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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


【千紫万紅 縁  鈴蘭の物語】

 
 ああ、どれだけ言葉を尽くせば、キミに私はこの気持ちを語りつくせるだろう?
 そう疑問に想うのと同時に、その答えもわかってしまう。
 それは無理なんだ。
 だって、私はこんなにもキミを愛している。
 キミのその、
 少しだけクセのついた茶色の髪も、
 優しい光を帯びた、だからこそ、世界に惑うキミのそのどこか悲しげな瞳も、
 世界の優しさを信じないから、だからこそ傭兵としてたくさんの戦場をかける度に、色んな悲しみを背負ってしまった、その消えそうな背中も、
 いつも私のお腹に、私たちの命に触れようとする度に、ほんの刹那、震える…暗闇に怯える子どものような、その指も、
 私はキミの全てを愛している。
 私はキミに何時だって恋をしているよ。
 昨日の私よりも、今日の私の方がキミに恋をしている。
 キミを愛している。
 キミに私の指を弄われる度に、心臓は小鳥の様に愛の唄を歌うし、
 キミの優しい温もりが私の肌に触れる度に、私の全てがそのキミの温もりに溶けて消えてしまいたくなる。
 だからね、私は自分が女であることに感謝をしているの。
 だって、私は、女だから、キミの子どもを、私たちの愛の結晶を産めるのだから。


 ねえ、知っている?
 

 ヴィルヘルム、私がこんなにも、キミのことを愛しているの?



 夜のベッド。
 弥生さんに向けていた背中に、そっと、彼女の指が触れて、その後に彼女の額があてられる。
 ただそれだけなのに、弥生さんの優しさが伝わってくる。
 そして、弥生さんを通して、弥生さんのお腹の中に居る私たちの子どもの命の鼓動も。
 時折、弥生さんの温もりを、私たちの命を感じる度に無性に泣きたくなる。
 子どもの様に、ただ感情のままに。
 その涙の意味を何も考えず、
 ただ、泣きたくなる。
 

 でも、
 私は、
 どこに向かって、
 誰に向かって、
 何を願って、
 何を請うて、
 私は、
 泣きたくなるのだろう?



 私は、独り、闇の中に、いる………



【千紫万紅 縁  鈴蘭の物語】

 ――――愛の帰る場所――――


 
 かすかに彼の髪から香る潮の香りの理由は、この一か月間、とある貿易会社の船に乗り込み、その高価な荷物と船員の命を海賊から守る仕事を請け負っていたためだ。
 きっと、陸での生活を船に乗り込んでいた期間以上に送らないと、その香りが取れる事は無いのだと思う。
 その潮の香りを心地よいと思うのは、海がすべての生命の子宮だからかもしれない。
 起さないように細心の注意を払って、弥生はそっと、眠っているヴィルヘルムの額を覆う髪を弄い、露わになった額に口づけをした。
 

 願いを込めるの。
 私のありったけの想いを、この口づけに込めるの。
 キミが次の仕事も無事でありますように、って。


 くすり、と肌にヴィルヘルムの吐息が触れる。
 下に居るヴィルヘルムの優しい瞳が柔らかに細められながら、自分を見ている。
「眠りを覚ます口づけは、唇ではないのですか?」
「あら、お姫様がする口づけは、悪い魔法を解くためのものだよ? キミは何か悪い魔法にでも、かかっているのかい?」
 さらりと流れるように白いシーツの上に広がる長い黒髪を掻きあげながら、弥生が瞳をクールに細めながら、嗤うように言う。
 ヴィルヘルムはくすりと笑いながら、肩を竦める。
「醒めるのが怖くなるぐらいに幸せな魔法なら、かかっている。弥生さんと、そして、ふたりの命が、私の傍に居て、」
 言葉は途中だったのに、弥生は口づけでヴィルヘルムの言葉を遮る。
 緑の瞳が瞬いた。
 それをごまかすように、赤い瞳が優しく細められる。
「抱いて」
 甘えるわけでもなく、媚でもなく。
 ただ、純粋な願いとして紡がれた言葉。
 まるで、自分の存在を、主張するように。
 男の逞しい腕が、弥生の細い身体を抱きしめる。
 ぎゅっと力強く。けれども、確かな愛情といたわりをもって、抱きしめられ、上下が入れ替わる。
 白いシーツの上に扇の様に広がった黒髪が美しい。
 その流れるような黒髪を手に取り、そっと、香りをかぐ。
 それはヴィルヘルムの好きな銘柄のシャンプーとリンスの香りだった。
 人なのだ、弥生は。
 しかも、女は男よりも多く秘密を持つ生き物。
 弥生には弥生なりの人生がやはりある。
 けれども、ヴィルヘルムと出逢ってからの彼女は、化粧の仕方も、使うシャンプーやリンス、香水、下着の色、そういうのは全て彼好みに変えたし、料理だって覚えた。
 それまで弥生は自分が何のために生きているのか、この世に生を受けたのかわからなかった。
 でも、これだけは言える。
 

