コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


裁き、そして解放の時

 水嶋・琴美はついぞないほど高揚していた。巨悪の魍魎教団を討つ機会を得たことに。また、激しく怒っていた。醒めない悪夢を罪なき人々に強制したその所業に。
 教団の真の本拠地を突き止めたと知るや、琴美は自ら任務に志願した。それどころか機動課のあらゆる支援を拒否し、全ての作戦行動を一人で行うことを主張したのだった。いかに琴美が無敗の戦士だとはいえ、単独出撃を許可できるわけがない。自衛隊特務統合機動課は琴美の思わぬ進言に大いに困惑し、説得に継ぐ説得を重ねた。結局、刻々と失われる時間が彼らの決断を早めることとなった。話し合っているうちに、教団がこちらの動向に感づいてしまっては全てが無駄になりかねない。前線には出ないが、機動課は目標から離れ、陸と空の2つのポイントにて待機する。琴美からの指示があった場合に限り、突入する。作戦後の処理は全体で行う。この妥協案を琴美は了承した。こうして彼女が独りこの場に立つまでには、作戦室で上司たちを相手取っての大論争があったのだ。
 琴美は見た。人の心につけ込んで多数の信者を生み出し、そして道具として使い捨てた、残酷な教団のやり口を。倒れてもなお、『魍魎様』への祈りをつぶやき続ける者たちに、琴美は戦慄した。なお許しがたく悲しいのは、教団の本性に気づいてしまった元信者たちの苦しむ姿を目の当たりにしたことだった。信じていたものがまやかしであったことを知った人々の絶望はいかばかりか。
 悪を許しがたいという正義感もあった。任務達成を第一に動く使命感もあった。そしていつもと同じように、強く凶悪な相手と思う存分戦い、徹底的に滅ぼす――悦び。まっすぐに伸びる黒髪に縁取られた彼女の顔に浮かぶのは昏迷のようでもあり、恍惚のようでもある。琴美の体に流れる血が、これから始まる戦いに反応し、心と体をざわつかせるのだ。古来より闇に潜みて敵を討つ、隠密戦闘のプロフェッショナル集団『忍者』。彼女はその血脈に連なる、現代のくのいちであった。
 転々と居を変え、逃げ続ける教団上層部を追い続け、機動課はじわじわとその勢いを殺いでいった。もう残されているのはわずかな者だけであろう。次に彼らが考えるのは『高飛び』すなわち活動拠点を海外に移し、もう一度悪の芽を育てること。教祖と幹部は日本脱出の準備を着々と整えているはずだ。
「チャンスは今宵のみ、ですわね……」
つぶやくと、琴美は物陰に隠していた身を月明かりの下にさらした。驚くほど長い足は、細く引き締まっていながら、太腿からヒップにかけてはむっちりと張り詰めている。だが美しい肌を垣間見ることは許されない。膝から下は編み上げのブーツに、もっとも興味をそそられる女性らしい腰周りは軽やかなプリーツスカートに覆われているからだ。それでもなお、彼女のプロポーションは実現しうる中で最高の完成度を誇るものであることは容易に想像できた。太腿には無骨なナイフベルトが巻かれ、愛用の武器が収められている。柔らかな女体と冷たい革と鉄の不似合いな組み合わせは不思議な色気をかもし出していた。
上半身も期待を裏切らぬ色香にあふれていた。熟れた果実のようにたわわな胸元を覆うのは、着物に想を得たしたユニークなジャケットだ。動きやすいように半袖に切り落とし、胸下は帯でかっちりと固定されている。和装由来の二つの装備は琴美の出自を想起させるアクセントとして、ひときわ目を引くものだった。帯、上着ともに正絹で、戦士の装備としては少々頼りない。そのため襟の合わせから覗く胸元は特殊素材の黒いインナーでぴったりと包まれ、守られていた。実のところ、体を守る装備はこの忍び乙女には必要のないものであった。彼女がこの黒いスーツに身を包んでいるのは、防御を期待してではなく、より機敏な動きを可能にするためであった。こうでもしないと、豊かな胸が暴れてしまう。
