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<東京怪談ノベル(シングル)>


歌姫と眠り姫


 頼まれると断りきれない性格を、変えた方が良い。それは同僚の教師にも、よく言われる事である。
「……性格なんて、そうそう変えられるもんじゃないわよね。この歳になると」
 自分の独り言で、響カスミは凍り付いた。固まった。キーボードを叩いていた指が、止まってしまう。
 年齢。27歳。独身。彼氏無し。売れ残り。
 歳という言葉から、様々なネガティブな単語が芋づる式に引きずり出されて来ては、カスミの頭の中で陰鬱なワルツを踊り続ける。
「家に帰っても、1人……」
 呟いてから、カスミは激しく頭を振った。茶色の髪を横殴りに振り乱し、ネガティブな思考を払い落とした。
「……さ、お仕事お仕事」
 パソコンの画面に無理矢理、微笑みかけてみる。
 私立神聖都学園。学園敷地内に建つ私設美術館の、準備室である。
 カスミは今、半ば缶詰め状態にあった。すでに深夜と言える時間帯である。
 美術館で行われている特別展示の管理を、教頭にうまく押し付けられてしまったのだ。
 展示されている美術品が、どこから納入されたものか。納入元に、怪しい点はないか。
 学園の所有物にしてしまって良いものか、それとも借り物なのか。借り物であるとしたら、いつまで学内に置いておけるのか。
 そういった事を、書類にしてまとめ上げなければならないのだ。
 この学校の美術館は、はっきり言って玉石混淆である。由緒正しい美術品も無論あるが、いかがわしい品も、ないわけではない。
 美術教師ではないが、音楽教師である。美しいものを判断する感覚を、人並み以上には持っているつもりだ。
 そう思いながらカスミは、再び指を止めた。
 そんな自分の感覚に、強く訴えかけてくる美術品が1つ展示されていたのを、ふと思い出したのだ。
 裸足の王女、という名の貴婦人像である。
 その名の通り、裸足で何者かから逃げている姫君の石像で、見た瞬間まずカスミの心を惹き付けたのは、その躍動感だった。
 生身の貴婦人が、何か恐ろしいものによって石に変えられながらも、今なお逃げ回っている。カスミは、そう感じたものだ。
 ただ美術館に搬入された時は、年月のせいか全身が苔むしており、まるで美しい姫君が暗緑色のボロ布を着せられているかのようであった。
 今も、その状態で展示されている。カスミの前任の管理人が、面倒臭がって清掃をしなかったのだ。
 汚れ放題で悪臭を放っており、見物に来た生徒が何人も気分を悪くしている、という話も聞く。
 何故か抱きついてキスをしようとして意識を失った女子生徒もいる、という噂もあった。
 何にせよ『裸足の王女』は今、大いに汚れているのだ。
「飾る前に綺麗にしてあげるべきよね、まったく……」
 憤慨しつつ、カスミは立ち上がった。
 今からでも、綺麗にしてやる。
 それは展示品の管理を引き受けてしまった自分が、当然やらなければならない事だ。


