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クチクラの洞窟
私からの忠告です!
『危険! 立ち入り禁止』
こんな看板、見ますよね。
注意書きは守った方がいいです!
……ちょっとくらいなら入ってもいいじゃないかって?
もぉー、とんでもないっ。
立ち入り禁止って書かれていたら、引き返さないとダメなんです。無視して進むと、ひどい目に遭っちゃいますよ。
……え? 例えばどんなことかって?
それはですね……、
鬱蒼とした茂みを通りぬけて、辿り着いた先は暗闇の中。
ここはとある洞窟だった。人里離れたこの洞窟の奥では、魔力を宿した不思議な水が沸くという。
この情報を小耳に挟んでから、ウズウズしっぱなしの私。
(どれくらいの広さの洞窟かな?)
(やっぱり薄暗くって、人っ子一人いなくって)
(そこに溜まった水は綺麗なんだろうなぁ。神秘的で、闇の中でゆらめいて……)
(おまけに魔力が詰まっているの!)
とうとう、いてもたってもいられなくなって、水を汲む水筒を持って洞窟へ!
入り口には立ち入り禁止の看板が立っていたけど、臆することなく中へ入った。
外と違って陽の光の入らないこの場所は、暗く、湿った匂いに包まれていた。
普通の女の子ならここで怖がったかもしれないけど、私はむしろ期待で胸が膨らんだ。
だって、私は魔法修行中の竜族。おまけに好奇心も勇気もある。ちょっとの冒険は最高のデザートなのだ。
洞窟は大きな鍾乳洞だった。翼を広げて飛んで行ってもまだ随分と余裕がある。
魔法の光で照らしながら、奥へ進むにつれ匂いが変わって来た。
湿り気を帯びた、例えば雨が降る直前の匂いだったものが、瑞々しい果実の香りに変化したのだ。
(桃……みたいな匂い……)
甘く蕩ける匂いに鼻をくすぐられる。
(水だけじゃなくて、桃もあるのかなぁ)
(魔力の水を水筒に入れたら、桃もかじりたいなぁ……)
(うーっ、楽しみ! ここって桃源郷みたいっ)
心が華やぐ香りに導かれ、道は枝分かれしていたのに、私は迷うことがなかった。
噂通り、洞窟の奥には水が湧き出ていた。
水は光り輝き、周りの鍾乳石を碧く照らしていた。
水面には私の姿も映っていた。硬い翼の骨まで碧くしなやかそうに見え、私の目にも幻想的な映画のワンシーンのように映った。
ロマンチックな光景に、ちょっとの間、目を細めて。
(そうそう、水を持って帰るんだった)
当初の目的を達成しようとしたそのとき。
「勝手に持っていったらダメでしょぉ?」
お腹の中に響くような、低い声。
私が振り向くと、長い髪をした華奢な少女が一人立っていた。私のように翼はないけれど、手が足と同じように長く、一目で魔族と分かる姿をしていた。
「ここは私の縄張りなの。許可を得るのが筋でしょ?」
目を煌々と輝かせ、少女は私の身体をじっと眺めていた。私の頭から始めてつま先まで見た後、翼と角と尻尾を舐めるように観察している。瞬きなんて一回もしないくらい。こんなこと私がやったら、目がお皿になってしまいそうだ。
(何だか、変てこな子に見つかっちゃったなぁ……)
そうは思っても、勝手に入って来たのは私の方。
ふわりと地に降り立つと、私は頭を下げた。
「縄張りって知らなかったんです。ごめんなさい」
「いいわよぅ。怒ってないもの。あなたも魔力の入った水が欲しくて来たのね」
少女はえくぼを見せて笑っている。
釣られて私もニッコリ。
良かった、話の分かる人なのだ。
「そうなんです! 水、分けてくださいねっ」
「イ・ヤ」
…………む。
「そんなこと言わないでお願いします。ちょっとだけでいいんです」
「お・こ・と・わ・りぃ」
……むむ。
「私、そのために来たんです。この水筒一杯でいいですから」
「残念でしたぁ」
「じゃあ、はんぶん……」
「とっととお帰りあそばせ?」
ムカムカムカムカ。
「いいじゃないですか、ちょっとくらい……」
パシャッ。
私が言い終わらない内に、向こうが水を掛けて来た。
「つめたっ。何するんですか!」
「おとといきやがれって言うのよ」
