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孤島の鳥
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広い海を切るように突き進む軍艦。そのマストにはためく旗が青い空に映えた。
甲板で苦々しく目的地を見つめる少女の名は綾鷹・郁。
『籠の鳥を救え!』
久遠の都当局から命じられたのは一人の少女の保護。将来有望な時間学者と成り得る少女が継母から軟禁状態にあるという。
「籠の鳥……ねぇ」
海風に吹かれて、さらさらと舞い上がる髪を片手で押さえて小さく嘆息した。
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「――……はぁ」
少女が吐いた小さな溜息は、誰の耳に届くこともなく消えていった。
窓の桟に肘を預けその先で顎を支え、少女は憂い気な瞳を細める。
「ちょっと! 何をやってるの!」
「……ぁ、ごめんなさい」
怒声を浴びて少女は慌てて立ち上がり、その衝撃で椅子が大きく音を立てた。
「用は全部済んだの!」
「……はい」
疑問符を持たない継母の問いかけに小さく頷く。俯いた視線はいつも自分の足先を見つめていた。
「そう、次は――」
休む暇も考えごとをする暇も殆ど与えることもなく、ただひたすらに用事を与え続ける。
日が暮れて寝台に横になる頃には、疲れきってしまってそのまま朝を迎えるのが常だ。そして、また同じ日が繰り返される。
彼女の世界はとても狭い。
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当局と同じようにその少女に目を付けた者達がいた。
(有望な学者の素質を持った少女を腐らせておくわけにはいかない)
宇宙進出を目論むドワーフ、アシッド族だ。
「はぁっ?! うちの娘を特待生にだって?」
派手な物音と共に、辺りの木々さえ聞き慣れてしまった女の怒声と、それを宥めるような女の声が聞こえる。
「此方側からの条件は大変良いものとなっていると思います。熟考されてから答えを……」
「考える必要もないね! さっさと帰りな!」
殆ど家から掃き出されるように、追い出された役人姿の女性はよろめいた身体を、立ち直らせて軽く肩を叩きながら首を傾げた。
(フム、好条件だし何が悪かったのか?)
借着である制服の襟元を緩め小さく溜息。アシッド族の仲間の元へ戻りもう一度策を練り直す必要がありそうだ。
「誰か来てたの?」
「あんたには関係ないよ!」
誰も居なくなった玄関先と継母を交互に見つめてぽつりと訪ねただけなのに、返ってきた言葉に少女は小さく肩を跳ね上げた。
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―― ザンッ
いつもと変わらない波打ち際。
変わっていたものと言えば――
細い砂を素足に感じ、小さな波が足の間をすり抜けていく。
足先に当たったのは、流木でも、海藻でもなく……それは――
ぱしゃっ、少女はスカートの裾が濡れるのも気にすることなく、その場に膝を折った。
口元に手を添え、塩水で濡れ張り付いてしまっていた髪をそっと分け、首筋に指先を添える。
「――……」
安堵の吐息を漏らした。
「生きてる」
もちろん死んでいるはずはない。
郁は今回、以前偵察で敵の失敗から学んだことにより、漂流者を装い彼女ら親娘に近づくという作戦に打って出たのだ。
「……起こしますよ?」
少女は郁の身体を支え浜を踏みしめ立ち上がった。
嗅いだことのない香りの風が、ふわりと頬を撫でる。
そして、少女の箱庭の壁に小さな亀裂が走った。
「ん」
郁はゆっくりと意識を取り戻すように、頭を起こし重たそうに瞬きを、一回、二回……
少女の瞳にも郁の姿が映る。
弱々しげに微笑んだ彼女の姿が――
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母親に逆らったのは初めてだった。
初めて逆らい自分の意見を口にして、我を通した。
これまでの用事と加え、この島へと漂流してきた郁の面倒も甲斐甲斐しく見ながら時折外の話を聞く。
