|
Storm Lily=花葬=
「日が陰っている内に、墓参りへ行こうかと思っている」
ペンを机の上へ置いて自分の前髪を触っていた研究員が、独り言のような呟きを漏らす。
持ち上げているカップの中、もう、コーヒーは残っていない。
「墓参り、ですか。……午後から天気は崩れるそうですが」
青霧・カナエは青い両眼を向けてから、降水確率が40%以上であるのを付け加えた。
「うっかり機会を逃してしまうと、研究室から出る言い訳を探すのさえ、面倒になってしまうからな」
奈義・紘一郎という男が研究所の外へ出る事は、それほど多くないだろう。だが、気まぐれに、もしくは強制的に休暇を押しつけられて、思わぬ場所へ向かうこともある。
単なる“気分”がほとんどなのだが、今日は珍しく『行くのだ』という意志を感じる。
ずっと前から決めていた日の可能性が高い。
「カナエ。護衛を頼む」
「……墓へ参るのに、そこまで物騒なことがあるのですか?」
「一族の墓だからな。俺が行くことで騒ぐ連中もいる……。まあ、墓っていうものは本来、死者のためではなく生者のためにある。参りに行くのは生きている者だけだろう?」
奈義が皮肉めいた笑みを浮かべたので不思議に思う。誰の墓まで行くのか。彼が話す訳もなく、また、カナエも問うことはしなかった。
奈義の一族が、古より生業として退魔を行う血筋であるのを耳にした記憶がある。今も残る者は極めて少ないが優秀との噂だ。
が、常において、籠もる研究室で彼がそういった類の素振りをしたことはないので、言及する者もいなかった。
◆◆◆◆◆
命じられたとおり同行し、呼びつけたタクシーで途中下車。残る山中、道のりを徒歩で進む。
奈義はバケツを持参していて、それをカナエに持たせることもせず、小脇へ切り花、白菊を携えている。
向かった先は静かな山間部で、ほんど“けもの道”。この地に墓があるのだと知らない限り、踏み込む者は恐らくいないだろう。
今のところ誰かと遭遇するでなく二人きりだったが、周囲への警戒は継続していた。
すぐそばで、女郎蜘蛛が美しい網を張り、掛かった獲物を糸で巻いていた。秋津(とんぼ)は葉の下で薄羽を閉じ動かずいるので、雨の降り始めは近い。
「彼岸花か。時期ならもう少し先だろうに、随分と気の早い」
奈義の言葉で見渡せば、深紅の花がひしめき合い、細道の両脇を埋め尽くしていた。緑の樹木と正反対の燃える鮮やかさが、風に撫でられ小さく波打っている。
「こいつの毒の多くは球根に蓄積されている。含まれるアルカロイド『リコリン』は、触れれば皮膚炎、誤食した場合は呼吸不全、中枢神経麻痺、嘔吐などを引き起こす。種類よっては死亡することも。だが、水でさらし毒抜きすれば非常食にもなる。……そう言えば、花を持ち帰ると火事に遭う、そんな迷信もあったか」
「……火事……?」
「花弁が“火”のように見えるからだろう」
「彼岸花には白いものもあると聞きます」
「ここにあるのは全部が真っ赤だな」
ふいに、カナエの右頬へ、ぱたり、と水滴が落ちた。
やはり空は泣き始め、雨粒が周囲の木々の葉を叩く音が響き始める。
奈義は持っている傘をさしてから急に黙り込み、一歩一歩、踏みしめながら目的地を目指す。
ようやく辿り着いたのは奈義家代々の墓の前……。
年代順で点在する墓石は多くの苔から侵食を受けている。風雨で晒され崩そうな墓石たち。刻まれた名前は読めなくなっている。目の前の男を世界へ存在させた血脈の列。
墓地内、草が綺麗に刈られていて、従う一門が今なお存在しているのを示していた。
そして、ひとつの墓の前まで来ると、途中の沢で汲んだ水を柄杓(ひしゃく)ですくい、石まで滴らせる。線香へ火は移らず、彼はそのまま両手を合わせ眼を瞑った。
見たことのない光景だ。
カナエはしばらく奈義の横顔を見ていたが……。
何処から、いつ涌いたのか、無数の気配を感知する。
カナエは命じられた護衛、墓前の静寂を守るため、邪魔をする者どもの殲滅へ向かった。
腰の丈まで深く茂る熊笹を突っ切り、隠れた円陣が徐々に縮められる間合いを計る。武装しているのか、金属の擦れ合う幽かな響きが聞こえてきた。
彼はどうして。自ら標的となるのが分かっていてここへ来たのだろう。
護衛役である僕のことは、信頼に足りる、そう評価しているから同行させたのだと思う。
けれど、そうしてまで参りたかった帰らざる者とは……いったい……。
もしも、僕が生命活動を停止したなら、同じ沈黙で悼むのか。
……たとえそんな日が来るとしても、彼岸花だけは手向けられたくない。
葉がある時、花はなく。花がある時、葉はない。
想像するやるせなさと相まって、ひどく胸が痛む。
擡(もた)げた感傷など振り切るため陣へ突入した。
奈義はまだ墓の前でいるだろう。少しでも長く時間を確保できるように……。
手や頬が、髪が、あの花のごとく染まっていく。群がった刺客はとっくに濁った水溜まりで伏していた。泥の上を鮮血が滲んで広がれば、周辺は異様になまぐさい。
雨が降っていて良かった。きっと、気配と血の匂いを消してくれるだろうから。
|
|
|