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<東京怪談ノベル(シングル)>


魔王の血統


 血の臭いなど、嗅いだ事はない。が、それが血の臭いである事はわかった。
 血の臭いと火の臭いが混ざり合い、渦を巻いている。血生臭さと、焦げ臭さ。
 戦場の臭いだった。
 ヴィルヘルム・ハスロは今、林の中に立っている。むせ返るような戦場の臭いに満ちた、林の中。
 ……否、林ではなかった。周囲に林立しているのは、樹木ではない。
 杭であった。地面に大量に打ち立てられて天空を向き、何かを高々と串刺しにしている。
 武装した、人体である。
 大勢の兵士が、串刺しとなって晒されていた。
 幼いヴィルは、硬直していた。生まれてから10年にも満たぬ小さな身体が、大人でも耐えられぬほどの圧倒的な恐怖に支配されている。
 串刺しの屍などよりも、もっと恐ろしいものが、そこに佇んでいたからだ。
 こちらに背を向けて立っている、赤黒い人影。
 がっしりと力強い身体に、返り血まみれの甲冑をまとっている。
 この光景を作り出した、張本人。
 その禍々しい姿が、ゆらりとヴィルの方を向いた。
 顔は、よくわからない。兜と面頬の下で、眼光が爛々と輝いているのが見て取れるだけだ。
 血と炎の色をした眼光が、ヴィルを射すくめた。
 声は出ない。声帯が、恐怖で凍り付いている。
 それでもヴィルは、悲鳴を上げていた。
 魂が発する、悲鳴だった。


 自分の悲鳴で、ヴィルは目を覚ました。
「……はあ……はぁ……」
 呼吸を整えながら、見回してみる。
 戦場などではない。寝室だった。自分と弟に宛てがわれた、小さな寝室。
 その弟が、隣のベッドで目を覚ましている。
「おにいちゃん……どうしたの?」
 弱々しい声に、こほっ……と咳が混ざる。
「何でもない……ごめんな、起こしちゃって」
「ううん。ぼくは、だいじょうぶ」
 ヴィルよりも4つ年下、5歳になったばかりの弟である。
 5歳の誕生日を無事に迎える事が出来るかどうか、という話を両親と医者がしていたのを、ヴィルは盗み聞きした事がある。
「こわい、ゆめ……みたんだね、おにいちゃん」
 弟が言った。
「おとうさんが、いってたよ。この国には、むかし、とってもこわい王様がいて……いまでも、たくさんの人に、こわいゆめをみせてるって」
「いくら恐くたって、ただの夢さ」
 ヴィルは半ば無理矢理、笑って見せた。
 この弟は、恐い夢などよりもずっと過酷な現実を相手に、絶望的な戦いを強いられているのだ。
「……寝よう。こんな時間に起きてたら、お母さんに怒られる。昔の王様なんかより、お母さんの方が恐いな」
「そうだね」
 ベッドの中で、弟が微笑んだ。
 夜闇の中に消え入りそうな、笑顔だった。


 ルーマニアの国旗から、共産主義の紋章が切り取られて間もない頃。
 革命の熱狂冷めやらぬ首都ブカレストで、ヴィルヘルム・ハスロは生まれた。
 父は、革命で処刑された大統領と近い位置にいた科学者。母はスウェーデン人。
 2人の間には男の子の兄弟が生まれた。健康な兄と、身体の弱い弟である。
 革命の後遺症と言うべきか、当時のブカレストは治安が最悪であった。
 しかも前大統領に重用されていたハスロ博士は、それだけで命を狙われたり、あるいは前大統領派の残党から接触を受けたりと、心休まる時がなかった。
 だから、一家揃ってトランシルバニアの小さな村へと移り住む事になったのだ。
 空気が綺麗で風景も美しい。それ以外には何の取り柄もない村で、ハスロ一家は穏やかな時を過ごしていた。


 男は女より、少なくとも体力においては勝っている。そのはずであった。
 だが、もしかしたら長い時間、働き続ける事に関しては、女性の方が優れているのではないか。
 母を見ているとヴィルヘルムは、そんな事を思ってしまう。
「おやおや、またこき使われたのかい。ヴィル君は」
 道で擦れ違った老婦人が、そんな言葉をかけてくる。
 何か言葉で応えるような体力が、ヴィルには残っていなかった。泥まみれでフラフラと歩きながら、ただ頷いただけだ。
「この子には、しっかり働いてもらわなきゃね」
 ヴィルの倍は泥にまみれた母が、力強く農具を担ぎながら、代わりに応えた。
 畑仕事の、帰りである。
 家に帰ったら母は、休む間もなく夕食の仕込みを始める。朝は、誰よりも早く起きて朝食の準備である。
 自分が大人になっても、こんな働き方は出来ないだろう、とヴィルは思う。
「何しろ、うちは旦那が頼りにならないから。この子にはね、地味でいいから、ちゃんと働ける男に育って欲しいんですよ」
「だけど旦那さんも、それにもう1人のおチビちゃんも、ずいぶん元気になったじゃないか」
 弟の5歳の誕生日には、この老婦人も、他何人かの村人と共に、お祝いをしてくれた。
「村の皆さんのおかげですよ。うちの旦那なんて、ブカレストにいた頃は、いろいろ小難しい知識はあるくせに人付き合いは知らない学者先生だったんですから」
「ほんと、あんたみたいなお嫁さんが見つかって良かったねえ。あの先生も」
 言いながら老婦人が、ヴィルの頭を撫でた。
「ヴィル君は、お母さん似かねえ。弟さんを、ちゃんと守ってやるんだよ?」
「はい!」
 疲労困憊でも、それだけはしっかりと応える事が出来た。
 そんなヴィルに、母が容赦のない言葉をかける。
「帰ったら、すぐに芋の皮むきね」
「ええ〜! どう考えても、おやつが先だよぉ」
「あんたは、おやつ食べたらすぐ寝ちゃうから駄目。ちゃんと守るっていうのはね、ちゃんと働くっていう意味なの」
 農作業で疲れきった息子の首根っこを、母は容赦なく掴んだ。
「ほらほら、頑張りなさい? お兄ちゃん」
「うぅ……」
 お兄ちゃん、と言われてしまっては、頑張るしかなかった。


