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<東京怪談ノベル(シングル)>


湯気の雲、海と、その彼方

 店自体、バーであるということもあってか、開店早々、人が居るということは少ない。
 外は水玉模様、ではなく、ごくごく小さな雪玉模様。だからと言って、外へ出れば嬉しくない寒さが身体を襲う。
 海原みなもはそんな東京の片隅にある『BLUE』へ暖を取るため、通っている。
 夏も時折この店に寄り、アイスティーを飲んでいた為、中学生にしてバーの常連になりつつある程度にはこの場所にも慣れている。中等部の授業が終わり、家へと帰る途中に丁度、このカクテルバーの扉は開くのだ。
「海原さん、その茶葉どうかな? 新しく仕入れたんだけど、バーのお客さんってカクテル目当てでしょ? だからなかなか、お客さんの意見が聞けなくて」
「あ、はいっ! 美味しいです!」
 両手を添えるようにして、みなもはティーカップを持つ。
 中身はいつも飲む紅茶と同じ、明るい茶色をした暖かな飲み物が入っている。顔を近づけると香る、その液体が『飲み物』であり、普段口にする『紅茶』とはまた一段と違ったものであることが分かった。
 バーで出される紅茶はいつもみなもの口に合うようにと、歳が近いせいか、一番親しい朱居優菜が選び、出しているが、その茶葉の名前までしっかりと教えてもらった記憶は数少ない。
 まだまだ中学生には早い知識なのだ。いや、同じ中学生でも紅茶や、そういったものの知識に長けた者は居るかもしれないが、みなもには少しだけ遠く、贅沢な世界である。月に貰えるお金や、依頼で礼とばかりに貰うそれで大切に飲む、幸せな時間。
(ここがあって良かった……)
 頬を紅色に染め、紅茶を口に含ませる。
 この飲み物のように暖かな、このバーという場所があって嬉しいとみなもは思うのだ。
 以前、この店ごと凍ってしまうという珍事があり、一時は閉店してしまうのではないかと本当に考えたこともあった。元々繁盛しているのかと言えば分からない――みなもの門限ではそれほど観察できるものではない為――店だ、危ういといえば危ういのかもしれないが、とりあえずは親しいウェイトレスからそういった話を聞いていないから、大丈夫であろう。
(いい香りにお酒の香り……。なんだか大人になったみたい)
 流石に店内でコート姿というのもおかしく、朱居にコートを預けてみなもは制服姿でカウンター席に座っている。
 カクテルバーなだけあって、カウンターに座れば甘い、カクテル独特の酒の香りが鼻をくすぐり、紅茶の中に微量なアルコールが入っている気分になる。察してか、朱居には酒の匂いは大丈夫かと聞かれたが、甘い香りなので問題ないと返しておいた。
「でも、不思議ですよね」
「うん? 何か変わった味でもしましたか?」
「あっ、ううん。違うんです。紅茶……と言いますか、水って凄いな。って」
 暖かく身体に染み入る飲み物の紅茶、それはみなもを幸せにしてくれる一つの鍵ではあるが、このバーが潰れてしまったのではないかと思われた、氷漬けの事件は紅茶ではないが一つの水が引き起こしたものだ。
 飲み物にもなり、湯気としてみなもの頬を暖める一方で、冷たい氷となって胸を貫くこともある。
「色々なものになるでしょう? 水。こうして、暖かくて美味しいものにもなってくれて……」
 ティーカップを置いて、みなもは立ち上る湯気に指をさし入れた。
 勿論、湯気は気体であり固形ではない。触れる白い雲のようなそれは、細い指先をすり抜けて、水というものに慣れたみなもへ、水滴として付着する。
「そんな風に言ってもらえるほど美味しかったんだ。……茶葉の仕入れは私じゃないけど、嬉しいです」
「でも、朱居さんが淹れてくれたんですよね?」
「はい、ここに勤めて大分練習したんです。お酒はまだ早いから、って」
 みなもの言葉に気を良くしたのか、朱居はカウンター越しに茶葉と何やら高級感の漂うグラスボトル、そして底の浅いティーカップや白磁のティーポット一式を出し説明した。
 東京の水道水でそのまま紅茶を作る筈はない。また、だからと言って市販で売られている水と茶葉の相性もあるようで、この付近を仕入れた者が直に問い合わせ、或いは吟味しているらしい。朱居はこの付近のやりとりについては知らないが、材料はつまるところそうやってこのカクテルバーに運ばれてくる。