 それにしても、琴美はとてもこれから死地に赴く戦士とは思えない。黒髪はつややかに麗しく流れ、清楚な面差しにふっくらとした桃色の唇、強い意思を秘めて輝く黒曜石のような瞳。これほどまでの美女が立つのがきらびやかなステージではなく、邪悪渦巻く敵の巣窟であるのは、いかな運命のいたずらであったのだろうか。――いや、必然であったろう。山中に築かれた不気味な館へと続く一本の道。もはや森の木々に潜むことをやめた琴美はその真ん中に立ち、わざとらしく開かれた鉄の門をにらみつけていた。月影の元、その姿に誘われるかのように、魍魎教団のシンボルマークの入った胴着姿の人間がばらばらと現れた。手に持つは、棒やスコップ、鉄パイプなど原始的な武器ばかり。まるで農民一揆のようだ。
(「また同じ方法を使いますのね」)
琴美は教会のやり口に呆れ、また新たな怒りを感じた。戦闘経験もない平信者に粗末な武器を持たせ、時間稼ぎをするのは前回と同じ手口だった。まぐれで攻撃がかすればよし。全員倒されても教団上部は痛くもかゆくもない。また、相手は琴美が自衛隊員であり、一般人を本気で殺したりできないことを知っていた。最強の戦闘能力を持つ彼女のたった一つの弱点。教団は巧みにそこを突いてきた。レーダーや能力者の探知によって、まだ数十人の人間が本拠地にいることはわかっていたが、
「これほどまでに平信者を残しているとは予想外でしたわ……」
彼女にとって、これほど扱いにくい敵はない。凶暴凶悪な相手なら、加減なくひねってやればそれで済む。だが、本来は罪ない一般人であり、更正の余地の多い者が立ちふさがるとあっては。迷う琴美の手は、知らずと帯止めの飾りに触れる。帯止めは宝石のように輝く細工で黒百合の花がかたどられたガラス製だ。少しでも攻撃が当たったらぱちりと割れてしまいそうな繊細な花弁を、琴美は自分の心をなだめるかのようにそっと指でなぞった。
「仕方ありませんわね」
じりじりと歩み寄る平信者たちに腹を決め、琴美は一歩前に出る。胸のふくらみに押し上げられてたわむ着物風ジャケットの胸元に手を突っ込み、素早く小さなプラスチック管と防煙フィルタを取り出した。信者の数は20人ほど。動きは雑だが、皆目の前のくのいちを絶対の敵と見なしているようだ。心を食らい尽くす洗脳と狂信に支配され、琴美の色香に惑うものすらいない。琴美は小管を信者たちの足元に投げ、太腿のナイフベルトからくないを引き抜き投げつけた。狙い過たず両刃は管の中心を貫き、あたりにもうもうとしたガスが立ち込める。生物を無力化する特殊な気体を吸い込み、邪教の信徒は次々に地に倒れ伏していった。琴美は素早く帯と胸元の間から、豊満過ぎる胸と胴のギャップを埋めるために、帯の上部を埋めていた鮮やかな帯揚げを抜き取る。勢いをつけて降ると、柔らかな布は張りを持った質感に瞬時に変化した。和装用具の一つであるこの布もまた、最先端素材で作られた琴美専用の戦闘装備の一つであったのだ。防煙フィルタを挟み込み、口元から頭に巻きつけ、端を後ろできつく結ぶ。これぞ女忍者というべき姿になった琴美は、ガスに撒かれて身体の自由を失った敵の間を驚くべきスピードで駆け抜けていった。
 建物右翼の窓を割って敵地に侵入すると、琴美は頭を覆っていた布をするりとほどく。押さえつけられていた長い髪が再び黒く美しい流れを描いた。手早く元通りに帯揚げを締めると、琴美は機動課に通信を行った。
「目標地点に到着いたしましたわ。手前で20人ほどの平信者たちを無力化してあります。ガスで呼吸器をやられているかと思いますので、静かに、早めの救護をお願いいたします」
一息に伝えると大きく息を吸い込み、
「中の敵はわたくしにお任せくださいませ」
と念を押す。短い肯定を聞くと、琴美は悪の居城の奥深くを目指し始めた。

