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少女の眼差しの、その向こう側。
まだあれから数日しか経って居ないとは思えない位、街は落ち着きを取り戻しつつあった。それは、考えて見れば良い事のはずなのだけれども、まだそう、素直に受け止める事は出来そうにない。
そんな自分に苦笑して、鳥井・忠道は泰然を装い、両腕を組んだ。――装って、だ。それもまた、忠道には解り切っていることだった。
まだ数日、だ。忠道が息子と思う、思っていた男がこの場所で、こんな小汚い路地裏で、誰かに鉛玉を捩込まれてたった1人で死を迎えて鳥井組がその、優秀で組員達から慕われた若頭を、誰かに奪われてから。
まだ――数日。たったの。ほんの数日前には確かに、親父と呼ぶ声に『おう』と笑って応えたはずなのに――
(‥‥ざまァねぇ)
胸に沸き上がる感傷と、後悔と、それからとても言葉では表現しきれないその他の多くの感情を、半ば無理矢理浮かべた苦笑いと共に飲み下す。それもまた、ここ数日ですっかり習い性になってしまったように思えて、今度は無理矢理じゃない苦笑が零れた。
忠道の『息子』が殺された一件は、一部には『若頭殺人事件』と呼称され、あれやこれやと痛くもない腹まで探りにかかるような連中が、思い付く端から好き勝手に推論を並べ立てている。とは言えさすがに数日が経ち、新たに有力な、或いは好奇心をくすぐる話題も出て来ないとなれば、毎日幾らでも騒ぎに事欠かないこのご時世では、野次馬もすぐに興味を失ってしまったらしい。
今、忠道が訪れた現場に見えるのは、目にも鮮やかな『KEEPOUT』の黄色いテープ。それから現場保持の為に立っている警官の、ほんの少し気の抜けたような、退屈そうな顔。野次馬が1人、2人ていど。
仕方のないことだった。元より、連中を頼りになどしても居ない。極道の落し前は、極道の間できっちりつけさせようじゃねぇか、というのが今の忠道の気持ちであり、鳥井組の気持ちだった。
それは――やはり、仁義にはほど遠い。それも解っていて、けれども今はこの願いに、怒りに突き動かされて居なければ、どうなってしまうか自分でも判らない。
泰然を装って組んだ腕に、ぐっと力が入る。握った拳が震え出しそうになるのを、意志の力だけで何とか堪えて、繁華街の入口に待たせてある車に戻ろうと踵を返し。
「教えてください!」
こんな場所には不釣り合いな、幼い少女の声を、聞く。
おや、と再び現場の方を振り返れば、ランドセルを背負った小学生の娘が1人、見張りの警察官を一生懸命に見上げてそう、訴えている所だった。道に迷った、なんて単純な理由ではなさそうだと、一見して解る。
だがあんな、年端も行かない娘ッ子が一体、こんな繁華街の路地裏に一体、何の用があるというのだろう。知らず、興味を覚えて見守る忠道の前で、けれども尋ねられた警察官の方はと言えば、無表情ながらも明らかにうんざりとした様子になった。
「また君か。良いから、早くお家に帰りなさい」
「だったら教えてください! どうしておとうさんは死んだんですか!」
「だからね、何度も言ってるだろ。そういう事は教えられないの。解る?」
どうやらその娘は今日だけではなく、もう何度もこの現場にやって来て、同じ事を聞いて居るらしい。ランドセル姿、ということはこの近くの小学校なのか、それともどこか別の駅からわざわざ、電車に乗って来ているのか。
否――それに何より、今、あの娘は何と言った‥‥?
(‥‥お父さん‥‥‥てぇのは、まさか‥‥?)
どうしてお父さんが死んだのか、娘は警察官にそう尋ねていた。こんな裏路地で、こんなタイミングでそう何人も、人死にが出る訳はない――ましてここいらはずっと、警察が見張って居たのだから尚更だ。
ならば、あの娘の父親というのは恐らく、ここで死んだ男の事で。だが――ここで死んだ男といえば、忠道の『息子』以外に居るはずが、なくて。
けれども、まさか、という気持ちが忠道の胸を支配した。脳内で全力で、あの男にそれらしい素振りがあったかどうか、記憶を掘り返す。
確かにシマでのトラブルの件のように、忠道に隠れて動いていた事はあったにせよ、さすがに女の影があれば気づくはずだ。ましてあれくらいの歳の子供となれば、今から多く見積もっても10年ほど前だろうから尚更、忠道が気付かなかったはずはない。
だが、彼女が嘘を言っているようにも思えなかった。だとすれば恐らく、確かにあの娘はあの若頭の子供なのだろう――だが、本当に?