 そう。私は何時だって探していた。
 孤独をかみしめて、いつも膝を抱えながら、私だけに自分の名前を呼ばせてくれる誰かを探していた。
 親に愛されるのは当たり前。
 家族に愛されるのは当たり前。
 だって、親や家族は、神様が生まれる時にくれた、プレゼントだから。
 それは私の物であって、けれども、私だけの物じゃない。
 だって、自分で探し出して、見つけたものじゃないから。
 それじゃあ、寂しかった。
 私は私だけの、私が見つけた誰かが欲しかった。
 誰か、
 誰か、
 誰か
 …………。
 

 孤独を埋めるための恋。
 


 でも、それは本物じゃないよ。
 


 私は空に手を伸ばす。

 それは今にも雪が零れ落ちてきそうだった鈍色の空。


 指をどれだけ伸ばしたって、そこには触れられない。


 私の手は、いつだって、探していた。


 求めていた……。



 そっと指を絡めあう。

 探し続けて、そうして、ようやく掴んだ、掴んでくれた人の、男の、魂の片割れの、ヴィルヘルムの、手を。

 弥生とヴィルヘルムの、右手と左手。

 ヴィルヘルムの左手の指先はそっと優しく弥生の頬を撫で、それから唇が重ねられる。
 彼の癖。

 唇を重ね合わせ、絡めあう。


 ボタンをはずされ、露わになった豊かな白い双丘にヴィルヘルムの口づけがされる。
 零れる吐息に、彼の名前を乗せる。
 恋に恋する生娘なんかじゃない。
 でも、彼の子どもをこの身体に宿した今でも、彼に肌を触れられる度に、弥生の白い肌は紅潮し、心は、幸せに包まれて。


 好きだよ、ヴィルヘルム


「突然ですが、今日はピクニックをします!」
 遅い朝食をとりながら、弥生が突然、そう宣言する。
 ヴィルヘルムは数度瞬き、それから、声を出して笑った。
「本当に突然ですね。急にどうしたんです?」
「あら、理由なんて必要?」
 額の上の髪を右手の人差し指で弄いながら弥生は小首を傾げる。
 それからどこか悪戯っぽい瞳で窓の向こうに見える、どこまでも青い空を見つめながら、口だけで微笑んだ。
「そうね。あの、青い空の下なら、どこまでも歩いていけるような気がしたの、じゃ、ダメかしら? ダーリン♪」
 前半クールに、後半、甘えるような弥生の口調に、ヴィルヘルムはくっくっくと笑った。
「OK。ハニー」
 こうして、ハスロ家のピクニックが決まった。



 理由なんて何でもよかった。


 
 ただ、私はキミを連れ出したかった。



 冷蔵庫の中にあった鮭を焼いて、それと、シーチキン。後は梅干しとおかか。
 急だったからそれぐらいしか用意できなかったけれど、三角になりきれないどこか不格好なおにぎりをたくさん握って、それをアルミホイルで包んで、リュックサックに詰め込んだ。
 あとは魔法瓶に美味しいお茶を入れて。
 出発♪