郁の人好きする雰囲気と明るい話し声に、少女の心はここではないどこかを夢みるようになって居た。
暗く俯き加減だった少女の瞳が輝き活きてくると、継母は激昂。自分の思い通りにならなくなった娘とその原因となった郁への怒りは尋常ではなかった。
「郁さんは、何も」
「うるさいっ! 娘に余計なことを吹き込むな!」
つんざくような怒声と共に、ある兵器へと手が伸びる。
「私を裏切ることは許さない、離れることも許さない、私に逆らうことも――」
「お継母さん! やめてっ!」
少女の制止は何の抑止力も持たない。
目の前に広がるのは深淵の闇。
常世の闇――
空間的な感覚が全て曖昧な……全身に漆黒が纏わり付く恐怖。ひやりと内側から湧き出る震え。
「い、いあぁぁぁっ!」
両腕で頭を抱え、上げたこともないような悲痛な声を上げる。
「落ち着きぃ!」
「だ、駄目! あれはダーカー・ザン・ダーク(DTD)と言って恐ろしい兵器だと、私たちはもう、もうっ!」
こんなものだとは……しかし、母はいつも最終手段としてこれを温存していた。
郁としても、個人でこんなものを所有しているのは予想外ではあるが……この程度なら――
「大丈夫や! 降り注ぐ宇宙線を知っているか? 闇夜でも万物を照らすのや」
「でも、ここでそんなもの」
「心配せんでえぇよ。あたしに任せてな」
にこり。力強く郁が微笑んだのが彼女に見えただろうか?
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「誰も彼も私のことを馬鹿にして」
苛立たしげに部屋の中を歩き回る母親の姿が鮮明に見て取れた。
「――これ」
「宇宙線眼鏡、視界が確保できれば怖くないよね」
言いつつ、郁は継母の部屋にどっこいしょと鏡を置く。
「それ?」
「鏡、だよ――大丈夫。きっともうすぐ貴女は自由になる」
不安げな視線を投げる少女に郁は、ふふっと、愛らしい笑みをこぼした。
丸みを帯びた月が、夜の闇を照らす。
薄いレースのカーテン越しに斜めに差し込んだ月光を受けた鏡面は美しく怪しく輝いた。
――……つっ……
美しく整えられた爪の先が映し出される自身の姿を撫でる。うっとりと、恍惚状態でそれを見つめる継母の口からは自然と紡ぎ出された。
「世界一の美女は誰?」
『貴女の娘です』
その声は郁だ。彼女の声が鏡面から滲み出、予想していなかった答えに継母は目を見開き、鬼の形相で鏡を弾いた。ぐわんっと絨毯に重たい音を立てて鏡は転がる。
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――……ザンッ
今日も変わらず波は打ちつける。
離れていく島を見つめた。傍らには血の気を失った少女が……。
もう少女は息をしていない。その小さな胸は鼓動することなく全ての生命活動は制止した。
甲板で潮風を心地よくその頬に受けながら、郁は島を出るまでを思い返す。あのあとは実に簡単にことは運んだ。
ふらりと、継母の元へと姿を現した少女へと彼女は毒を盛る。死に行く娘に薄い笑みすら浮かべて――
『骸など要らぬ!』
そう確かに継母は少女を放棄した。
今夜は胸を躍らせあの鏡を覗き込むことだろう。郁は愉快気に口角を引き上げる。
そして、そっとその傍らに膝を折った郁は、少女へと解毒剤を投与した。
「――……」
ぴ、く……り……。
静が動を得る瞬間。青みがかった頬に朱が差した。
ふるりと長い睫が頬の上で震え、ゆっくり瞼が持ち上がる。
彼女の瞳に移った空の青。流れていく雲、頬を流れる風。背に感じる船の震動。その全てで解放が現実のものとなったことを告げた。
「だいじょーぶ?」
そこへ割り込んだ郁の姿。死んでいた少女の顔は見る間に生を溢れさせ
「あなたに嫁ぎます!」
溢れた喜びと共に郁に抱きつき驚喜する少女に、郁はその場にへたりと座り込み空を仰ぐ。続けて
「……」
ふぅと大きく嘆息し力ない笑みをこぼして目頭を押さえた。
海面は少女のこれからを祝福するように、陽光を受け煌めいている――
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