外す。柔らかな白い手が、命を失い固くこわばった手を、そっと握った。
『白鳥審問官。任務達成ですね? 現在地点を――』
瑞科は通信には答えない。異形の屍の山の前に一人跪き、いつまでも鎮魂の祈りを捧げ続けていた。