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竜の女王と人魚姫
海竜の鱗が1枚。そこに、色とりどりの小さな貝殻がいくつか特殊な手法で接着され、ハイビスカスのような花の形を成している。
掌ほどの大きさの、髪飾りである。
人魚族か海エルフか、とにかく海洋に住まう種族による制作品であるのは間違いない。何らかの魔力が感じられる。いかなる魔力であるのかは、持ち帰って詳細に調べてみないとわからないか。
「調べろ……と、おっしゃるのね?」
「私も顔は広い方ですが、本当に信頼が置ける鑑定士を、貴女以外に知りませんのでね」
美術館の館長が、そう言いながら、髪飾りをテーブルに置いた。
美術館を経営しながら、そこにある美術品の転売なども行っている男である。
「これを館内に置くか売却するかは、貴女による鑑定結果次第という事で」
「私まだ、引き受けるとも何とも申し上げておりませんわよ?」
「引き受けて下さるなら……例の品、格安でお譲りいたします。少なくとも鑑定料金分は、勉強させていただきますよ」
「……そう来ると思いましたわ」
シリューナ・リュクテイアは苦笑しながら、テーブル上の髪飾りを手に取った。
この男の美術館に、シリューナのお目当ての品が展示されている。
装飾品の一種で、シリューナによる魔力付与にも耐えられるであろう逸品だ。
それを譲ってくれるよう、この館長とは交渉の真っ最中であった。
手に取った時点で、その髪飾りにどのような魔力が宿っているのか、シリューナは大方わかった。
しかし、それでは利益にならない。
困難な鑑定であった事を装い、例の品を、無料に近いところまで値引きさせなければならないのだ。
自分の店に戻るや否や、シリューナは鑑定に取りかかった。
海竜の鱗と貝殻で作った髪飾り。思った通り、特に危険な品物ではない。籠められている魔力はささやかで、着用者に深刻な害をもたらすようなものではなかった。
それを、きっちりと目で見て確認しておきたいところではある。
きらきらとした視線を、シリューナは感じた。
店員の女の子が、カウンターからこの工房を覗き込んでいる。鑑定中の髪飾りを、熱っぽく盗み見ている。
ファルス・ティレイラ。
シリューナと同じ竜族の少女で、飛翔能力を活かした配送業を個人で営んでいるが、暇な時はこうしてシリューナの店を手伝ってもくれる。
便利屋の如く扱っている少女に、シリューナは声をかけた。
「ティレ、着けてみる?」
「い、いいんですか? お姉様」
ティレが、いそいそと工房に駆け込んで来た。
「素敵な髪飾り……どこから仕入れて来たんですか?」
「売り物ではなく預かり物よ。さ、いいから着けてごらんなさいな」
ぺこりと身を屈めたティレの黒髪に、シリューナは髪飾りを差し込んでみた。
左側の一筋だけが明るい紫色に染められた、少女の髪。そこに、貝殻で出来た大輪の花が咲いた。
「思った通り……似合うわよ、ティレ」
「鏡見せて下さい鏡! えっと、この辺にありましたよね……」
落ち着きなく鏡を探しながら、ティレはいきなり転倒した。
「あらあら、大丈夫?」
「いったぁ〜……す、すいませんお姉様。何か、いきなり足が……」
などとティレは言っているが、足はなかった。なくなっていた。
彼女のスカートから伸び現れているのは、大きな尾ヒレである。
ティレの両脚は、柔らかく健やかな脚線を残しながらも、魚類の下半身に変わっていた。
人間やエルフなど、陸棲の種族の者を一時的に人魚へと変える魔力を秘めた髪飾り。このままティレの服を脱がせてみれば、恐らく脇腹の辺りに鰓が開いているはずだ。
「なっ! 何なんですかぁ、これ!」
立ち上がれぬままティレは、ぴちぴちと尾ヒレで床を叩き、のたうち暴れた。まるで魚が跳ねるように。
「美味しそう……」
「お姉様、冗談言ってないで……あの、元に戻してくれない、んですか?」
ティレが、涙目でうるうると見上げてくる。
「私、冗談で貴女を誉めたりはしないわ。今のティレは、本当に美味しそう……軽くソテーしてサルサ・ヴェルデをまぶしてみたら、白ワインと合いそうね」