その言い方ときたら、まるでこちらを嘲笑うみたい。
「そっちがその気なら、こっちだって!」
私が放った炎を寸での所で避けて、少女は叫び声を上げた。
「な、何するのよぅ!」
「言っときますけど、私って、売られた喧嘩は買っちゃいますよ!」
次々と連弾を浴びせる私に、向こうは逃げの一方。
正確には時々、水を掛けてくるくらいで――、
ガクン、
足を取られ、私は前のめりに倒れた。
起き上ろうと両手をつき、立ちあがってはみたものの、そこから足が一歩も前へ出ない。
飛ぶことも出来ない。
翼の先がピクリ、ピクリと痙攣するだけだ。
「何で? どうして……」
「やっと効いてきたぁ。あたしの能力って発動するのが遅すぎるのよねー」
見れば、無邪気に笑う少女の姿。
逃げ回っていたさっきまでの少女と同一人物とは思えない。
「何で水を掛けていたと思う? あなたを石化させるためよぅ」
ヒタ、ヒタ、ヒタ、ヒタ。
少女がどんどん近付いて来る。
「やっ、やだっ」
「そんなに怯えることないでしょ。取って喰おうって訳じゃないんだから」
「うぅ……じゃあ、どうするんですか……?」
頼みの綱の炎も出せない。私は無防備な姿のまま、聞くしかなかった。
(もう、涙声になっちゃったよぉ……)
竜族だっていうのに、今の私には何の勇ましさも残っていなくて。
恥ずかしくて余計に涙が出そうになる。
「さっき何て言ったっけー? 売られた喧嘩は買うんですって?」
少女の目が爛々と輝き出す。
それはそれは楽しそうに。
遠足の前日、興奮してなかなか寝付けない子供のように。
「わわわ、ごめんなさい! い、言い過ぎました……」
「そうそう。それから?」
「み、水も、もういいです……」
「あらぁ。そーぅ? イイ子ねー」
「じゃ、じゃあ、もう、元に戻して下さ…………ひゃあっ」
ザラリ、ザラリ。
少女の長い指が、私の二の腕を撫でた。人型とは思えない、硬く、尖ったものが私の皮膚を這った。
「なななっ、何です、これ?」
「分かる? これはね、あたしの産毛なの。硬いけど、あなたも固くなっているから、痛くない筈よぅ。変な感じはするでしょうけど」
ザラリ、ザラリ、ザラリ。
ザラザラザラザラザラザラ。
少女は私の腕の付け根を撫でた。
「ひゃっ……え? あれ? あれ?」
ザラザラと、ヤスリのような感触がなくなっていく。
「私の能力って中途半端でね、水を掛けるだけじゃあ大雑把にしか固められないの。こうして仕上げをしなきゃいけないのよぅ」
そう言いながら、少女は熱心に私の腕を撫でている。特に付け根の窪みや、肘の凹み、指の間の小さな溝に指先を這わせていく。肉眼では見えない、硬くて細い産毛が私の窪みに入り込んで来るのが感触で分かる。
だけど、その確信が薄らいでいく。
少女の硬い感触さえ遠くなっていくから。
ザリ、ザリ、ザラザラ。
……パキン。
奇妙な音と、手の長い少女の匂い。
瑞々しい桃の匂いは、少女の体臭だった。
芳しい香りを嗅がされて夢の中にいるみたいな気持ちになっては、少女の声と感触で現実に引き戻されるのだった。
(匂いでおびき寄せるなんて……食虫植物じゃあるまいし……)
あの匂いに胸を踊らせていた自分が情けない。
(な、何で私がこんな目に遭わなきゃいけないの……?!)
「ふーぅ。腕は完成っと」
「も、元に戻して下さい! そんな小学生が工作しているみたいな態度……むぐっ」
唇の隙間に、少女の産毛が押し込まれた。
「勝手にやって来たあなたが悪いんでしょ」
ザラザラ、ザラリ。
パキパキ、パキリ。
少女の指は私の唇を何往復もした。
「もー、意外と唇を綺麗に固めるのって大変なのよぅ。唇って膨らんでいるだけに見えて、目に見えにくい細かな筋があるから……リップ塗るとき感じるでしょー?」
「……………む…………ぐぅ……」
「あ。そかそか。もう喋れないのね。了解ぃ」
(こ、こんの〜)
言葉に出せなくなったので、私は心の中で文句を言うことにした。
(喋れないのね、なんて呑気そうに言うけど、自分が固めているせいじゃないの!)
(さっさと元に戻してよぉ!)
