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不始末と痛み
太平洋。
海は穏やかだった。それだけに、波の音を超えて押し寄せる惨劇の音が耳によく響いて、綾鷹・郁は締め付けるような痛みを胸に覚えた。
それは民間洋上衛星発射船だった。ミサイル原潜を元に複数国の企業による合同出資による転用品という代物だったが、そういった各国の政治的、軍事的な思惑も絡み合いそうな経緯は郁たち、久遠の都にとっては問題ではなかった。
宇宙へ。地球に住む多くの人間が見るこの夢そのものが、久遠の都にとっては工作の対象となった。紀元五千年の月世界。その晴れの海に存在する久遠の都にとって、地より宇宙へと飛び立つ方向性は己たちに向けられる脅威と直結する可能性を秘めている。
故に。郁をはじめとした工作員は宇宙開発の芽を摘んでゆく。時空を超えて。
「けど、これは聞いてない!」
衛星発射船は予定通り破壊された。しかし、破壊工作に巻き込まれた見学ツアーの客船の存在を知り、郁は即座に旗艦を飛び出した。
旗艦の甲板上を郁は駆け巡る。甲板の上には沈没した客船から引き揚げられた被救助者たちで溢れかえっていた。予想以上に多い。体に負った傷の痛みを訴える者、逸れた家族の名を呼ぶ者、生死も定かではない状態で横たわったまま微動だにしない者達。
所狭しと並んだ被救助者の間を走る看護師と、郁は激しく肩をぶつけて体をよろけさせた。一人の女性が、郁の腕を掴んだ。痛いほどに。
「あの、主人を。主人と息子は何処ですか。きっとまだ、海に。早く、早く救助してください」
郁は女性の手を取った。女性の傍らに、娘らしい小さな女の子が不安そうな顔で寄り添っている。
「落ち着いてください。残念ですが、救助できたのは娘さんだけです」
「そんな! どうして、どうして救助されているのは女性だけなんですか! あなた方はなんなんですか、普通の救助隊とは様子が違います!」
郁にはこの場は適当にはぐらかして女性を宥めるしかなかった。久遠の都。ダウナーイス。女性だけの、天使族。
当局は今回の事件の口止めを兼ね、救助した彼女たちを教育し、現地工作員へと仕立てあげるだろう。しかし今この状況で自分たちの情報を与えたところで、余計に混乱するのは目に見えている。
小さな手が、郁の服の裾をつかんだ。
「お父さんとお兄ちゃん、助けてくれないの?」
郁は言葉に窮した。膝をかがめ、女の子の手を握ってやった。海水に長く浸かっていたのだろう、その小さな手は酷く冷たかった。両手で温めるように、郁はその手を長く握っていた。
「……ごめんね」
絞り出した一言は、発するのに酷く痛みを伴った。
痛みが郁を麻痺させた。初めは、自分を見つめる女の子の顔を見返せないという怖れ。顔。
被救助者の顔。誰が誰なのか、分からなくなっていく。
疲れのせいだと、郁はようやく短い仮眠を取った。しかし、症状は悪化した。顔。顔が、分からない。
「相貌失認ね。あなただけじゃない……。久遠の都の人間は普通とは違うからね。そんなこともあるのかしら」
「普通って、なに」
「さあ。私と一番縁遠いものであることは確かかな」
船医の鍵屋・智子はそういって部屋を出て行った。ただ、やはりその顔は郁には認識できなかった。
小さな部屋。仕切られた静寂。些細な波の揺れ。
「ひっ!」
銃声が響いた。生首が浮いている、と銃を放った郁が錯覚したのはただの壁の汚れだった。何かが、おかしい。
再び甲板に出た郁の前に、さらなる異常が広がっていた。
「奇襲だあっ!!」
「伏兵、アシッド族!?」
即座に銃を構えた郁は胡乱な頭を回転させる。仲間の弾丸に倒れた、敵と思しき者に即座に銃を向ける。指に掛けた引き金を、すんでのところで押し留まった。そこに倒れていたのは、やはり仲間だった。
郁は慌てて周囲を見回した。敵などいない。同士討ちを、している。
何かが、おかしい。郁は確信した。何者かが、自分たちの錯覚を悪用している。
「みんな待って! それは味方よ、落ち着いて!!」
何とか、同士討ちの被害を抑えて仲間たちを正気に戻すことが出来た。しかし、この幻覚だか錯覚だか分からない異常をどうにかしなければ、いつまた同士討ちが始まるか分からない。
相貌。顔。人間の認識。
たとえば何かしらの強い刺激を与えることによって、認識を正常に戻すことは出来ないだろうか。眠りに落ちたものを、痛みによって覚醒させるように。顔の認識への刺激。
「不気味の谷というものが、あったわね」
それは現象の名前だった。人間に近い、精巧すぎる人形を嫌悪するという人間の認識、感情的反応。郁は艦内工場から、精巧なアンドロイドを持ち出した。
郁はアンドロイドの顔を見つめた。人間に限りなく近い、それでいてどこか人間とは異なるという違和感。僅かで、決定的な差異。致命的なひび。郁はこみ上げる吐き気を抑え、人間ではない顔から視線を逸らした。
仲間たちの顔を見回した。一人一人の顔が、分かる。それぞれの名が浮かぶ。その中に紛れている、偽物も。
「ハズレね、あなた」
郁は銃を抜く。今度は戸惑うことなく引き金を落とした。放たれた弾丸は仲間たちの間を縫い、ソレに一直線に突き刺さった。短い奇声をあげ、それは倒れた。
「……こんなのと、見分けがつかなくなってたなんて」
所々の皮は剥がれ、肉の爛れたゾンビの顔を見下ろして、郁はやるせなく呟いた。どうやら敵はこいつだけではないらしい。このゾンビを操っていた本体が、おそらくは沈めたあの民間洋上衛星発射船に居る。
「本体を潰すまではまた錯覚を起こす可能性があるから、各自アンドロイドを使用して」
すでに衛星発射船の大半は沈んでいる。乗り込むんで憑いているモノを倒すか、それとも大きいのを撃ち込んで衛星発射船ごと潰してしまったほうが早いか。
郁は被救助者たちを見回した。あの女の子の姿は、見つけることはできなかった。
「もう巻き添えは、出せないわね」
郁は銃を手に、跳ぶように駆け出した。
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