 この青い空の下を、どこまでも歩いていきたい、

 そう言われた時、本当にそうできたら、どれだけ嬉しいだろうと思った。


 本当は、自分のこの手で、弥生さんに触れるのは、怖いんだ。


 だって、私のこの手には、硝煙と血の匂いが染みついている。


 どれだけ洗ったって、それは消えることは無い。


 なぜなら、それは、この私の罪だから。





 多く命を助けるために、ひとつの命を犠牲にする、




 
 それが、自分たち戦場に立つ者たちの宿命だ。




 綺麗ごとを言うつもりはない。



 すべてを救ってみせるなんて。



 すべての命を救ってみせるなんて。




 どれだけ、妹に怒られても、あの探偵が苦い煙草を吸ってばかりいるのは、
 彼が居る世界が、それだけ無味無臭の、何も感じられない世界だからだろう。



 彼は、紫煙をくゆらせながら、ひどく疲れた顔で、自分に笑いながら言った事がある。



「弥生を大事にしろよ。おまえには帰る場所があるんだから。迷うなよ。迷ったら、俺みたいに、運命に祟られるぜ?」




 彼にだってきっと、幸せな物はあった。
 大切な人も。
 けれども、彼も守り切れなかった命、幸せ、
 犠牲にしたモノのために、
 その道を選んだ。
 そういう運命に祟られた。


 なら、私は?
 彼と同じように、失敗し続けている、この私は?




 時折、無性に泣きたくなる。
 ただ、子どもの様に。
 声の限りに。
 感情のままに。



 青い空を見上げていた。
 ポケットに両手を突っ込んで。
 芝生の植わった公園の真ん中で。

 どこまでも青い空。
 その青い空の下、
 この公園。
 見慣れない楽器を弾いている者、
 子どもとボールで遊んでいる親、
 恋人の足にしがみつく恥ずかしがり屋の子どもに笑顔で挨拶をする女性、
 アイスクリームを両手に持ってベンチに座る彼女に駆け寄っていく少年、
 そこには本当にそこに居る人たちの分だけ人生があって、
 幸せがあった。
 ここは平和だった。


 けれども、軍人として、傭兵として、世界を飛び回るヴィルヘルムは知っている。
 同じこの空の下、あの、彼女と仲良さげにアイスクリームを舐めている少年と同じ年頃の少年が銃を手に、同じ年頃の少年と殺しあっている国を。

 あのアイスクリームを舐めている少女と同じ年頃の少女が、家族を養うために好きでもない男に身を売る悲劇を。


 幼い子どもの両手を握る父親とその彼女、彼らの年頃の親が、飢えで死んだ子どもの躯を抱きしめて、ただ、自分たちも死ぬのを待っている空虚な目を。


 世界は平和なんかではない。


 平和な世界などない。



 それを知っている。



 ヴィルヘルムは、それを知っている。



 知っているのに………



 自分の貌にどんな表情が浮かんでいるのだろう?
 そんなのは知らない。
 知りたくもない。
 ヴィルヘルムは自分の顔を片手で覆って、俯いた。


「空が、青すぎます……」


 ぽつりと漏らしたその言葉は、ただの泣き言だったから、誰にも向けたものではなかった。
 でも、


「はわ? 日射病でしか?   それはダメでし! 大変でし! 大変でし! どうしましょうでし!!!」
 頭の周りをぶんぶんと回る気配。
 はて、最近の虫は人の言葉を話すようになったのだろうか?
 新種?
「はわ! 誰が、虫でしかーーーー! (ノ_<。)」
 がーん、とそれはもうずいぶん、たいそうにショックそうな顔をするその虫、もとい妖精の姿に、思わずヴィルヘルムは吹き出してしまう。
「ぷっ」
 口許に軽く握った拳をあてて笑うヴィルヘルムに、その妖精は、とても信じられない物を見たような顔をした後に、大泣き。
 さすがに、困り果てるヴィルヘルムだ。
 さて、本当にどうしよう?
「えっと、あの、機嫌を直してください」
 まあまあ、と両手を上げて、機嫌を取りなそうとするけれど、それで相手に通じるとは思えない。
 なんと言っても相手は人の言葉を話す虫なのだから。
「虫じゃないでし! (>_<。)」
 ぷんぷんと怒るそれに、ヴィルヘルムはあはははと困った顔で笑う。
「ごめん。お待たせー。ちょっと、トイレが混んでてー。って、ちょっと、キミ。何、愛しい恋女房と、お腹の中の子が居ない間に、可愛い娘を泣かしているのよ? って、虫?」


