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<東京怪談ノベル(シングル)>


慾海に挑む少女


 少女は見た。愛すべき両親と住む家が、巨大なスライムに押しつぶされる様を。
 小さき両の眼に刻まれた光景を事細かに伝えたが、他の誰が見えない恐怖に怯えようか。それにこの場は、台風55号の避難所。自然災害に怯える者たちが身を寄せ合う。そんな者たちに、別の存在を認識する余裕はなかった。
 ただ、大人たちは心からの同情を寄せる。少女は先天性四肢欠損なのに、この世にひとり残されてしまったのだから。こんな不遇な現実、いわば「見える不幸」を大いに憂いた。
 だが、すでに彼女は悲嘆に暮れる様子も見せず、ただ前を向く。それはまるで「それでも生きていく」と決心したかのよう。目を輝かせてはいたが、その奥には怨敵の姿がまだ揺らめいていた。


 あれから十年の月日が過ぎた。
 少女・桜は17歳となり、現在は零盟会病院が運営する福祉施設で暮らしている。身寄りがいないのもあるが、今はひとり。しかし高い自立心に支えられ、たいていのことは一人でこなせるようになっていた。
「苦しみの白雲、滴る赤い波。その中に飛び込む、メダカの迷い子……」
 自立の証ともいえる台車の上でポツリと呟くのは、とめどなく溢れる妄想の言葉。そう、彼女は精神を病んでいた。
 しかし、それさえもプラスに作用させるのが、桜の魅力だ。街ですれ違う通行人のひとりが少女に気づき、おもむろに「超級突破士のお仕事、ご苦労様です」とねぎらう。

 超級突破士、それは桜の天職とも言える。精心自衛隊・通称「精自」の指揮を執り、現実世界を侵攻する敵「崑崙海軍」から今を守るのが、彼女の任務。崑崙海軍は、現実を浸す社会病理の海「慾海」を支配する覇者であり、現実世界の水を狙っている。だが、その存在を感知できるのは、桜をはじめとする突破士のみ。常人にはまったく見えないのだ。
 それに対抗する精自も突破士も、零盟会が養成した特殊部隊である。いうなれば「目には目を、歯には歯を」。今の桜はあの頃とは違う意志を抱き、日々を過ごしていた。

 現在は立入禁止となっている久慈川水系。十年前、ここに台風55号がやってきた。とはいえ、今は無人の荒野となっており、一見すると害はないように見える。ところが、ここはかなり前から「崑崙海軍」が実効支配する領土となっていた。
 桜はたまにここを訪れ、あの日のことを思い出すこともあるが、今はパトロールの一環で通らざるを得ないだけで、特別な感情は薄れつつあった。無論、怨敵が出れば話は別だろうが。
「境界、ね……」
 初夏の風吹く河原でひとり、台車の上から景色を見て回る。
 そんな時、喧しい笑い声が周囲に響いた。
「アノマリ探知!」
 桜の言葉で通信機が作動し、驚異的なスピードで精自が集結した。おそらく普段から桜の身の回りをそれとなく護衛しているのだろう。彼らは荒野に向かって銃を構えるが、いかんせん目標が定まらない。定まらないも何も、彼らには敵が見えないのだ。
 「アノマリ」とは崑崙海軍が造った怪物を指すが、これを司る「水妖」という怪人も存在する。司令塔である桜はそのどちらか、もしくは両方を懸命に探す。その間、精自の増援として他の部隊や装甲車も集結し、十分な戦力を確保した。

