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<東京怪談ノベル(シングル)>


色彩の狭間


「……ふあぁ」
 ペンを走らせていた綾鷹・郁は、その手を止めると大きく欠伸をした。
 いま郁が描いていたのは同人誌用の漫画だったのだが、すでに何本か描ききってしまっており流石にそろそろ飽きてきた。
 郁が副長を務める旗艦USSウォースパイト号がエンジン故障を起こし、鈍色の大海を彷徨ってからもう数日が経過している。
 打つべき手はすべて打っていたので、あとはエンジン復旧に努めている船員の働きに期待するか、救助を待つしかない。
 救難信号は受諾されており、蓄えにも問題がないとなれば、当初はこの思いがけない休暇を満喫しない手はないと気楽に構えていたのだが、数日が経過していくにつれ船内のムードが徐々に沈鬱なものになっていっていた。
 それも無理はない。甲板に出ても周囲は霧に包まれており自分たちがいま何処を彷徨っているのかも検討がつかない。
 おまけに雨が降り続いていることも影響しているだろう。
 いまも窓を打つ小さな雨音が途切れることなく郁の耳を打っており、その音に早くやまないかという思いもあって窓を見れば、この鬱陶しい雨の中、素振りをしている姿が見えた。
 こんなときにそんなことをする人間が誰かくらい検討はついたが、どうせ退屈を持て余していた郁は甲板へと向かった。
「おう、綾鷹副長か!」
 刀の素振りをしていた鬼鮫は郁の姿を認めた途端、素振りをいったん止め、そう声をかけてきた。
「こんな天気に外で素振り?」
「こんな天気だからだよ」
 そう言って鬼鮫はまた素振りを再開する。
「どうも、のんびり過ごすっていうのは退屈で叶わないな。ここはひとつキメラの一匹でも出やしませんかね」
「キメラが一匹出てきて暴れたところですぐに倒して終わりじゃない」
「それも言えてる」
 そんな物騒な雑談を交わすくらいには、退屈を持て余しているのは郁も鬼鮫も同じようだった。
「船員たちの様子は?」
「この天気と霧のせいか愉快にやってるとは言いがたい感じもあるな。暇を持て余している、というほうが正しいのかもしれん」
「こうも単調な霧の中じゃ、それもそうよね」
 そう話しながら郁はぐるりと船を覆う霧を見渡した。
 一面を濃い灰色の絵の具で塗り潰されたような世界は、しかしよく見れば蛇のようなグラデーションがあるようにも見えた。
 それを眺めていたふたりの足元で、影が蠢いたことには郁も鬼鮫も気付いていなかった。
 が、それをきっかけにしたように慌ただしい足取りで甲板に誰かが近づいてくる。
「ふ、副長! 大変です、乗員の何人かが突然暴れだしています!」
「こんなときに暴動?」
「欲求不満が爆発したか?」
「とにかく来てください! 何人かはすでに負傷しています」
 そう言っている船員の額にも何かで殴られたのか微かに出血している様子が見え、暴動の規模がそこそこに大きいであろうことが予想された。
 どうしてこんなことが起こったのか、それを考えるまでに郁たちはまず暴動を鎮圧するために船内に戻った。


 暴動は、郁と鬼鮫の力で瞬く間に制圧された。
 取り押さえた乗員たちは刃物を振り回し意味不明の言葉を吐いていたので、とりあえず武器を奪い、ロープでその身体を縛り上げておいた。
 全員がひどく興奮しているようで、これでは事情聴取もままならないということで船医を呼び鎮静剤を打たせたところ、ようやく郁たちにも聞き取れるくらいには口調は安定したが、しかし言っていることは意味不明であることは変わらなかった。
「影が、影が襲ってきたんだ! 影が俺を殺そうとしたからそいつを殺してやろうとして、俺は」
「鎮静剤、もっと打ったほうがいいんじゃない?」
 郁はそう言い、船内を調査していた鬼鮫のほうも異常はなかったという意味らしく首を横に振るが、船医はなにか心当たりがあるのか乗員の話をふむふむと聞いている。
「その影というのは灰色の濃淡でしたか?」
 冷静にそう質問する船医に、乗員は大きく頷く。
「なるほど。それはあれですね、マッハの帯という錯視の一種ですね」
「マッハの帯?」
「隣り合った白黒の境目が灰色に見えるじゃないですか。そんな感じで船内の濃淡が錯覚を呼び起こしたわけです」
「対処法は?」
「白黒のグラデーション内に存在する錯覚ですから、それをなくせばいいんじゃないですか?」
 無責任にそう言った船医に、郁は少し考えて艦長室へと向かった。
「それで、甲板で絵を描こうかという話になったの?」
 郁の提案を聞いた艦長は、わずかの思案の後にあっさりと承諾した。
「また暴動が起こるのも困りますし、乗員たちが暇を持て余して鬱屈しているのも事実です」
「まあ、それで再発しないというのならいいんじゃないかしら。乗員たちに暇なら蛾の絵でも描いてなさいと伝えてちょうだい。ただし、帰港前までには消すこと」
 船長はそれだけ言ってあとは郁に一任した。