 ヴィルヘルムの視線の位置で泣いていた小さな妖精は、おまえもかよー、とまたさらに大声で泣いたのでした。




「まあまあ、そう、おこにならないで」
 などと、女子高生の間で流行っている言葉を使ってしまう26歳。
「おこどころじゃないでし! げきオコスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム!!!でし」
 空中で地団太を踏みながらぷんぷん怒る虫、
 もとい、ふたりの前に舞い降りた愛らしいエンジェル、スノードロップの花の妖精は、怒って見せた。
「それ、日本語?」
 しばらく日本を離れていたためにすっかりと文化に置いてけぼりにされた31歳は肩を竦める。
 そして、さらにぷぅーっと頬を膨らませるスノードロップ。
 そんな妖精に夫婦は顔を見合わせて、くすくすと笑った。
「ごめん。ごめん。ほら、スノーちゃん。私が焼いたクッキー。お食べ」
 ちょっと砂糖が多めのクッキーは、大人の男であるヴィルヘルムには甘すぎたかもしれないが、この小さな妖精にはちょうどよかったようで。
 数瞬前までは怒って膨らませていた頬を、今は、クッキーの欠片で膨らませている。
 可愛いなー。青いシートの上に座る弥生はにこにこと笑いながら、次から次へとクッキーやらおにぎりやらを与えた。
 本当。この小さな妖精の身体のどこにこれだけのクッキーやらおにぎりやらが入るのだろう?
 鮭の入ったおにぎりをもぐもぐしながら、ヴィルヘルムがスノードロップを見ていると、その幼児体型が、おもむろにぴきーんと硬直した。
 それから、ぼろぼろと大粒の涙を零しだす。
 どうした?
 思わず、身を前に乗り出させるヴィルヘルム。
「どうしました、スノーさん?」
 どんぐり眼をうるうるさせながらスノードロップがヴィルヘルムを見る。
 そして丸い手で自分の口を指さした。
「なんかぴぃきーんと電流が走ったでし。(―_―。)」
「「電流?」」
 夫婦で顔を見合わせて、それからお互いの鮭とおかかのおにぎりを見つめる。
 はて? これはただのおにぎりのはずだけど?
 とか、思って、ヴィルヘルムはもう一口、おにぎりをぱくり……って、!
「うわ」
「え? ちょ、どうしたのよ?」
「いや、電流が…」
「え? うそ? キミまで? やだ、私、知らないうちに能力でも使って、おにぎり握ってた?」
 何せ、急にピクニックを決めたのだ。
 確かに一分一秒だって時間が惜しかった。
 だからって、能力を使って、自分のスピードをあげて、お弁当なんて作らなかった……はずだけど、
「それでも、使っていたのかしら?」
 身体のスピードをあげる魔法。強いて言えばそれは魔力で全身に流れる電気信号のスピードを無理やり底上げしてやるもので、その能力下では確かにたまに触れた物が電気を帯びる事がある。
 でも、だからって、
 思わず弥生は、おにぎりをぱくり……、って!
「わ!」
 弥生の身体にも電流が走る。奥歯でおにぎりを食べた瞬間だった。ただし、
「アルミホイル」
 涙で目を潤ませながら、ぺっとそれを吐き出す。
 そう、それはアルミホイルだった。
 ヴィルヘルムを見ると、同じくティッシュの上にアルミホイルを吐き出している彼が苦笑いしながら頷いた。
 それから、夫婦で、ぷっと吹き出して、そのまま笑いあった。



