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遠い空の神話
世界でも五本の指に入る広大な砂漠の中、砂に埋もれている何かの残骸が少女の眼に留まった。
「……うん?」
少女が航空事象艇から砂漠へと降り立つ。女性もののカジュアルパンプスが砂に沈み、少しそれに面白くなさそうな顔をしながらも、ふわりとした髪を揺らす。
郁が目を留めた銘板は溢れる何かの残骸の一つについていたが、郁には分からない言語で文字が刻まれている。
「偶然か、奇跡か……それとも呼んだのかな?」
そう呟けば、読めない文字からの呼びかけが聞こえるような気がした。言葉にならない思念のようなもの。
共感能力を使えば、言葉が分からずとも感じられるだろうか?
昨日整えたばかりの、フレンチネイルが飾る郁の指先が銘板に触れた。
遥か上空にある王国で、今まさに公開処刑が行われようとしていた。
後にある王朝として名を連ねる王国の一時代だ。競技場の真ん中で若い女が祈っている。指を組んで必死に祈るその身体は小刻みに震えていた。厳かな衣装はその王国の巫女のものだ。周囲には王国の国民がその様子を見物しており、一際高く目立つ位置にその国の王が腰かけていた。兵士らに囲まれ、王の腰かける椅子には一羽の鷹が停まっている。精悍な顔つきで王と同じように競技場を見下ろしている。
王が豪奢な椅子から立ち上がった。
「これより処刑を開始する! この者は巫女でありながら、生き神である余を神ではないと声高に叫んだ不敬罪としてこの場に落とされた!」
王の言葉に巫女が顔を上げる。震えてはいるものの、自らの意思は曲げる様子がない。
「改めぬか。余以外の神を崇める巫女よ、そちの神とやらに救いを求めてみよ。奇跡を起こしてみるがよい」
王が処刑の合図をと腕を振り上げかけた瞬間、競技場に光が渦巻いた。
「王……!?」
兵士らが王の前へ庇うように立ちふさがる。光が収まると、そこには巫女の横に配置されたかのように郁が立っていた。
「……えっ? やだ、なにこれ!?」
きょろきょろと郁が辺りを見回す。突然どことも知らない競技場の真ん中に自分がいる、その事態を把握できないまま、傍にいる巫女が呆然と郁を見ているのに気付いた。
「天使……様……?」
「えっ?」
郁は瞳を瞬かせるのが精一杯だったが、兵士と王はこの突然の来訪者に動揺を走らせていた。
「構わん、処刑執行だ」
今度こそ王が腕を振り上げた。巫女が郁に叫ぶ。
「天使様!」
「天使? あたしが!? なんなの、一体どうなってるの!?」
「お逃げください! 天使様も殺されてしまいます!」
巫女が競技場の端を指さす。指さした先から何かが轟と空気を切り裂いて飛んでくる、そのことに気づいた瞬間、とっさに郁は巫女と共に地面へと伏せていた。
「こ、殺す気じゃ!?」
とっさに訛りが出た唇を引き締めて、郁は速度を落として転回した無人機を視界の隅で確認した。あれを操る者がいるはずだ。
「もう一度じゃ。やれ」
王がまたも腕を振り上げた。郁は無人機に向き直り、鉄の塊に呼びかける。
精神感応で無人機から操縦者の精神に無理矢理働きかけると、うまく妨害できたのか既にこちらに向けて飛来していた無人機が逸れて虚空へ飛んでゆく。王が手にしていた杖をギリ、と握りこんだ。
「むう……!? なるほど、よかろう。巫女よ、そちの奇跡に免じて死刑執行を延期しよう」
巫女が驚いて立ち上がった。まだ震える足が彼女必死に支えている。その様を見ていられず、郁は巫女の身体を支えて王を見た。
「だが、明日はどうかな? 巫女とこの得体の知れぬ女を牢へ!」
王が踵を返して背を向けるのと同時に、兵士らがなだれ込むように競技場へと降りてきた。
