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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


全ては流れる血の如く

 視界の中を線が横切る。
 黄色い線、青い線、無色透明、そして、赤。
 人間以外に、青霧カナエは幾度も何かの死に対面してきた。その、死に近いもの、死に向かっていくものの側にはいつも、こんな線の流れる機械が置いてあったと思う。
 あれはなんという機械なのだろう。心臓の音が電波音で聞えるようで、怖くて、心地よい。
 無色透明な線が目の前で曲がる。緩やかな曲線の後には、静かにカナエの側を離れていく。
 これは、死だ。
 カナエの意識がある時点で、自身の死ではなかったが、確実に今、何かが息絶えたのだと本能で理解する。
 感覚も、理性も、多分知性も、現在『カナエ』を作っているものは全てが朧げであり、身体すら上手く動いてはくれない。腕には何本もの注射針の痕があり、紫色に変色した箇所も見られた。
 それでも、もう痛いとすら感じない。
 瞼は鉛の如く重く、瞳は膜が張ったかのようにぶれ、渇いていた。息は浅く、生きている程度のことは分かったが、上手く身体を動かせることはまず、ありえないだろう。

 『虚無の境界』という枠組みが仲良し組織ではないことくらい十分に承知している。いや、寧ろ逆であることはその身に叩き込まれている。
 だから、とも言えないが、この話を始めて聞いた時、カナエは一切の躊躇いも無く頷いて見せた。
 つまるところ、奈義紘一郎の研究の一環、とでも表現しようか。カナエ自身、紘一郎から直接話を聞いたわけではないから、本当のところは知らなかったが、少なくとも、その名前が出た時点で、自らはどこまでもついて行こうと決めたのだ。
(奈義さん……)
 朦朧とした意識の中で盲目の子供のように、カナエはその名前を呼ぶ。
 この残酷な枠組みの中でただ一人、自分が心を許している存在だ。奈義紘一郎という男は。銀縁の眼鏡をかけた、銀髪の壮年。仕立ての良い白衣で身を整え、カナエが帰ってくると嬉しげな反応を示してくれる唯一の人間。
 たとえ、この研究が死を意味するものだったとして、自分は紘一郎のことを恨みはしないだろう。枠組みで言えば、解き放ってくれるようなものなのだ、生であっても、どちらでも、彼はカナエの全てでしかない。
 研究内容の全ては聞けるものではなく、ただ過剰とも言える薬の摂取と、輸血、輸液、注射の数々が行われるだけで、そこから何か探れるわけでもない、消耗していくのは体力と気力ばかりだ。
 日に三回は食事というものが与えられ、水も常備されてはいる部屋。
 だが、カナエが『動けた時』のように普通に食事に口をつけているかと言えば否、水で喉を潤しているかと言えば完全に否である。食べない時は目の前に通る輸液の線が増え、飲まない時を考えて、更に線が増えていく。
 当然、そういった動けない日は死にゆく人間のように管に頼り、動ける時間だけ、上半身を起こし、うつろな瞳で紘一郎を待った。