否定と肯定が、忠道の脳内でせわしなく繰り返された。そうしている間にも、娘は警察官に仕事の邪魔だと素気なくされ、唇を噛み締めて俯いてしまう。
それが演技だというのなら、この世の中は何も信じられなくなると、思った。本当に若頭の娘なら放っておくわけには行かないし、そうでなくともあんな小さな娘が必死になっているのだ、通り過ぎては仁義が廃る。
知らず、自分でもすっかり忘れ去ってしまったと思っていた信念が頭をもたげるのを感じながら、忠道は足早に、しょんぼりと肩を落として帰っていこうとする娘に近づいた。――否、やはりこれは仁義などではなく、ただあの男の死の真相に至るための、糸口を探し回って居るに過ぎないのかもしれない。
近づきながら忠道が声をかけたのと、気付いた娘がランドセルの肩紐をギュッと握って足を止めたのは、同時。
「お嬢ちゃん」
「‥‥‥ッ」
振り返った娘の顔は、どこか陰りを帯びていて、追い詰められた小動物のように感じられた。肩紐をきつく握って放さないのは、それだけ、忠道を警戒しているからか。
危ういものを、感じた。こんな子供に、しかも『息子』の娘にこんな目をさせておくわけには、行かない。
「お嬢ちゃん。話を聞かせてくれねぇか」
だからひょいと腰を屈めて、視線を合わせた忠道に、怯える娘の眼差しが一瞬、不思議そうに小さく揺らいだ。
●
繁華街に軒を連ねる喫茶店の1つに、忠道は娘を誘った。最初は警戒の様子を見せていた娘だったが、忠道が鳥井組の組長だと名乗るとその色が薄らぎ、自ら着いて来るようなそぶりを見せたのだ。
連日、事件現場に通い詰めて、警察官に詰め寄るほどに思い詰めていた娘だ。恐らくは忠道から、事件の真相を聞けると思ったのだろう。
今は忠道の向かいの席にちょこんと座り、オレンジジュースをストローで飲みながらじっとテーブルの上を見ている娘に、そう思う。その気持ちは解ると同時に、申し訳ない気持ちにも、拍子抜けた気持ちにもさせられた。
それで、と梅昆布茶の湯気を見ながら、忠道は日向・幸子と名乗った娘に声をかけた。
「お嬢ちゃんのおふくろさんが、ヤツの知り合いだった、てぇんだな」
「‥‥うん」
その言葉に、オレンジジュースのグラスをことりと置きながら、幸子はこっくり頷く。頷き、ランドセルの中から大切に取り出したのは、母が遺した1枚のプリクラ。
そこに写っているのは、2人。1人は5歳の頃に亡くなった母――もう1人は、母が『この人がね、いつかお父さんになる人なのよ』と繰り返し繰り返し、嬉しそうに教えてくれた男性。
本当のところを言えば、お父さん、と呼んではいても、この人が幸子の実の父というわけではない。けれども今よりもなお幼かった幸子にとって、母のその言葉はたった一つ、与えられた希望だった。
母は本当にこの人を慕っていて、毎晩のように彼の事をあんな人だ、こんな人だ、と教えてくれた。それを聞くうちに、一度も会った事のないこの人が自分の父になるのだと、心の底から信じていた。
それは、母が亡くなってからは尚更で。お世辞にもあまり人付き合いの良い方ではなく、学校でも、母が亡くなってから引き取られた養護施設でも孤立していた幸子には、この写真だけが文字通り、生きるよすがで。
(いつか)
お父さんが自分を迎えに来てくれて、待たせて悪かったな幸子、って大きな手で頭を撫でてくれる。そうしてこの、どこに行っても一人ぼっちでしかない世界から、幸子を救い出してくれる。
そう、夢想し待ち続ける事だけが、まだ8歳に過ぎない幸子のたった一つの希望だった。学校も、施設も、幸子の周りに居る人々は、可哀想にねぇ、辛かったでしょう、と言葉では言いながら幸子を厄介者のように見る人ばかりだったから、尚更世界への絶望は激しく、父への憧れは募り。
「でも――おとうさんが死んだって‥‥殺されたって、見て」
文字通り、幸子の最後の希望が失われた瞬間を、彼女は今でも覚えている。施設で流れていたテレビのニュース、何度も何度もプリクラで見ていた父の顔が、遺影のように四角く切り取られて画面に映し出された日。
まさかと思い、そんなと思った。どうして、なぜ、なんで、何が――疑問だけが幸子の胸に溢れ返り、けれどもそれをどう整理したら良いのか解らないまま、幸子は目を見開いてただ、そのニュースを見つめて。
確かな事は、もう二度と、父が幸子を迎えには来ないという事だ。誰1人として、幸子を此処から救い出してくれる人が居なくなった、という事だ。与えられるはずだった暖かな手も、穏やかな当たり前の暮らしも、何もかもが幸子の元にやって来る前に壊れてしまったという事だ。