 手刀を喉につき込み、鼻柱を肘で砕くと、二人の敵がくずおれる。掌底で顎先を押された武装信徒が吹き飛び、壁に当たって昏倒する。長い得物での突きを難なくかわすと、胴着の信者の目が驚きに見開かれた。充分なリーチを保っていたはずの女が、一瞬後には自分の目の前にいる。そして彼女の鋭い膝蹴りは、己の腹に深々と食い込んでいるのだった。
「この女、た……只者じゃ、な……教祖さま……」
言葉をしぼり出すと、血を吐きだし、ずしゃりと顔から廊下に叩きつけられた。赤いカーペットが見る間にどす黒い血に染まる。琴美は物音のする方へ、警戒する様子もなく向かった。
 扉が乱暴に開き、続いて飛び出す集団は銃を構えている。琴美は胴着をアーマーに変えた重武装の信徒たちに囲まれた。絶対絶命かと思われる状況にあっても、彼女の顔色には全く変化がない。ほんの少しだけ、形のよい唇がつり上がり、笑みの形を作ったように見えた、その時。
 銃口が火を吹き、臓腑を震わすような筒音が闇にとどろく。弾丸が壁と窓ガラスを砕き、硝煙弾雨が場を支配する。だが女の苦悶の声はない。代わりに豚が潰されるような不快な音を生み出したのは、武装信者たちだった。顎を折られ、ショットガンを弾き飛ばされた男が目にしたのは、黒一色のロングブーツとスパッツに包まれ、高く上げられた女の片足だった。振り上げた風圧で短いプリーツスカートが天女の羽衣のように柔らかく巻き上がり、今まさに元の位置に舞い降りようとしているところだった。肉感的なヒップラインが網膜に焼きついたのを最後に、男の意識はそこで途絶える。倒れる間際細い腕が伸び、男の首からくないが抜き取られる。琴美はその血を払い、新たな目標に向き直った。信者たちは血走った目を見開きたった今、目の前で起こったことが信じられないというような顔をしている。殴ろうが突きかかろうが、攻撃はただの一度も当たらず、銃弾ですら彼女をとらえることはできないのだから。おののく男たちの前に勇ましく立ち、琴美は帯止めのガラス玉をりんと弾いた。場に不似合いな澄んだ音色が闇を渡る。
「あなた方に勝ち目はありませんわ。どうか、無駄な抵抗はおやめくださいな。教祖の元まで案内していただけますかしら?」

 武装信者たちは信仰に縛られているのか、女一人に負けて誇りを傷つけられたのか。最後の一人になるまで琴美の勧告に応じることはなかった。もはや意識があるのが自分だけと悟った時には、男は肩と両の手をくないに貫かれ、木偶人形のように壁に留めつけられていた。足は強烈な蹴り技を受け、すでに骨を砕かれている。
「まだ戦うおつもりですの?」
そう問う琴美の声は淡々としていて、何を思っているのかはうかがい知れない。銃撃を交わし切り、自分の倍もあろうかという武装信徒を倒してなお、疲れている様子もなければ汗の一滴、呼吸の乱れすら見られない。彼女の戦装束も全く損傷してはいなかった。男は悔しげに琴美を見る。
「ば……化け物、め……」
「あなたとはお話をしても無駄のようですわね」
琴美は会話を諦め、教祖の居場所に通じる何かを持っているかもしれないと考えて男の武装をあらためようとした。邪神のシンボルが描かれた壁に磔になった男に近づき、ナイフホルスターと腰のポーチに手を伸ばす。
「むっ、ぐ……ぐあああ!」
ただならぬ苦悶の声に、琴美は反射的にただならぬものを感じ取って飛びすさる。腹の辺りからはごぼごぼと不気味な音が上がっていた。
「うっ、あば、そ、そんな、ききき教祖さ……」
のたうつ男の口から、緑の粘液とグロテスクな塊が現れる。腕に刺さっていたくないが暴れる男の腕から落ちて乾いた金属音を立てた。内側からあふれる肉で、防弾アーマーがばちんと弾け飛ぶ。男は見る間に人間の形を喪失し、だらりと垂れた腕を持つ、不快な生物に変貌していった。

「さすがは琴美さんだ。驚かないのですね」
変わり果てた男――魍魎の背後の通路から、見覚えのある男が現れた。わざとらしく拍手をしている。グロテスクな光景に動じることのなかった琴美の顔には怒りが浮かんだ。先の戦いで取り逃がした、魍魎教団の幹部。『導師』と呼ばれていた男だ。必ず追い詰めると心に決めた宿敵が、今琴美の前に立っていた。