「よくお家で飲むお茶ってあんまり入れ物まで工夫されてませんよね。でも、本当は鉄分とか紅茶には良くなくて、こういう陶磁器のものとかが好ましいんですって。色も大事だからカップは底が浅くて、お茶の色が綺麗に見えるものを使うと良いんですよ」
 ただ、底が浅いティーカップとなると、量も限られている。バーの紅茶という異端かつ高いものがそれだけ少なくみえることに対して、どれだけの考えを持てるか。これは個人の価値観次第だろうと朱居は笑った。
「確かに、ぱっと見ちゃうと安いお値段とは言えないけれど、でも、それだけ大事なものなんだな、って思います」
 ティーカップの白に紅茶の色。漂う薄い雲のような湯気にすら価値はある。
 元は水であるというこの飲み物の性質からか、みなものちょっとした好奇心からか、湯気から覗くのは、この安らぎを作っている素となった材料達の故郷。
 紅茶という飲み物をまだ詳しく分かっていないせいか、分析する情報は断片的だが、これは日本国内で作られたものではない。茶葉も水も、どこか牧歌的で、けれど威厳に満ちた自然の中で育ったものだと分かる。
「冷めないうちに飲まなくちゃって思うんですけれど、こうしているとすごく安らげて、もったいないって思っちゃうんです」
 自然と、人間がこの飲み物を作り出したという事実、知識に触れていることにすら、みなもは幸福を覚える。淹れたての紅茶はもう数分経っていて、湯気も控えめなものになってきているが、この贅沢を忘れたくは無い。
「だからって冷めてから飲んじゃ嫌ですよ? 海原さんっていっつも紅茶を飲むとき幸せそうだから、ついもっと美味しい紅茶を沢山味わって欲しいな、って思うけど、一杯を大切にしてくれてるみたいで、なんだかとってもくすぐったい……」
「あはは、美味しい紅茶を沢山いただけるなら本当に嬉しいです。だけど、うん。大切な一杯を少しづつ頂くのも楽しいものなんですよ? ほら、あたしまだ学生ですから、そこまで毎日は来れませんし、待って待って、ようやく来れた時に楽しめるって開放的じゃないですか」
 例えば、有名店のケーキを買って、一人で食べる。そんな時のように。特にその日良いことがあったわけではなくても、特別な食べ物、飲み物に触れて過ごす時間を至福だと感じるのではないだろうか。
 みなもが言えば、少女として共感するのか、朱居も目を丸くした後、なるほどとばかりに何度も頷いた。
(それに、新しい紅茶を頂くたび、湯気やお水を分析させてもらってますから、あたしにはもっと色々な風景が見えるんです)
 朱居にはこの感覚は分からないだろうが、南洋系人魚の末裔であるみなもにとって水は近しい存在だ。青い海を思わせる瞳に紅茶という別の色が混ざり、卓上旅行の如く『分析』したものを読み取る。
 カクテルバーに制服と言った、釣り合いの取れない景色もまた、自分が大人になったようで心は弾む。
 コートを着て、マフラーを首に巻いて、外に出ればまたいつもの海原みなもに戻るだろう。真面目で勉強熱心な彼女は、そうしてすぐに帰宅し、今日一日のことを振り返る。
 学校での自分か、はたまたアルバイト先での自分か、いつもの『自分』の回想の合間に感じるのだ、カクテルバー『BLUE』に居る自分を。姿かたちは普段と変わらないが、店の照明で青い髪も瞳もどこか曇り、海の様子はいつもの静けさからちょっとした嵐に変わるのだ。
 それも、壊すだけの嵐ではない。新しいものを作る為の嵐。いつもと違った自分は、制服を着ていてもバーのカウンター席を陣取り、酒は飲めぬが紅茶を嗜む。みなもの感覚の許す範囲で気取って、肘をついたままティーカップを傾けることもあれば、校則を守りきった制服のスカートから伸びる足を組んでみることもある。ただ、気恥ずかしさからすぐ直してしまうことはあっても、空気を変えてしまうのだ。ここの一杯は。
「朱居さん」
「はい?」
「また、新しい紅茶が入ったらそれを淹れて下さいね」
 みなもは朱居に向かって微笑む。
 アーモンド形の可愛らしい瞳に、青く澄んだ深海のような色を混ぜて。だが、そんな彼女の視線が少女のそれではなく、一人の女性の瞳になっていることも、朱居は知っているのだ。
「楽しみにしてくれているみたいですから、とびっきりのを淹れますね」
 朱居はみなもより少しだけ、大人だ。水の話をよくするこの少女が背伸びをしている瞬間すらもまた、独特の『水』と、そして嵐を含んでいると思う。
 嵐とは、壊すだけではなく、新しい自分を再構築するものである。
 少女の嵐とは、そういうものなのだ。


END