「カナエ……起きていたのか」
 何日ぶりだろう。もしかすると、一ヶ月は経っているか。カナエの隔離されている研究室に待ち望んだ顔が現れる。
 扉が押される音ですら、この人物であると何故か分かってしまう。静かに、カナエを気遣うような仕草を見せるのは紘一郎以外に居ないのだから。
「奈義……さん」
 紘一郎の呼ぶ、自らの名前が鼓膜に、水の如く溶けた。同時に、連日の投薬で荒れ果てた、砂漠のような心の中に湖が出来る。
 動ける、と思った。今は大分少なくなったものの、数日前までは管だらけだった腕を動かし、起こした上半身を唯一の人へ向け、前進させようと努力した。
「そのままでいい。……そのままでいてくれ。おまえの頑張りは聞いているが、少し、休んだほうがいい」
 このまま放っておけばカナエは無理に動き、ベッド上から落ちてしまう。紘一郎はそう考えたのか、歩み寄りながら、頼りなげな少年の肩をその場へ、押しとどめようと置く。
「嫌です、今眠ってしまったら、奈義さんは行ってしまうでしょう? 僕は、あなたと一緒に居たい……ずっと……このまま……」
 だが、この行動こそが、カナエにとっては逆効果だったらしい。
 渇いた瞳の少年は、敏感に紘一郎の手の感触を感じ取り、必死にその腕に縋ろうとする。
「おまえは疲れているんだ。感情ばかり暴発させてはいけない。常に冷静でいなければ」
 紘一郎はずっと、カナエが『生きる』ように仕向けてきた。いや、本当のところがどうなのか、彼の心中を察する者は居なかったが、少なくとも少年本人には、この人物が『虚無の境界』での全てであったのだ。
「冷静です。僕は、しっかりと自分をもっています。……どうか、置いていかないで……」
 ほんの数分、様子を見に来ただけなのだろう。紘一郎が去ると頭のどこかで理解しているカナエは、皺一つ無い白衣の裾を両手で持ち、頬を擦り付けるように懇願する。
 そこに、日々理性をもって生きるカナエの姿はどこにもない。
 力の限り、紘一郎を引きとめようとするが、少年の身体にはそこまでの力は無く、強引に掴み、引き寄せたはずの腕へ、カナエの上半身は倒れこんだ。
 瞬時、支えられる身体の温もりに安堵と緊張が走る。
 紘一郎とて『虚無の境界』の人間だ、彼なりの仕事があれば自分の側から離れていくことは容易に理解できる。今までとて、少なからずカナエの味方をしてくれていても、多くの時間を過ごせていたわけではない。
 たまに出会えた時、安らぎのひと時に初めて、彼の優しさに触れることが出来たのだ。
 カナエが手に取ったせいで皺が増えた、そんな白衣の腕の中で思う。ここからあと何分、紘一郎は側に居てくれるのだろうと。『分』も居てはくれないかもしれない、下手をすると秒、いや、すぐにでも、踵を返してドアの方へ向かってしまうのではないだろうか。
 ごくり、と喉が鳴る。これは恐怖だ。
 安寧に身を任せながら、その実、カナエは怯えた犬のようだった。
 飼い主の機嫌を損ねてはいないか、抱かれた腕の中で紘一郎の顔を見ようと、首を動かす。身体の自由はまだ上手くない為、じれったい程度にこの動作は遅い。
「安心しなさい。――時間は、とってある」
 刹那に消える時だと思っていた。だが、カナエが不安を募らせるのに反して、紘一郎の腕は逃げず、怯えた犬の頭を撫でた。
 大きな手の平に研究者特有の、細いわりには――日によって度合いは違うが――ささくれだった皮膚が『彼』であると認識させる。
 紘一郎の機嫌を損ねていないか、確認しようとする犬の首はここで、嬉しさと、いつもの彼らしくない時間のとり方に、不安定な甘さを感じながら落ち着くのだ。
 狭い部屋の中、気を失うような状態で数日を過ごしてきたカナエに、現在の時刻など分かるはずもなかったが、紘一郎が『忙しい』タイプの人間であることくらいは理解できる。いや、理解させられている。
 共に居たいと願って、彼の研究室に理由をつけて訪ねても、大抵は上手くかわされてしまうのだから。
 『時間のある』紘一郎。これも、らしくない『紘一郎』だった。
 カナエの髪を撫で、そのまま血の気を失いつつある耳へと指を落とし、本当に可愛がるように彼は撫でる。
「奈義さん……好きです……。あなたが僕をどう思っていたとしても、どう扱おうとも、僕は……あなたの出した答えなら受け入れられる」
 カナエの声は熱に浮かされ、声色こそ落ち着いてはいるが、普段の自分ならば言いそうに無いことを口走っていた。それも、全て今だから言えることであり、もしかするとこの先、一生口に出すことは叶わない想いかもしれない。
 そもそも、この瞬間に拒絶されれば終わる話なのだと、口走っている矢先で考える。甘えと共に出る自嘲が脳内を侵し、心身共に弱り果てた少年の心は今にも壊れそうだった。
 部屋の消毒されすぎた匂いに、暫くぶりに与えられた、自分以外の生きている人間の香り。顔に出さないとはいえ、カナエにも心はあるのだ。寂しくないはずがない。
 ずる、ずる、と紘一郎の腕の中で、蹲るかの如き動きを見せながら、告白を呟けば、存外優しい腕は変わらずに、カナエを包み込み、泣きそうになった。
「……カナエ……」
 聞いたことも無い、紘一郎の切なる声。
 カナエの細い身体は、すっぽりと紘一郎の腕の中に納まり、彼の声を合図に力を入れて抱きしめられた。
 あの、紘一郎が自分を抱きしめている。これだけで、驚愕の展開に等しい。何度も顔を合わせてきたが、上手く感情を交わす時間など無いと思っていた。募るのは自分の思いだけなのだと、そう思い続けてきたのである。
 それがどうだろう、彼の胸に縋れれば、希望をもってしまう。相手にも自分への気持ちがあると、思い込んでしまうのだ。
 今までカナエをかばうように、時には守るように動いてくれた紘一郎の全てを肯定したくなっていく。
 頭が、溶けてしまいそうだった。脳内から出る恥じらいと、想い、全てが溢れて、紘一郎を汚してしまう気がする。けれど、カナエは進むことにした。全てをこの実験のせいにして、気持ちをぶつけてしまいたい。
「奈義さんのせいだ……」
 呟く声は弱々しく、最初の『な』は聞えなかったかもしれない。カナエの涙にも似た声が、次第に悲痛な面持ちになって絞り出てくる。
「僕がこんな風になったのも、こんな言葉を言ってしまうのも。奈義さんのせいだ……。どう収拾をつければいいんですか……? この感情……。心臓が重いのは何故ですか……?」
 硬い胸に寄りかかり、カナエは額を擦り付けるようにして紡いだ。
 元々熱かった視界が何故か異常にぼやける。身体もあまり良くないせいか、ぎこちなく震え始めた。
 頭上からは紘一郎の声が聞こえ、大きな手片方で顔を上げさせられる。
 目の前には、目じりを切なそうに下げ、口元を静かに緩めた紘一郎の顔。何度見たいと思ったか分からない彼の優しい笑顔。だが、その笑顔もどことなく曇ったように見えた。
「俺のせいでそうなったと言うのなら、カナエの言う通りにしないとな……」
 どこまでを聞いてくれるというのだろう。カナエ自身の望みを。何時まで、何をしてくれるというのだろう。
 言う通りにしてくれるならば、全て今、口にしてしまいたい。けれどきっと、時間が足りないのだろうから、早口でまくし立ててしまえれば良いと、カナエは泣いて、笑った。
 声を出そうにも、嬉しさと辛さが押し寄せて、言葉よりも吐く息の音ばかり響く。
「落ち着きなさい、カナエ。全て――聞いてあげるから」
 頬を撫でる手の平の親指が、震える唇をなぞり、改めて自分が彼に触れられているのだと理解した。
 次いで、出てくるのはカナエの今までの感情。矢次に押し寄せてくる紘一郎への想いを、どう伝えただろうか。きっと、自分自身これから何が起こっても、思い出せるだろう。
 命を失うことがあっても、自らに投与されたあの線――薬物、そして血液達のように、一つ、終わって次が来る。
 一つ死んで、カナエの中で生き、更に紘一郎の中で生きてくれるのだ。
 どこまでも、紘一郎と共に。