「あなたは!」
「お会いできて嬉しいですよ。さすがは特務機動課の誇る戦士だ。ここまでおいでいただけるとはね」
以前と同じゆったりとした長衣に身を包む壮年導師の顔には、残忍な笑みが浮かんだ。
「ですが今日こそお別れです。その前にあるお方を紹介いたしましょう」
男の立つ、通路の曲がり角から、衣擦れの音がした。ひたひたと足音を立てて人影が現れると、導師はひざまずき、うやうやしくその人物に礼を捧げた。立ち上がった男は大げさな身振りで、今度は琴美に向けて礼をした。
「我等が神聖にして神秘なる、魍魎教団の教祖様であらせられる」
声にうなずき、表情のないまま琴美をまっすぐに見据える老婆。頭巾を深くかぶったこの女性こそが、巨悪の頂点に立つ存在、琴美が追い続けてきた『教祖』であった。教祖は無言のまま琴美を見ている。その視線は細かく揺れ動き、琴美の全身をくまなく観察していることがわかった。教祖の目には気づかぬ振りをして問いかける。
「もう諦めてはいかがかしら? この館にはあなたたちしか残っていませんのよ」
「やれやれ、我等の兵隊をすべて倒してしまうとは。あなたは本当に人間なのですかな?」
導師の吐く言葉に、琴美の怒りがかき立てられる。
「兵隊、ですって? 最初から信者たちは使い捨てにするつもりだったのですわね。この前と同じように」
「どんな人間も同じですとも。教祖様と私さえ無事であれば、またやり直せますからね」
武装信徒の成れの果て、巨大な魍魎がゆらりと立ち上がる。まぶたもなく、むき出しになった二つの目はぎらぎらと凶悪な光を放っていた。獣のような唸り声が判然としない口元から漏れる。
「どうしたのです? 我等の信ずる『魍魎様』がまさかただの絵空事だと思っていたのですか」
面白くてたまらないといった風に、導師はことさらに高く笑ってみせる。今までの紳士を気取った態度をやめ、狂気に満ちた本性を見せ付けるように叫んだ。
「我が教祖様は魍魎様と感応し、その力を顕現するための巫子としての力をお持ちなのだよ!」

「やれ」
と老婆が一言告げると、導師は頭を垂れ、祈るような仕草をして教祖に請う。
「さあ、教祖様。いと高きお方。お力を」
しわだらけの手が、男の頭に触れる。肩が盛り上がり、ローブの袖がちぎれ飛んだ。背が裂け、体全体が発達した筋肉に覆われ膨張してゆく。下衣だけがかろうじて残る導師は、魍魎と人とが混じった異形となって、琴美の前に立ちふさがった。先ほどまでと同じ声で、琴美に最後の挑戦状を叩きつける。
「2対1。ただの魍魎と思うなよ。さあ、どう立ち向かってみせるのかね?」
先に動いたのはかつては武装信徒であった、緑色の魍魎の方だった。上から振り下ろされる腕は、琴美の小さな頭を鷲掴みにしようとする。腕が頭を砕く前に琴美は自ら身を低くし、横ざまに飛ぶ。怪物の影から逃れる動作の合間に、長い足をぐんと伸ばしてアキレス腱のあるはずの場所に蹴りを叩き込む。狙い通りにぶつりという恐ろしい音がして、緑色の怪物はがくりと膝をついた。琴美はすっくと立ち上がり、格闘戦の構えを取る。息をつく間もなく、魍魎導師の攻撃が琴美を襲う。両の手を組み、太い腕をハンマーのように振り回して、体をなぎ払おうというのだ。風切る轟音を生む一撃を、琴美は最小限の足さばきだけでかわした。重い一撃に巻き起こる風が、黒髪とスカートを逆立てる。矢継ぎ早に繰り出される拳は、どれも急所だけを狙ってくる。魍魎導師が、人間としての知性と理性を残している証拠だった。紙一重のところで避け続けていた攻撃を、ついに琴美は両の手で受け止めた――かに見えた。瞬間、巨体は手首を中心に回転し、襲い掛かったはずの導師は腕を取られて投げを決められた形になる。地響きが回廊を揺るがした。
「力任せの攻撃など、私には通用しませんわよ」