だから――真実を知りたいと、願った。ただ、願ってニュースや新聞を一生懸命調べて、父が殺された場所を突き止めて――なぜ父が殺されてしまったのか、何とか知りたくて毎日、小学校の帰りに現場に通っている。
「それほどに、お嬢ちゃんぁヤツの事が好きだったのかい?」
忠道と名乗った人が、尋ねたのに幸子は伏せた瞳を揺らした。好きだった、慕っていた、待っていた――けれども幸子が父の死の真相を知りたいと願ったのは、それとはまったく別の理由だったから。
ニュースを思い出す。幸子の幼い世界の中で、ニュースであんな風に写真が乗るのは概ね、悪い人であって、しかも殺されたなんてとても普通ではない、恐ろしい事だった。
「だから――なんでおとうさんが殺されたのか、しりたくて」
お父さんは極道だけど、とても心が優しい人なのよと、嬉しそうに語っていた母。極道というのは色んな悪さをする人だけれども、そんな中にあってお父さんは心がとっても優しくて、そんな所をお母さんは好きになったのよ、と。
けれども、父は殺された。ニュースに寄れば、ピストルで撃たれたのだという。
母の言葉に偽りはなかったけれども、本当に心の優しい良い人なら、そんな酷い殺され方をするものだろうか? もしかしたら本当は、母がそう信じていただけで、父はやっぱり他の極道と同じように悪い人で、悪い事をしたから殺されたのではないだろうか?
――そう、思いついてしまったから幸子は、真実を確かめずには居られなくなった。もしそうだったのだとしたら、本当は父が悪い人なのだったとしたら、幸子は父を信じられなくなる。何もかも、信じていた全てが粉々に砕けてしまう。
それが怖くて――父は本当は悪い人ではないのだと信じて居たくて。けれども、思いついてしまった疑惑に目を瞑る事も、出来なくて――むしろその疑惑は膨らんで行く一方で、どうしたら良いのか解らなくて。
だから、知りたかった。聞くことで、何かが決定的に壊れてしまうのかもしれないけれども、それでも幸子はただ、真実を知りたかった。
「そうか――」
そんな幸子の言葉を、忠道は梅昆布茶をずず、とすすって胸の中で繰り返した。幼い子供の自分勝手な思い込みだとは、もちろん思わなかった。
だから真剣に、真摯に幸子へと言葉を、紡ぐ。
「あいつが死んだ理由は、俺達にも分からねぇ」
「‥‥‥」
「だが言える事はある。あいつは義侠心を持った男だ。俺達を、幸子ちゃんを絶対に裏切らねぇ。それだけは、信じてくれ」
それが、自分が知っているあの男だ。忠道が『息子』と呼んだ、組員達から慕われた忠道の右腕だ。
だから――そう、告げた忠道の瞳を、幸子が真っ直ぐ見つめてきた。その眼差しを、真っ直ぐに揺らがず受け止める。
――しばしの、沈黙が落ちた。けれどもその沈黙を、破ったのは幸子の方だ。
「‥‥分かった。だっておじいちゃんの目は、嘘つきじゃないから」
「お嬢ちゃん‥‥」
そうして小さく小さく、あるかなしかに微笑んだ幸子に、忠道もまた深い、深い息を吐いた。そうして頬笑みかけた忠道に、もう幸子の笑顔は返ってこなかったけれども。
再びオレンジジュースのグラスを取って、ストローでこくりと飲む。その様子に、確かに幸子は忠道の言葉を信じてくれたのだと、感じられたのだった。
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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業 】
8543 / 鳥井・忠道 / 男 / 68 / 鳥井組・三代目組長
8601 / 日向・幸子 / 女 / 8 / 小学2年生
ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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いつもお世話になっております、蓮華・水無月でございます。
この度はご発注頂きましてありがとうございました。
組長さんと小さなお嬢様の邂逅の物語、如何でしたでしょうか。
お嬢様にとっては、きっと、世界のすべてが崩れ落ちてしまうかの様な恐ろしい出来事だったのではないか、と思いながら書かせて頂きました。
そして、お母様との馴れ初めがものすごく気になっている蓮華です(ぁぁ
ぇと、その、いつも通りにその、何かございましたらいつでもどこでもリテイクをお願いいたします‥‥(((
組長さんとお嬢様のイメージ通りの、絶望の中に光の欠片を見出すノベルになっていれば良いのですけれども。
それでは、これにて失礼致します(深々と
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