 ***

 奈義紘一郎にとっての愛情は、苦痛でしかなかった。
 好意を向けられることも、干渉されることも、わずらわしさしか感じない。人を避け、世を避け、静かに生きていく。それが『奈義紘一郎』という男であったはずだ。
「しかし、どうしたことだ、この体たらくは」
 研究室から席を外したのは、あれから数時間後、カナエが寝静まってから、少年を起こさないよう気を遣い、扉の開け閉め一つとっても彼のことを考えて外に出たのだ。
 誰かに気を遣って生きるのは、その『誰か』に好意を向けられない為、想いを残さない為。だが、全くもって、今回カナエの元に訪れた自分は、逆の対応で少年と相対したのだから、興味を通り越して情けなさすらこみ上げる。
(どうしてしまったというのだ、俺は……)
 カナエのことを、全く気に留めていなかったわけではない。良い研究対象ともとれるし、好都合な存在でもあった。
 死なれれば困るし、自らの研究にも不都合しか出てこない。いつも、彼を守るのはそういった紘一郎自信の不都合があるからだと、言い聞かせてきたはずなのだ。
(……言い聞かせている時点で、俺はおかしかったのかもしれないな……)
 触れてきた、カナエの身体は熱がひどく、とても頼りない存在であった。
 小動物が死ぬ瞬間震え、刹那、命が無くなってしまうかのような状態。紘一郎は、この命が無くなってしまわぬように、十分に気をつけて触れたのだ。
 結果、カナエの脈は上手く整い、紘一郎本来の研究成果も成就しそうではあったが、肝心の自分自身が揺れる。
 以前、奈義紘一郎という存在の愛情とは、苦痛だったのだ。
 良い研究材料になると感じた、あの時とは違う。
 心を鉛に支配されたかの如き現実が今、紘一郎の全てを包み込んでいた。

fin