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<東京怪談ノベル(シングル)>


ドラクリヤ(前編)


 透き通るような白い肌の下で、弱々しく健気に脈づく細い血管。
 その中を流れる、ひとしずくの儚い生命力。
(どんな味が、するんだろう……)
 口の中で、舌が獰猛にうねるのを、ヴィルヘルム・ハスロは止められなかった。
 うねった舌先が、何か固く尖ったものに触れた。
 歯……いや、それはもはや牙である。
 少年の小さな口の中で、犬歯が、うっかりすると舌を切ってしまいそうなほどに鋭く尖っているのだ。
(僕は……何を、してるんだろう……)
 あの恐ろしい夢は、見なくなった。熱も下がった。
 なのにまだ熱に浮かされ、悪夢を見ているかの如く、意識が朦朧としている。
 混濁した意識の中で唯一、はっきりとしているもの。
 それは今、目の前にある、ひとしずくの生命を味わってみたいという渇望だった。
 それ以外のあらゆるものが、意識の混沌の中へと沈んでゆく……
「……おにいちゃん?」
 沈みかけていたものを、すくい上げてくれたのは、弟のか細い声だった。
「どうしたの……」
「…………!!」
 ベッドの上で、弟に覆い被さっている。細い首筋に、喰らい付こうとしている。
 自分のそんな姿を、ヴィルは今ようやく把握した。
「あ……あぁ……ぼ、僕は……」
 無様な声を発してベッドから転がり落ちた兄の姿を、弟が気遣わしげに見つめている。
「おにいちゃん……まだ、ぐあい悪いの?」
 辛うじて、思いとどまった。
 だが思いとどまる事が出来ず、取り返しのつかない行為に及んでいたとしても、兄に向けられる弟のこの眼差しは、儚い命が尽きるその瞬間まで変わる事がないだろう。
 そう確信しながら、ヴィルは寝室から逃げ出した。
「おにいちゃん……」
 心配そうな声が、追いかけて来る。
 自分は、弟の傍にいてはならない。
 弟から逃げる事は出来ても、自分から逃げる事は出来ない。
 気が付いたら、ヴィルは家の外にいた。
 満月になりかけた月が、村を冷たく照らしている。
 暗闇の方が温かい。そんな事を感じながら、ヴィルは叫んでいた。月の冷たさを責めなじるかのような絶叫。
 獣の叫び声だ、とヴィルは思った。
(獣……僕は、けだもの……僕は、ぼくは……ッッ!)


 吸血鬼が、夜な夜な村をうろついている。
 そんな噂が流れ始めたのは、ヴィルが高熱で寝込んでいる頃からであった。
 最初は、動物の死骸だった。
 路傍で腐りかけていた、と思われる野良犬や野良猫が、ズタズタに解体され、市場の真ん中に晒されていたのである。
 やがて死骸ではなく、明らかに生きていた犬猫が無惨に殺され、村のあちこちで杭や木の枝に串刺しにされている様が見られるようになった。
 串刺し。それは、この地方の人々にとっては特別な意味を持つ死に様である。この世で最も忌まわしい処刑法なのである。
 吸血鬼の仕業だ、と村の誰かが言い始めた。あの大昔の悪魔が、密かに甦ったのだと。
 その噂は村じゅうに広がり、村人たちは不安に苛まれる日々を過ごしていた。
 吸血鬼の所業と言われているものが今、ヴィルの目の前に立っている。
 もはや原形もとどめぬほど切り刻まれた、犬の死体。
 森の入口付近で木の杭に串刺しにされ、惨たらしいモニュメントとなっている。
 腐敗し始めているそれを、ヴィルは抱きかかえるようにして、杭から引き抜いてやった。
 腐臭が、服に染み込んで来る。母に怒られるかも知れない、とヴィルは思った。
 母に怒られる、だけで済むだろうか。
 高熱でうなされている間の記憶が、ヴィルにはない。意識が、朦朧としていたのだ。
 朦朧としたまま昨夜は、信じ難い事をしでかしてしまうところだった。
 否、とヴィルは思う。自分はすでに、何かをしでかしてしまったのではないのか。高熱で、都合良く記憶を失いながら。
「僕が……?」
 疑問を口にしても、犬の屍が答えてくれるはずはなかった。
 誰の仕業であるのかはともかく、犯人は明らかに止まらなくなっている。動物を殺すだけで満足している、とはヴィルには思えなかった。
 いずれ、人間の犠牲者が出る。それは確信に近い思いだった。
(僕が……殺すから……?)
「お墓、作ってあげるの?」
 声をかけられた。
 女の子が1人、歩み寄って来ていた。
 村の、雑貨屋の娘。ヴィルと同じ学校、同じクラスの少女である。
「そうしようかな、とも思ったけど……」
 会話に応じながらも、ヴィルは目を逸らせた。
 少女の白い肌の下に、瑞々しい生命力を流す血管の存在を感じ取ってしまったからだ。
「……でも、殺された数が多過ぎる。今更1つ2つ、お墓を作ってやるのも」
「不公平、か。確かにそうかもね」
 腐臭を嫌がる事なく、少女が近付いて来る。来るな、とヴィルは叫んでしまいそうになった。
「……ひどい事、する人がいるね」
 痛ましそうに、少女が言う。
 1つ、嫌な話があった。
 彼女の幼い妹が現在、行方不明なのである。
 吸血鬼の仕業、いよいよ人間の犠牲者が、などという噂が立ってしまうのは自然の成り行きであった。
「学校、ずいぶん休んでたよね?」
 心配で胸が張り裂けそうであろうに、それを全く表情に出さず、少女は微笑んだ。
「授業かなり進んじゃってるよ。あたしが、付きっきりで勉強教えてあげなきゃいけなくなりそうだね」
「勘弁してよ……」
「そうはいかなーい。だってヴィルのお母さんにも、頼まれてるんだもん」
 顔を逸らせようとするヴィルを、彼女は逃がしてくれなかった。回り込んで、微笑みかけてくる。
「……不公平かも知れないけどさ。お墓、作ってあげよう?」
 少女が、小さなシャベルを手渡してきた。
 尖った犬歯を隠しながら、ヴィルは苦笑した。
「用意がいいなあ」
「お墓作ったら、すぐお勉強ね。ヴィルが落ちこぼれでもしたら、あたしの責任になっちゃうからっ」
 忙しく何かをしていなければ、心配で潰れてしまいそうなのかも知れない。
 そう思いながらヴィルは、いささか乱暴に土を掘り始めた。
 気休めでも何でも、今は彼女の心を支える手伝いをしてやる事。
 ヴィルに出来る事は、それしかなさそうであった。