翌日、郁は昨日と同じように巫女と共に競技場の中央へ引きずり出されていた。
彼女は憔悴していた。一睡もせずに脱出のため呪を唱えていたが、その成果を得られなかったのだ。
無人機がまた空の彼方から姿を現す。無人機へ昨日と同じ様に呼びかけるが、逆にこちらの頭に鈍痛が奔った。
「なに……!?」
はっとして感応を止めた郁が王を見やった。嘲笑う支配者に郁は唇を噛む。王の策は無人機への仕掛けだけではないらしい。競技場の入り口から、複数の獅子が現れたのだ。
「
「天使様……」
寄り添い、ぎゅっと抱きしめていた巫女が郁を見た。彼女はもう震えていなかった。
昨晩、牢獄の中でのことを思い出す。
「天使様、ありがとうございました」
巫女が郁をまっすぐ見てそう言った。郁はくすぐったいような照れくささを覚えて、素直に笑った。
「いいのいいの! なんかよくわかんないままだったけど、生きてるほうがいいもんね! でも一体なんだったの、さっきのは」
「不敬を理由に、処刑されるところでした。他の巫女は皆処刑されました。王は自分以外を神と崇める私たちを皆、亡き者としたいのです」
「とりあえず、あのオッサンがあったま悪いのは解ったわ。思いっきり独裁しする手段を考えなきゃ」
憤慨する郁は、そうして一晩粘ったのだ。
獅子たちに囲まれて、腕の中の巫女が言った。
「天使様、ありがとうございます。私、この身に余る光栄です。天使様だけはお逃げください」
「だめだよ! 負けちゃだめ!」
ぎゅっと巫女の肩を抱き、何かないか郁は視界と頭を巡らせた。
その時だった。
何かが鳴いた。郁には一瞬その音が何か分からなかった。
笑う王がいる椅子に留まる鷹と目が合う。あの鷹だ。
猛禽類の眼に吸い込まれるように、その鷹に見入った。鷹の嘴が動く。
『戦士よ。この王は虎の威を借る狐。神の名を盾にし騙るヒトに過ぎない。獣らをよく見よ』
鷹からの問いかけは精神感応だった。いつの間にか自分が感応を試みていたのか、それとも鷹のほうからだったのか。それは分からない。
郁は改めて周囲の獣を見やった。彼らは獰猛に唸り声を挙げているが、その顔には気高い精神が見える。決して人に媚びない、誇りのようなものが。
もしかして、と郁は獣たちの精神に語り掛けた。
『お願い、助けて!』
『人が我らに願いを乞うか』
『なんでもいいわ、あいつを倒してみんなで逃げるのよ!』
『みんなで? 自分たちだけの間違いか?』
獣たちが厳かな口調で言う。その様子に郁は全力で叫んだ。
『そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! あたしはこんなところで死にたくない! あなたたちだって、あんな王に遣われることない! こんな土壇場で駆け引きなんかしてる場合じゃないのよ!』
『ふん……煩いが尤もだ』
獅子の一頭が吠え。それに呼応して獣たちが咆哮した。地面を蹴った獣が跳躍すると、人と人の間にその体躯を着地させる。人々が驚いて、獅子のために空間を開けた。
次のひと飛びで獅子の牙が王の喉元を狙った。
叫ぶ声、混乱する民衆、狼狽する兵士たち。ぐらりとなぜか郁の視界が揺れた。こんな大事なところで! 眩暈でも起こしたのだろうか。
「天使様!」
巫女の声が頭で反響する。ぐらりと揺れる頭を抱えきれずに、郁はその場に倒れた。
「うん……あれ?」
郁が目を覚ますと航空事象艇の中に横たわっていた。
「夢……?」
呟く郁が外を見る。触れる前と同じように銘板が日の光を浴びていた。
彼女は知らない。その銘板に刻まれた文字、それは王朝に降りた天使が独裁者を打倒した神話であることを。
今は、まだ。
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