「ヴィルヘルムさん、顔は冷たくて怖いけれど、優しいお父さんになりそうでしねー」
 ウェットティッシュで優しくスノードロップの口の周りを拭いてやっていると、おもむろにスノードロップがそう言い出した。
 ヴィルヘルムは優しい笑みを浮かべながら右手の人差し指の指先で、スノードロップの頭を撫でた。
「ありがとう。私はスノーさんから見て良い父親になれそうなんですか?」
「はいでし! 顔は冷たそうでしけど!」
「そ、そう、冷たいと繰り返さなくても」
 ショックを受けた風を装うヴィルヘルムに、弥生はけたけたと笑った。
「大丈夫。私も保証するよ。良いお父さんになるって。だって、私の旦那だもの。占いを使わなくとも、わかる」
 優しく、けれども、力強くそう口にする弥生に、ヴィルヘルムは小さく微笑み、空を見上げ、でも、すぐにそこから眼を離した。
 それを目撃した弥生は、悲しげに眼を細め、何かを言おうと口を開きかけたが、結局、何も言えず、代わりに、
「スノーちゃん、占ってあげようか? どんな占いが良い? 素敵な花の妖精の男の子との恋占い?」
 ウインクする弥生に、スノードロップは「まあ!」と言いながら両手で頬を触った。
「あの、占い、できるんですか?」
 そうか細い声で訊いてきたのは、ちょうど、弥生たちがシートを広げていた芝生の横を通る道を歩く女性だった。
 目の下にクマを作った、儚げな女性で、髪にあてていたソバージュももうおちかけている。服もよれよれだった。ちゃんとすればとても華のある美人、そんなのが彼女の第一印象。
「あなた、」
 弥生が次を口にする前に、しかし、今度は彼女の手に持つスマートフォンから流れる着信音がそれの邪魔をした。
 彼女は、まるでおぞましい物でも見るかのようにスマートフォンを見て、悲鳴をあげて、その場を走り去った。
「おかしな人でしねー」
 スノードロップがのほほんと言う。
 けれども、
「あの子、危ない。死相が出ていた」
 弥生がせっぱつまった声で言う。
 そして、そう言うが早いか、彼女は立ち上がろうとした。
 だけど、
「弥生さんはそこにいて」
 ヴィルヘルムの立ちあがり、駆け出す方が早い。
 でも、弥生は、そのヴィルヘルムの背中に向かって、手を伸ばす。


 
 行かないで!



 悲鳴をあげるようにそれが、口から出かかった。



 それを止めたのは、まだ四か月なのに、確かにお腹の中で動いた命だった。
 弥生は、そこの居る命に語り掛けるように両手でお腹を押さえ、そして、一滴だけ、涙を零した。



 女性に追いついた。
 しかし、その時にはもう修羅場だった。
 サバイバルナイフを手にした女性が男に切りかかっている。
 あとでわかった話だが、ふたりは不倫の関係だった。
 女性が妊娠したので妻子持ちの男がその子どもを下ろせ、と命じたのだ。
 そして、彼女も、男に捨てられたくなくて、その命を、……。
 けれども、男は、彼女を捨てた。
 この日は、その話をするためにふたりは会っていたそうだった。
 そして、彼女は、男を殺して、自分も死ぬ、そのつもりだった。
 その狂刃が今まさに男の首元めがけて振り下ろされた瞬間、しかし、そのサバイバルナイフを、ヴィルヘルムが素手で掴んだ。
 たとえ女とはいえ、取り乱した人間が振るう刃は、その性別を問わず、危険だ。
 だが、ヴィルヘルムは、傭兵として数多くの戦場を駆け抜けてきていた。
 本当の命のやり取りをしてきた者にとっては、そんな刃は、狂刃でも何でもなかった。
「ふざけないでください」
 ぐっと刃を手で握りこむ。
 ヴィルヘルムの掌に食い込む刃によって、彼の血液が、流れ、それはサバイバルナイフの刃から柄へと流れて、そして、彼女の手を濡らした。
 彼女は嫌々をする幼い子どもの様に顔を振り、その場から後ずさろうとしたけれど、サバイバルナイフを強く握りこむヴィルヘルムがそれを許さなかった。
 なら、彼女もサバイバルナイフを離せばいいのだが、それもできない。
 彼女はうううううう、と下唇を噛みしめ、そう声を漏らし、そのまま、地団太を踏んで、そうして、子どもの様にただ、感情のままに癇癪を起して、泣きだした。
「あたしは、あたしは産みたかったんだ。産みたかったの。産みたかったの。でも、でも、でも、独りは……独りじゃなかったのに……生まれてきてくれれば、独りじゃなかったのに、なのに、独りは嫌だったから、だから、あたし……」