 深夜の美術館内に、綺麗な歌声が響き流れる。
「せるまぁーれるちあぁ、らすとろーだるじぇんとぉ……」
 音楽教師らしくと言うべきかカスミは、明るい歌を歩きながら歌っていた。
 そうでもしていないと、誰もいない夜の美術館という環境に耐えられないのだ。
「ぷらちーだぇろんだあ……ううっ、恐いよぉ」
 どの彫像も、今にも動き出しそうに見えてしまう。
 様々な人物画が、額縁の中から自分を見つめているように思えてしまう。
「ぷろすぺーろぇいるべんとぉ、するまぁあれるちあぁー……あら?」
 歌の最中、カスミの形良い鼻が、ひくっ……と反応した。
 奇妙な匂い。「裸足の王女」のある方向から、漂って来る。
 甘い、だが甘ったるいというほどではない、心地良い香気。
 小さな鼻孔から、カスミの体内に、心の中に、染み入って来る。
「らすとろぉ、だるじぇんとお……」
 香りの発生方向へと、よろけるようにフラフラ歩きながらカスミは、自分が蝶か蜜蜂にでもなったような気分に陥っていた。花の香りに引き寄せられる虫。それが今の自分だと、ぼんやり思った。
 その花が、実は危険な食虫植物かも知れないと言うのに。
 カスミは、足を止めた。
 目の前で、躍動感を保ったまま静止している石の姫君……裸足の王女。
 改めて見入ってみると、巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの作品『アポロンとダフネ』を思い出す。
 太陽神の求愛から逃れるため、月桂樹へと姿を変えつつある乙女。
 あれと同じではないか、とカスミはふと思った。
 この姫君も、何かから逃れるため、何かを避けるため、何かを防ぐために、石像へと姿を変えているのではないか。
「ぷらちぃーだぇろんだぁ、ぷろすぺーろぇいるべんとぉ……」
 夜の美術館内に、澄んだ歌声を響かせながら、カスミは心の中で語りかけた。
(一体……何から、逃げているの?)
 甘美な香りに蕩けかけている、心の中で。
(大丈夫よ……私が、貴女を守ってあげる……)
「べーにーてぇあるらじれぇ……ばるけったぁみーあぁ……」
 綺麗な歌を紡ぐ可愛らしい唇が、苔むした『裸足の王女』に、そっと寄せられて行く。
 美しいものにキスをしたい。それは人間の、ごく自然な感情であった。いくら苔で汚されていようが、美しいものは美しい。
「さんたぁ……るーちぃあー……」
 カスミの唇に、固く冷たい石の感触が伝わって来る。
 その固さと冷たさが突然、失われた。
「さんた、るぅちーあぁ……えっ?」
 柔らかなものが、倒れ込んで来た。カスミはそれを、両の細腕と豊かな胸で受け止める事となった。
 つい今まで石像であった姫君を、カスミは抱いていた。
「えっ、何……こ、これって、ええぇーっ!?」
「静かに……もっと静かに、歌いなさい……」
 生身となった『裸足の王女』が、うっすらと目を開きながら、そんな事を言っている。見つめていると吸い込まれてしまいそうな、深い真紅の瞳。
 まさに美術品の如く優美・秀麗な顔には、しかし石像であった時の名残か、暗緑色の苔が汚らしくこびりついている。
 この姫君を、綺麗にしてあげなければ。
 本来の目的を、カスミはぼんやりと思い出していた。
「貴女のキスが……歌声が……私を、優しく……目覚めさせてくれたわ……」
 苔むした美貌が、弱々しく微笑んだ。
「お願いよ……もっと、貴女の歌を聴かせて……」
 弱々しく見えるのは、目覚めたばかりであるからだ、とカスミは思った。
 この姫君が本来持っている強さが、これから時と共に少しずつ甦って来るだろう。
「響……カスミです」
 どれほど長い間、動けずにいたのかわからぬ「裸足の王女」を、そっと抱き起こしながら、カスミは言った。
「私の名前です。あの、貴女のお名前を」
「……イアル……ミラール」
 思い出す仕種をしながら、姫君が名乗る。
 名前以外にも、訊いてみたい事は山ほどある。が、まずは本来の目的を果たすのが先決であった。
 カスミが普段いる音楽準備室は、シャワールーム完備である。
「ますは、お風呂に入りましょう」
「お風呂……ふふっ、もちろんカスミも一緒にね」
 懐かれてしまったか、とカスミは思った。
(はぁ……男の人とイチャイチャしながらお風呂入った事もないのに、女同士でお風呂……)
 イアル・ミラールと名乗るこの姫君が何者であるにせよ、しばらくはカスミが一緒に住まわせて面倒を見る事になるだろう。
 家に帰っても1人、ではなくなった。
 カスミはとりあえず、そう思う事にした。