 村長と言っても、専制君主ではない。この村で絶対の権力を持っているわけではないのだ。
 この息子は、それを全く理解していない。
「何を……何という事を、してくれた……」
 俯く息子の胸ぐらを掴みながら、村長は声を震わせた。
 自宅の、地下室である。
 その床に、壊れた人形のようなものが冷たく横たわっている。
 雑貨屋の、2人の娘。その妹の方であった。数日前から行方不明で、吸血鬼の仕業などという噂も流れている。
 その吸血鬼が、自分の息子だった。犬や猫だけでは、ついに満足出来なくなってしまったのだ。
 村長は、自宅の地下室で息子がやらかしていたおぞましい行為に、全く気付かなかった無能な父親、という事になる。
「……この子は、僕の天使になってくれたんだ……」
 うわ言のように、息子が呟き、笑う。
「可愛い天使……柔らかい天使……うふっ、ふひへへへへへ……」
 ブカレストで就職に失敗し、村へ帰って来て無気力な毎日を過ごしていた息子である。
 親として何もしてやれなかった、という自責が、村長の中にはないでもない。
「終わりましたな、村長さん」
 黒いスーツを着た男たちが言った。
 息子の所業を調べ上げて村長に教えてくれたのは、彼らである。
「御子息がどのように裁かれるのかは、我々の関与するところではありませんが……貴方はもう終わりです」
「待て……待って下さい……」
 村長は、彼らの足元に這いつくばった。
「貴方がたは、政府の関係者なのでしょう? 頼む、私を、私の家を、それに息子を、助けて下さい……」
「まあ確かに我々は、心ならずも今の大統領に仕える身ではありますが……」
 男たちが、微笑んだようである。
「我々がこの国のため、本当に仕えるべき御方は別にいる。いや、もうこの世にはおられないのですがね……いいでしょう、貴方がたの身の安全は保証します」
「その代わり、御子息のなさった事を少しばかり利用させてもらいますよ」
 壊れた人形のような屍を、男たちが手際よく運び出して行く。
 警察にでも持って行かれたら終わりだ、と村長は思った。
「そ、それを、どうなさるおつもりですか……」
「御心配なく。ハスロ博士の御自宅にお届けするだけです」
「お届けと言うか、こっそり置いて来るだけですがね」
 ハスロ一家は、よそ者である。罪を被せるには、ちょうど良い。
「あの博士を、こんな村で安穏とさせておくわけにはいきません」
 男の1人が、意味不明なことを言った。
「この村……否、この国の民を、大いに憎んでもらうとしましょう。偉大なる前大統領の理想を成し遂げるために、ね」