 うわわわわん



 ―――それはただただ、感情のままに。



 壊れた心は、
 自分のしでかした永遠の別れに、
 重く押し潰されていた。


 ヴィルヘルムは、彼女からサバイバルナイフを取り上げると、そっと彼女を抱き寄せた。
 男はいつの間にか逃げ去っていた。
 おそらくはもう二度と、彼女の目の前に現れる事は無いだろう。
 それでも事後処理はちゃんとしないといけないから、男の方は後から片づける。
 今は彼女を。


 本当は、間違っている。
 罪は罪。
 罰は罰。
 彼女は自分がした事の重みを背負って、生きていかねばならない。

 でも、そうしてしまったのは、ヴィルヘルムのエゴ、願望だったのかもしれない。


 
 彼も背負っているから。
 救えなかった人たちの命と、明日、未来、希望、絶望、嘆き、悲しみを。
 世界を救うために奪ってきた多くの人の命と明日を。


 ああ、そうか。私は……


 彼女を抱き寄せ、彼女の耳元で囁く。
 すべてを忘れろ、と。
 ただ、それでも、ほんの一欠けらの罪の意識だけは、残して。
 だからこそ、明日を生きるように。
 それが彼女が摘んだ命への贖罪となる様に。




 すべてが終わった後だった。
 右手から血を零し続けるヴィルヘルムを見て、弥生が目を見開く。
 そして、転びそうになりながら彼女はヴィルヘルムに駆け寄ってくる。
「弥生さん、あぶ」
 危ない、そう言おうとした。
 結局、言えなかったけれど。
 盛大に景気の良い音がした。
 それが、弥生が自分の頬を叩いた音だと気づいたのは、彼女が自分の頬を叩いた右手を悲しげに胸を押し付けて、下唇を噛みしめながら、睨んできたのを見た時だった。
 弥生に何かを言わなくては。
 そんな気持ちばかりが逸って、結局は何も言えない。
 無理やりにでも言葉を紡ごうと思えばきっと、紡げたけれど、でも、それは何だか間違っている気がしたから、結局、ヴィルヘルムは沈黙を選んだのだ。
 弥生を、愛しているからこそ。
「私は、私と、私たちの子どもは、キミの傍にいるんじゃない! キミの、キミの、隣に居たいの」
 ヴィルヘルムは、はっとする。
 今朝、ふたり愛し合う前に、自分が口にしたあの言葉。
 自分の罪に怯える子どものような感情が口にさせたあんな些細な表現が、しかし、弥生に与えていた不安はとても大きかったのだ。
 弥生は、ヴィルヘルムに抱き付き、そして、握りしめた拳で、ぽかぽかとヴィルヘルムの胸を叩きつづけた。
 何も言わずに。



 本当は、泣いている弥生さんの事を抱きしめたかった。

 けれども、この期に及んで、まだ、私は、わからないんだ……。


 ああ、バカだなー。
 私は、バカだなー。
 どうしてだろう?
 どうしてだろう?
 どうしてだろう?

 こんなにも、愛されているのに。


 こんなにも自分が心の奥底から愛して、一緒に歳をとっていきたいと祈る様に願う女性と同じように、想われているのに、


 どうして、心は、こんなにも、闇にとらわれているのだろう?



 ばかだなー。
 ばかだなー。
 ばかだなー。



 どうしてだろう?
 どうしてだろう?
 どうしてだろう?