「えっとぅ、凹んでいるとこ、凹んでいるとこ……、あ。おヘソね」
ザラザラ、パキン。
「それから、くるぶしの所も窪みが多いよねー」
ザリザリザリザリ、パキリ。
「ふくらはぎの膨らみと、膝の凹んだ所の固め具合を調整して〜と」
ザラザラ、ザリザリ。
ザラリ、ザラリ。撫ぜ撫ぜ。パキパキ。
と、少女がポツリ。
「本当に工作みたいね、これ」
(こ、この……悪魔ぁ!)
毒舌をふるってみても、少女の耳には届かない。
だから少女は気にもしない。鼻歌まで歌ったりして、工作工作。
「髪の毛! これが難しいのよぅ〜!」
私の髪を少しずつ手に取って。
少女は髪の内側を中心に撫でていく。
毛先には細心の注意を払っているのか、一際輝く瞳が私の前に迫っていた。
その雰囲気に呑まれてしまって、私も息を飲んだ。
髪を固め終わって、少女が一言。
「あたしって美容師みたいね! あなたもそう思うでしょ?」
……こんな身勝手な美容室、嫌になる。
「翼もツルツルにしてあげるわねー」
(あぁ、そうですか。嬉しくないです……!)
もはや罵る気にもなれなくて。
私は心の中で少女と話をする。
「翼って初めて固めるわよぅ。難しい〜!」
「………………っ」
小さな破裂音が、私の喉の奥で鳴る。
翼は凸凹が多かったからか、水を掛けられただけでは固まり方が弱かったようだ。
お陰で、骨付近の窪みを撫でられる、むず痒さと言ったら!
身体をねじって避けたいのに、いや、今すぐ逃げ出してしまいたい程痒いのに、逃げ出すための足はもう感覚さえない。
逃げ出せないのなら、いっそ早く固めて欲しいくらいだと思った。
心の中で葛藤しながらも、他に選択肢がなかったから、私はただ大人しく立っていた。
目に涙を湛えて。
「さて、と。終わった終わった」
少女はそう呟くと、私の背中をスルリと撫でた。
少女の産毛はもう硬くなかった。
否、硬く感じなかった。
それは私の身体が少女の産毛よりも硬く固まり、感覚を失っていたからだ。
私はただ、水の光に照らされて碧く輝く鍾乳石に過ぎなかった。
(もう家に帰してくれますか?)
見上げる私に、少女は恍惚とした表情を浮かべていた。
「どんな芸術品だって、あなたには叶わないわ」
そして。
「実は唇以外の顔はあんまり固めていないの。最後に笑顔を見せて?」
少女の言葉に、私は微笑んでみせようとした。
唇の中央はまるで感覚がなかったけど、端っこだけならごく僅かに動かせた。
(こ、こんな感じかな……?)
顔の表面が引きつる感じがして違和感があったものの、目を細めて柔らかに笑ってみせた。
(これで帰してくれるんですね?)
私の心の声に答えるように、少女も微笑み返してくれた。
私に「怒っていない」と言ったときと同じように、えくぼを見せて。
その笑顔のまま、私の顔を手でそっと包みこんできた。
パキパキ、パキリ!
「これで完成よぅ」
……後で気付いたことだけど、少女は悪だくみや嘘をつくときに、えくぼを見せて笑うのだった。
――ということがあったんです。
やっぱり注意書きを見たら、その通りにした方が良いんですよ。
……え? 私は今どうしてるのかって?
実はまだあの洞窟にいるんです。
彼女ったらひどいんですよ。飽きるまで一緒にいてね、なんて言って、私を洞窟の奥で飾っているんです。
一日に何回も私を撫でて来るんですよ。もっとも、私にはもう感覚がないから、爪を立てられたって分かりはしませんけど。視界に入って確認出来る場所だけ、ああ今撫でられているんだなぁって認識するだけなんです。
あ、見えない場所だけど、尻尾を触られるときも分かります。彼女が自作の『尻尾にぎにぎの歌』を歌いながら握ってくるから……。
……え? 仲良くなってないか、って?
とんでもないです!
毎日早く元に戻して欲しいって思っています!
だって彼女ったら、仲間の魔族に私を自慢しては、最高の芸術作品だとか躍動感があってどうとか笑顔が可愛いとか褒めてばっかりで、恥ずかしくって……。
恥ずかしいのに、表情を変えられないんですよ。俯くことだって出来ないんだから……。
とっても困っています。
本当なんですよ。
みなさんも、立ち入り禁止区域と桃の香りには…………気を付けて下さいね。
終。
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