琴美は凶暴な光を目に宿らせ、不敵に笑う。相手が強ければ強いほど、血が燃え、身の内に潜む戦いの血筋が彼女を昂ぶらせる。そして、戦いの行く末をすでに琴美は予測していた。――勝てる。私が負けるはずがない。絶対に許せない敵に、私は負けない。どんな攻撃とて、指一本この身に触れさせはしない。
そう信じるのは、傲慢でなく、事実として無敵無敗であり続けた完全な女戦士。琴美にとっては、肩に手を伸ばす不埒な青年も、彼女を叩き潰そうとするこの魍魎も、結局は大差のないものなのだ。琴美に伸ばされる手が決して届くことはない。
 もはや琴美が一切の慈悲を見せることはない。たんと踏み出す小気味よい音に合わせて、片足の自由を失った魍魎の顎下に掌底打ちが浴びせられる。小さな手によるそれは爆発的な破壊力を生み出し、頭の骨を折り、首の骨を折り、衝撃波のように伝わる振動が巨体の深い部分を破壊していった。一撃で崩れ落ちた巨体は痙攣し、そして動かなくなった。琴美は最後の敵、魍魎導師に正面から挑みかかる。説得も威圧ももはや意味がなく、二人の間には言葉はなかった。導師の突進を琴美は軽やかな跳躍でやり過ごす。岩をも砕かん蹴りの勢いをくないで殺す。動きの鈍った怪物の足の甲らしき場所を、硬質ゴムのハイヒールが踏み砕いた。片足のブーツで敵を射止めたまま、長いもう片方の足が弧の軌跡を描く。柔らかくそして強靭な琴美の体から繰り出される蹴りが、魍魎のこめかみをしたたかに打った。よろけるその額に、立て続けに数本のくないが打ち込まれる。
「あなたのお相手はおしまいです」
宿敵と誓ったはずの乙女の言葉を最後に聞く。彼は同格の相手とすらされていなかったということに、果たして気づいたのだろうか。人間のままの脳に大きなダメージを受け、驚きの表情を貼り付けたまま、仰向けにずしりと倒れ、やがて動かなくなった。
 敗北を悟った教祖は、慌てて通路を逆方向に駆け出した。もう少しで非常扉に手が届こうかという時、くないが老婆の手の甲に突き刺さる。痛みにひるんだ隙に、しなやかな鞭のような乙女の手で首根っこをつかまれた。もはや魍魎に変化させて使うことのできる兵はいない。暴れる老婆のローブからは怪しげな紋の描かれた護符がばさばさと落ちた。
「どこへ行かれますの?」
おののく老婆の白髪はまばらで、乾いた肌は枯れゆく生命を象徴していた。きいきいと猿のような声を上げ、死に物狂いに琴美の頭をつかもうとするが、老人の手は空しく空を切るばかりだった。人間として、女として、これから盛りを迎えますます美しい時を迎える琴美の瑞々しい肉体と、教祖の姿は残酷な対比を見せていた。
「地獄へのご案内、わたくしが務めさせていただきますわ」
そう告げる琴美の眼差しは氷のように冷たかった。

 ヘリと武装車輌、救護車輌が次々と駆けつける。ライトに照らされた教団の館を琴美はぼんやりと見やった。護送車にはかつて教祖とあがめられた老女が乗せられていく。気がふれているのか、何かをしきりにぶつぶつとつぶやき続けていた。地獄へ案内してやる。そう告げたものの、琴美が教祖を殺さなかったのは、温情をかけてやったからではない。生きて悪行を告白させ、法の下で徹底的に償わせるためだ。白状しなければ、どんな方法であの惨めな老女から情報がしぼり出されることか。それは琴美の思いやるべきことではない。それにしても、一体あの老女にどれほどの能力とカリスマがあったのだろうか。それが不思議でならなかった。
 一体何人、いや何万人の人間が『もうりょうさま』への信仰で人生を乱されたのか。とはいえ、琴美のなすべきことは終わった。もつれた髪を指で梳き、ほっとため息をつく。体は疲れてはいないが、理解を超える狂集団を目にしたことで多少精神が害されたのかもしれない。
(「これで一つの悪が滅びたはず。次に何があっても、私は同じように戦い、勝ちますわ」)
だがその思いは自分だけの心のうちに。お疲れさまです、と背後で敬礼する隊員たちに、琴美は振り向き爽やかに笑いかけた。