「弥生さん」
 結局、ヴィルヘルムにできたのは、それだけだった。
 そして、弥生は、それを聞くと、彼の下を走り去った。




 そこには鈴蘭が咲いていた。
 鈴蘭の咲く傍らに置かれていたベンチ。
 別に家まで帰ってしまえば良かったし、弟の家へと行くこともできた。
 けれども、そうしなかったのは、そこに鈴蘭の花が咲いていたからだと思う。
 弥生はそのベンチに座って、俯いていた。
 そっと、両手で自分のお腹を押さえながら、そこに居るふたりの命に語り掛けながら。

「隣、空いていますか?」

 優しく穏やかなヴィルヘルムの声がかけられる。
 弥生はお腹の中の子に語り掛ける。
「どうしますかー? ママの隣にこのおじちゃん、座っても良いですかー?」
「おじちゃん、って傷つくな。まだ、若いのに」
「あん?」ぐっとヴィルヘルムを睨む。若いって、若者気どりして、それでどうすんのよ?
 目で射殺されそう鋭さで睨まれて、ヴィルヘルムは苦笑いを浮かべて、弥生の隣に座る。
「ちょっと、誰も隣に座っていいって、言ってないのだけど?」
 図々しいおじちゃんですねー、そうお腹の中の子どもに語り掛ける。
「ごめん」
 ヴィルヘルムが言う。
 そこで初めて、弥生がヴィルヘルムの緑色の瞳を見つめた。
「何が?」
「全部……」
 ヴィルヘルムが頭を下げる。
 弥生は、結局、言葉を飲み込み、代わりに優しく、母性溢れる顔で優しく微笑みながらヴィルヘルムをそっと胸に抱いた。
 心臓の音色が聴こえる位置、そこにヴィルヘルムの温もりを感じる。
 女は愛おしげに男の頭をそっと、撫でた。
「私が許す。だから、キミは、泣いて良い」



 私が許す。だから、キミは、泣いて良い



 全身に電流が走ったようだった。
 最初は笑おうと思った。
 けれども、それを見透かしたように、弥生さんの両腕が、私を抱いたから、私はそれをやめた。



 そうして、私は、世界で一番愛おしくって、大好きな弥生さんに抱きしめられながら、ただただ、子どもの様に、何も考えずに、ただ、感情のままに泣いた。



 あとで、仲直りをした私たちを見て、あの小さなスノードロップの花の妖精が幸せそうに微笑みながら言った。

 鈴蘭の花の、花言葉は愛が帰る場所なんでしよ、と。



 鈴蘭の花が咲く傍らに置かれたベンチ。
 そこは愛が帰った場所であると同時に、
 新たな物語が始まった場所でもあった。


 私はまだ、答えを見つけられずにいる。

 それでも私は、弥生さんと私たちの子どもが、私の隣を歩いてくれるから、きっと、どこまでも、歩いて行ける。



 −END−



 −ライターよりー

 こんにちは、PL様。
 初めまして、でしょうか?
 このたびは、ツインシチュをご発注していただき、誠にありがとうございます。
 ちょっと、最初から、ヴィルヘルムさーーーん、(><) みたいな感じになってしまいました。
 ほのぼの、というよりも、こう、夫婦の想いあう砂糖菓子ノベルで仕上げてみたのですが、いかがでしたでしょうか?
 このお話が生まれたきっかけは、私がこういうお話が大好きだからです! ドヤ! ではなくてですね、
 弥生さんのバストアップのイラストを見た瞬間に、そこに強い母性を感じたからなんです。ああ、弥生さんの、女性だからこそ持てる心の強さを書きたいって。その分、ヴィルヘルムさーーーん! っていう感じになってしまいましたが。(^^)
 あと、今回は千紫万紅を、とご希望していただけて、それで過去作品を拝見していたら、鈴蘭の花があったので、なら、その鈴蘭の花を題材にして、夫婦らしいエピソードをと。
 本当にヴィルヘルムさんと、弥生さん、書いているの、楽しかったです。
 願わくば、少しでも、PL様に、楽しんでいただけるように。
 満足していただけますように。

 本当に本当にPL様、ご発注ありがとうございます。
 
 草摩一護