「ははは、今日も大変だったな」
 机に突っ伏している息子に、ハスロ博士は笑いかけた。
「まあ私が頼りないから仕方ない。お前には頑張ってもらわないとな、ヴィル」
「お母さんと同じ事言ってるし……」
 突っ伏したまま、ヴィルが文句を言う。
 ハスロ博士の、自室である。
 書斎と言ってもいいだろう。様々な書物が、いくつもの本棚に詰め込まれている。ブカレストの研究室から、辛うじて持ち出せたものだ。
 病弱な次男が時折、ここへ来て読みあさっている。まだ満足に字も読めないはずだが、何となく頭に入ってしまうようであった。
 学問以外には取り柄のない父親の頭脳を、もしかしたら受け継いでくれているのかも知れなかった。
 その次男は、すでに床に就いた。
 妻は、明日の朝食の仕込みをしている。
 あの妻がいなければ、自分は生活というものを一切、行う事が出来ない。ハスロ博士は、そう思っている。
 前大統領に気に入られたおかげで、どうにか田舎で普通に暮らしてゆけるだけの資産は持つ事が出来た。
 自分が家族のためにしてやれた事など、その程度である。
「ねえ、お父さん……前から気になってたんだけど」
 ヴィルが顔を上げ、あるものを見つめた。
 額縁に入れられ、壁に飾られた絵画。肖像画である。
 赤い帽子から長い髪を垂らし、鷲鼻の下から固そうな髭を左右に伸ばした人物。ぎょろりと見開かれた両眼は、まるで絵の中からこちらを睨み据えているかのようである。
 何故こんなものを飾っているのか、ハスロ博士は自分でもわからずにいる。
 この人物による呪縛を、一刻も早く捨てなければならない。それは、わかっているのにだ。
「この人、誰なの?」
「これは……昔この地を治めていて、大勢の人を殺した君主だよ」
 オスマン帝国の侵攻を退け、この国を守った英雄。そんな再評価も、されているようではある。
 だが大勢の民を残虐な方法で処刑した暴君である事に、違いはない。
 残虐性ゆえに人の道を踏み外し、ついには人間ではないものへと変わり果てた暴君。
 その禍々しい血筋を、ハスロ家は受け継いでいる。それを知るのは、この家ではハスロ博士1人である。
 呪われた血統から、2人の息子を解き放つ手段を、ハスロ博士はずっと探し求めていた。前大統領の援助を受け、様々な研究を行いながら密かに。
 だが結局、研究によってその手段を見つける事は出来なかった。
「この人だ……」
 肖像画を見つめながら、ヴィルが呆然と呟いた。
「この人……夢に出て来た……」
「何だって……!」
 ハスロ博士は思わず、息子の小さな肩を掴んだ。
「この人物が……お前に何か、語りかけたと言うのか……!」
「わ、わからないよ」
 戸惑いながらも、ヴィルは言う。
「わからないけど……でも僕の夢に出て来たのは、この人だ。どうしてか、わからないけど……それだけは、はっきり言えるんだ」
 大勢の人を串刺しにしながら佇む、血まみれの暴君。ハスロ博士も、その夢は見た。何度も何度も。
 かの暴君の血が、自分あるいは息子の代で、顕現してしまうのか。
 そうならぬための手段を、研究で見つける事は出来なかった。
 研究ではないもので、ハスロ博士は1つだけ見つけたのだ。呪われた血筋を、断ち切る事は出来ぬまでも、顕現させぬまま封印しておく手段を。
「ヴィル、お前は……お母さんのような、良い人と結婚するんだぞ」
「え……?」
 10歳にも満たぬ息子が、そう言われて戸惑うのは当然だ。
 今は、わからなくとも良い。
 だが良き女性を見付けて、結婚する。悪しき暴君の血を薄めるには、それしかないのだ。
 人としての幸せを営む事。それこそが、呪われた血統を永遠に封印する、唯一の手段なのである。