「しかし、これはこれでなかなかおもしろい光景だな」
 鬼鮫は相変わらず素振りをしているが、その足元付近で郁は甲板に思うままの絵を描いていた。
 郁以外にも乗員の何人かが色とりどりの画材を用いて甲板に絵を描き殴っている。
 暇を持て余していた乗員たちにはこの提案は予想以上に好評で、参加者は思った以上の人数になっていた。
 瞬く間に甲板の一角はカラフルな色彩で溢れ、これは後で消すのが大変だなどということは頭の片隅にでも放り投げて自由に絵を描いているさまはなかなか爽快ですらあった。
「こういう気晴らしも必要って艦長も考えてくれたんでしょうね。さっきみたいな暴動がまた起きたんじゃたまった……」
 そこまで言って、郁は慌てて背後を振り返った。
 いま、何かが自分の背後に回り込んだような気がしたのだ。
 錯覚?
 その単語に郁は即座に船医が言った『マッハの帯』を思い出した。
『白黒の境目が灰色に見えるじゃないですか』
『グラデーション内に存在する錯覚ですから』
 グラデーション、その単語が郁の脳裏に引っかかる。
「しまった!」
 そう気付いたときには手遅れだった。
「うわぁぁ!」
 さっきまで楽しげに絵を描いていた乗員のひとりが突然そんな悲鳴を上げた。
「なんだ、どこから現れた! 近寄るな!」
 錯乱した口調のまま刃物を取り出し、振り回しだした。
 それをきっかけにしたように、切りつけられたものの悲鳴と錯乱し暴れだした乗員の怒号が甲板に響く。
「さっきと同じ現象ね。とりあえずここの制圧を優先させて!」
 そう言って郁と鬼鮫は乗員たちを取り押さえていく。
「大変です、船内でまた乗員が暴れています!」
「船内でも!?」
「機関室で怪物を見たという目撃証言が出ています!」
「よりによって機関室か!」
 ある程度の制圧を終えたふたりは、あとを正気の乗員たちに託し機関室に向かった。
「……なに、これ」
 そこで郁ははっきりとそれを見た。
 赤、黃、緑、青……色とりどりの絵の具で固められた化け物。
 その周囲は帯という言葉がふさわしように、すさまじい勢いで変わり続ける色彩のグラデーションが化け物の身体から波打っている。
「こいつが原因ね!」
 さっき脳裏によぎった言葉を便りに郁は自分の勘を信じて行動した。
 持っていたのは黒の墨汁。それを思いきり怪物の身体を隙間なく覆うようにぶちまける。
 途端、オォ、とも、ギァともつかない奇妙な音を発して、バケモノが苦しみのたうち始めた。
「黒一色ならグラデーションも作れないから錯覚を引き起こせもしないでしょ!」
 勝ち誇った郁の言葉に化け物であった黒色の固まりは徐々にその形を失い、崩れ落ち、やがてただの墨汁の染みだけが残された。
『USSウォースパイト号聞こえるか、そちらの状況を知りたい』
 と、いまの騒ぎなど何も知らない救助に向かっているであろう船からの無電に、鬼鮫は乱暴に通信機へ怒鳴りつける。
「呑気なこと聞いてるんじゃねえ、こちらは怪我人続出だ! さっさと救助に来い!」
 そんな鬼鮫の言葉を聞きながら、郁はさてまずは怪我をした乗員たちの手当ての手配ともろもろの片付けをしなければと思った。
 そして、それが終わったらまた放り投げた漫画の作成でも再開しようかも考えていた。
 USSウォースパイト号に救助がやってくるのはもうしばらく先のことになりそうだ。