「いや何とも合いませんから! ……あ、そうか。これ外せばいいんだ」
ティレが、髪飾りを外そうとしている。
彼女が、人魚ではなくなってしまう。
そう思った瞬間、シリューナは片手を掲げていた。綺麗な指で、空中に呪文を書き綴っていた。ほとんど反射的に、身体が動いていた。
空中に出現した呪文の文字が、そのままティレの身体へと吸い込まれて行く。
「ひっ!?」
人魚と化した少女の肢体が、悪寒でも走ったかの如くビクッ! と元気に反り返り跳ねた。
その躍動感を維持したまま、硬直してゆく。
「安心して、ティレ。本当にソテーしたりはしないわ」
滑らかなまま固まってゆく少女の頬を撫でながら、シリューナは囁きかけた。
「ただ美味しそうな貴女を、しばらく愉しんでいたいから……ね?」
「ね? ……とか……言われてもぉ……」
可憐な唇が、泣きそうな声を紡ぎ出しながら、硬直していった。
釣られた魚の如く身を捻り、のたうちながら、ティレは次第に動かなくなってゆく。
「うぅ……あたし、またお姉様に……遊ばれちゃうん……ですかぁ……」
黒髪に貝殻の花を咲かせた人魚姫の石像が、そこに出現していた。
気のせい、であろうか。生身であった時よりも、ボディラインのしなやかさと瑞々しさが際立っているようにも見える。
その瑞々しい肢体が、苦しげながら元気良く跳ねたまま、時が止まったかの如く石像と化しているのだ。
「本当に……食べてしまいたいくらいに可愛いわよ、ティレ」
水飛沫が見えてきそうなほど躍動感に溢れた人魚像を、シリューナはそっと愛撫した。
優美な五指が、人魚姫の細い首筋を、愛らしく引き締まった脇腹の辺りを、愛おしげに這いなぞってゆく。
石の冷たさと固さが、若々しい生命の温かみと柔らかさを内包している。シリューナは、そう感じた。
ドワーフ族の最高芸術家でも、ここまで躍動感溢れる石像を彫り上げる事は出来ないだろう。
普段、元気良く動き回っている少女に、石化の魔法を施す事でしか、この人魚像は誕生し得ない。
「ああ、でも……気のせい、かしらね」
時間を忘れそうになりながら、シリューナは語りかけていた。
「元気良く動き回っている貴女よりも、こうして……おたおたと慌てふためいている貴女の方が、ずっと可愛いような気がしてしまうわ、ティレ……」
失敗した、とシリューナは思った。
己の迂闊さを呪った。目先の欲望に惑わされた自分自身を、ファイヤーブレスで焼いてしまいたくなった。
ティレを、あの館長の美術館に展示させてしまったのである。
期間は一週間。すでに館長とは契約を交わしてしまった。商人である以上、契約は守らなければならない。
対価として、例の品を無料で譲り受ける事は出来た。
その代わり、ティレは大勢の人の目に触れてしまう事となった。
石の人魚姫と化した少女の、美味しそうな愛らしさを、来館者全員が堪能している。
シリューナ1人だけの愉しみを、大勢の人間が不当に享受しているのだ。
(私のティレ……私だけのティレが……)
「開館以来の大盛況ですよ、リュクテイア女史」
館長が、空気を読まずに話しかけてきた。
「あのような見事な人魚像、どこから仕入れて……あ、いや。それは企業秘密というものですな。どうです物は相談ですが、あの人魚姫の展示期間を一ヶ月ほどに延長させてはいただけませんか? もちろん賃貸料は、そちらの言い値で」
「お願い……どうか、そのような事おっしゃらないで」
にこやかな美貌を、シリューナは懸命に維持した。端麗な唇の内側では、白く美しい牙がギリギリと噛み合っている。
「何もかも灼き尽くしたく、なってしまいますから……ね?」
「わ、わかりました」
館長は、何も言わなくなった。シリューナもそれ以上は言わず、にっこりと微笑みを保った。
背中では、魔力の翼が、炎の如く激しく揺らめいている。それを止める事は、出来なかった。
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