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<東京怪談ノベル(シングル)>


白亜の国のアリス



半夏生を過ぎ、じわじわと暑さを増してくる頃。
晴天の中で吹く風は、なかなかに肌に張り付いて爽やかとは言い難い。
颯爽と道を行く彼女に、そんな気候など関係ないのだろうか。
車椅子に乗った一人の少女は長い黒髪を靡かせ、道を駆けていた。
両手の使えない紫苑・桜は、口でハンドルをくわえ、器用に捌いていた。
彼女は両手だけではなく、両足で立つことも出来ない。
先天性の重度の身体障害者だったが、零盟会病院の中を台車で自在に行き来できるほどに活発だった。
今も病院から都内のプールへリハビリにいくところである。

車椅子の彼女に、駅構内では駅員が声を掛ける。
親切心なのだが、手を貸そうとする駅員をキッと睨み返し「辞退します」と一人で行ってしまった。
彼女は零盟会病院に住む。
救急指定の総合病院で世界最先端の技術を誇る病院――零盟会病院。
如何な医療をもってしても死には抗えない。
施設の規模に比例して病に倒れた者もおり、不気味な噂は絶えなかった。
人はそこを畏敬の念を込めて霊冥界病院と呼ぶ。
身体に障害を抱えながらもその闇と果敢に闘う少女がいる。
人は彼女を『白亜の国のアリス』と呼んだ。
プールでは専用の台車に乗り換える。さすがにいつも乗っている車いすでは入れない。
窓から差す光を反射して、水面はキラキラと光っているようにみえた。
冷たすぎず、熱すぎず、ほどよい温度が一定に保たれた温水プール。
塩素の匂いが鼻孔をつく。
25メートルのプールは10列の飛び込み台が並び、右端は2列分の広さがある。
メインとなる水深1.4メートルのプールの横にもう1面、子供用の小さめのプールもある。
台車でプールサイドを移動しているとふいに、背中を突き飛ばされた。
突然のことで目を白黒させる紫苑。
水中で身体を反転させ、水面の方を見上げるが誰もいなかった。
水面から顔を出すと、慌てたプール職員が駆け寄ってきていた。

「だ、大丈夫紫苑さん!」

事故か何かだと思い急いでやってきたのだろう。周囲を見渡すがやはり近くに人はいなかった。
ずっと3番コースを泳ぎ続けてる男性と、2列のコースで遊んでいる親子、やはり同じコースでゆっくり水中を歩いている老齢の女性。
紫苑の他の3組の客しかいなかったが、やはりその3組とも紫苑からは随分と距離がある。

「大丈夫です、泳ぎは得意なので」

背中に感じた冷ややかな感触を思い出しながら、職員に連れられて管理室へと移動した。
間違いなく、霊がいる。
紫苑自身に霊感はなかったが、これまで状況証拠から心霊事件を解決してきた。
職員は紫苑の体調を気遣っていたが、カバンから名刺を取り出して見せた。
名刺には紫苑の名前と、よくメディアで目にする有名な肩書きが添えてある。

「え、……あなたは」

名詞と紫苑を交互に見比べている職員に、紫苑はプールに霊がいることを告げる。その霊に突き飛ばされたのだと。

「あまり良い霊ではないようですね。他の方に被害が出る前にお祓いをさせて下さい」

お金は取るつもりはなく、無料で祓う旨を告げると二つ返事でお祓いを頼まれた。

「どうかお願いします。とはいっても、この施設は結構広いので闇雲に探すとなるとまる一日は掛かると思うのですが、何か心当たりはあるのですか?」

頷き、紫苑は答えた。

「霊は水場を好みます。そうですね、……どこか漏水の箇所はありませんか?」

調べると、空調室が水浸しとなっていた。
紫苑が部屋に入ると、台車が急に速度を増した。
壁にぶつかる寸でのところで何とか台車を止める。

(制御できないことはないけど、これじゃ不利ね……)

やたらと台車が滑るのは霊の仕業だろう。
紫苑は口でモップを咥えて水溜まりを拭った。
モップはすぐに水を吸い、バケツに水分を絞る。
バケツと水たまりを往復する間もやはり台車は滑り、その度に器用に台車を止めては拭いて、の繰り返しだった。
天井からも水が滴り、紫苑の身体は全身びしょ濡れだった。
床の水分を綺麗に拭き取り、天井の漏水も他の職員に指示して応急処置をしてもらった。
バケツに最後の水を絞りきり、空調室の中央へと移動する紫苑。

「成仏なさい!!」

紫苑がモップを揮うと、それまで背筋にひんやりと感じていた霊の気配は去った。

「これでもう大丈夫でしょう。あとは漏水をきちんと修繕すればあの子がまた来ることはないわ」
「あ、ありがとうございます!なんとお礼を申していいやら……」

礼を言う職員の横を通り過ぎ、顔だけ振り向いて微笑んだ。

「シャワーを浴びなおしてくるわ」