 その刹那、桜の目に光球の雨が煌く。
「そこ!」
 桜が指摘する先に、蛙頭の水妖が立っていた。精自は声の方へ射撃を敢行するが、敵はそれをひょいと避け、桜の前に立って嘲り笑う。
「ケケケ、俺が見えるとはな。お前、マトモじゃねーぜ」
「水妖の褒め言葉か、なるほど。人間が聞いたなら、誰もが吐き気を催すだろう」
 ふたりの会話は、慾海上で成り立っている。桜の側だけ聞いても、さっぱり意味が通じないはずだ。それに、内容は異端じみたことばかり……しかし、精自の面々は静止し、その言葉に耳を傾けている。
「フヒヒ、久慈川水系の奪還は諦めろ。軍が根こそぎ吸ってやるんだからよォ」
「久慈川水系の奪還? う、うはっ……そんな低い次元の話で、怒らせてるつもりなのか? ふひっ、創造した連中に伝えろ。お前の出来は特に悪い、とな。ひはっ」
 桜は、まるで人が変わったかのように挑発を続ける。実は、この時すでに「郁」という人格に変わっていた。
 そんなことも知らずに、水妖も負けじと幼い声で反論する。
「小童、無理をするな。人間は、小さき功で満足する悲しい生物。そんな未熟な単細胞は、我ら崑崙海軍がすっきり飲み干してやるからよォ」
「ふふっ、ふははは! うひはははははっ!」
 突然、独笑する郁。そして虚空を見上げ、ただ喚き続ける。
「まるで意思を持ったかのように振る舞う、愚かな作り物! くひっ、これほどまでの出来の悪さ、人間では考えもしない幼稚な主張、どれを取っても酷い! うはは、まったくもって酷い! 劣悪ッ、そのもの……ひははははっ!!」
 はらわたの煮えくり返る思いでこれを聞いた水妖は、もはや正気を保ってはいられなかった。その身に宿す力を発揮し、汚泥の濁流を現実へと注ぎ込む。
「おべっ! おべぇらは、地の果てまで流れでげぇぇぇ!!」
 醜悪に紅潮した蛙の顔は、まさに慾海の産物。そして放たれた攻撃もまた、非現実的な威力を持つ一撃であった。一台の装甲車が濁流でひっくり返り、精自は散開を余儀なくされる。
 その様を見て、水妖は喜ぶ。実に短絡的に。まさに無能の証明である。
「逃げでも無駄だァーーーがァ! ピゲッ!」
 その瞬間、水妖はあることに気づいた。それは動物的本能というべきか。
 数秒前のことだ。実は攻撃よりも前に、精自の一部隊が自分を的確に狙い、銃口を構えていた。たしか普通の人間には、自分という存在が見えない。なのに、銃口は自分を狙っていた。この違和感、決して拭えない。
「アハァン? 見えぬ敵を、知らす……? もしや、あの小童は上級の突破士か?!」
「気づくのが遅いですね。しかし、侮れない力を持っているが、逃げ惑うのなら恐ろしくもない」
 人格が桜へと戻り、ここからは上級、いや超級突破士としての才能がフルに発揮される。四肢なき桜の指示は、声の長さ・強さ・方向などを駆使し、精自に立体的な誘導を行う。
「ウヒィィー! ににに、逃げッ、うぷっ!」
 水妖は桜の読み通り、逃げを打った。敵の姿を見れば当然の思考であったが、錯乱した後に意識が正常に戻っているはずがない。ましてや慾海を生きる存在に、真っ当な正気など持ち合わせる術がないか。
 となれば、桜は追い切ることができる。壊される怯えに震える心など、もはや狙い撃ちだ。自ら台車を必死に走らせ、その位置を確信したと同時に指示を下す。
「撃ち方、用意! 殲滅!!」
 桜よりもやや前に出ていた部隊が、銃を乱射。さらに背後に控えし装甲車が砲撃。どちらも水妖の体を抉り取った。
「グギャッ……!」
「……撃破、完了」
 少女の耳にだけ、水妖の爆音が響いた。しかしそこは、何もない長閑な荒野が広がるばかり。今いるのは、精心自衛隊の面々と超級突破士の桜だけであった。

 桜と崑崙海軍との戦いは、まだ始まったばかりだ。