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<東京怪談ノベル(シングル)>


女豹の冬休み


「いらっしゃい」
 若干たどたどしい日本語で、店主夫人が迎えてくれた。肥り気味の、にこやかな韓国人女性だ。
 午後2時近く。昼食時の混雑を回避しようと水嶋琴美は思ったのだが、この時間でもそこそこ客は入っていた。
 知る人ぞ知る人気店、といったところであろうか。
 グルメサイトの類には載っていない、琴美が自分の足と舌で探し当てた韓国料理店である。
(別に食通を気取るつもりはありませんけど……ね)
 店主夫人に笑顔を向けながら、琴美は適当な席を探した。
 他の客たちがちらりと顔を上げ、新たに入って来た若い女性客を盗み見る。
 いくらか派手な豹柄のコートをベルトで締め、美しいボディラインをくっきりと際立たせた肢体。すらりと格好良く伸びた両脚は、黒のストッキングとロングのファーブーツで動物的に彩られている。
 そんな琴美の姿に、店じゅうの視線がほんの一瞬だけ集中する。
 だが皆、すぐに卓上の料理に目を戻し、何事もなく食事を再開した。
 自分の美貌も、食事を忘れさせてしまうほどのものではないようだ。
 琴美は苦笑した。
 自分とて、こんな肉食系気取りの服装ではあるが、別に男を漁りに来たわけではない。
 いくらか遅めの昼食。目的は、それだけだ。
「明けましておめでとう。今年の冬、寒いね」
 店主夫人が、温かいお茶を持って来てくれた。
「明けましておめでとうございます。韓国の冬の方が、お寒いのではありませんの?」
「どうかねえ。もう何年も帰ってないから、忘れちゃった」
「そう言えば、ずっと営業していますものね。このお店」
 店主は基本的に厨房に籠りきり、客の応対はほとんど全て夫人が行っている。
 週1日の定休日以外、この夫婦は年中、店を開いているようだった。里帰りなどしている暇もないほど、忙しく働いている。
「元旦から、お店開いていましたわね? 私、通りがかっただけですけど、ずいぶん賑やかでしたわ」
「お客さん、来てくれたよ。ほとんど新年会だったよ」
「日本人顔負けのお仕事ぶり、ですわね」
 下手な日本人よりもずっと勤勉に働く在日外国人が、今はいくらでもいる。
 日本人の仕事ぶりが国際的に誉め讃えられていたのも、今は昔の物語。現在の日本人は、過去の栄光の上であぐらをかきながら外国人を見下しているだけではないのか。あぐらをかきながら転げ落ちる時が、いずれ来るのではないか……
 などというのは、しかし琴美が気にかけるべき事でもなかった。
「……石焼ビビンバ丼、お願いしますわ」
「はい、石焼ビビンバ1ちょーう」
 夫人が、大声で復唱する。厨房の方から、店主の返事らしきものが聞こえた。
 昼間から飲んでいる年配の男性客の集団から、声が上がる。
「おばちゃん、チャスミルもう1本!」
「はーい。チャスミルじゃなくて、チャミスルね」
「あ、いっけねえ。酔っ払って口が回ってねえや」
「おめえよぉ。韓国のおばちゃんの前で、通ぶってんのが丸わかりじゃねえかよぉ」
 笑い声が上がった。
 日本人客との良好な関係は、維持されているようである。
 一部の者たちがネット上で起こしている騒ぎなどとは、無関係の空間が、ここにある。
 どこも大抵こんなものであろう、と琴美は思った。
 これが、普通なのだ。
 普通のものをこそ、守る。それが自分の仕事だ。
 仕事で大量の人体を切り刻んだのが年末、つい先日である。
 ジュージューと、食欲を刺激する音が近付いて来た。
「はい、おまちどお様。石焼ビビンバ」
 丼か土鍋か判然としない容器の中で、牛肉が、米が、色とりどりのナムルが、美味そうな音と匂いを発している。
 大きめの匙で掻き回し、すくい取って口に運ぶ。
 熱さが、コチュジャンや胡麻油と絡み合った肉野菜の風味が、舌に心地良い。
 本場韓国料理を謳っている店ではあるが、日本人の味覚に合うよう店主夫妻が工夫と研鑽を重ねてきた事は、疑いない。
 それにしても、と琴美は思う。
 色とりどりの肉野菜が混ざり合い絡み合った様を見ていると、どうしても先日の仕事を思い出してしまう。本当に、派手に切り刻んだものだった。
「駆け出しの頃は、お肉なんて食べられなかったのに……私も図太くなったもの」
 牛や野菜は、切り刻めば美味い料理になる。人間を切り刻んでも、屍にしかならない。
 食べながら、琴美はふと、そんな事を思った。


 商店街の、初売りである。
 特に何か買いたいわけでもないが、歩いているだけで何となく晴れやかな気分になってしまう。正月だから、であろうか。
 浮つきかけた気分が、しかし一気に引き締まるのを、琴美は感じた。
 ポケットの中で、携帯電話が震えたからだ。
『すまんな、休日だと言うのに』
 案の定だった。電話の向こうで司令官が新年早々、重苦しい声を発している。
「まずは、明けましておめでとうございます……ですわよ? 司令官」
『あ、ああ。そうだな。明けましておめでとう……で、急な話なのだが水嶋君』
「お仕事……ですわね。よろしくてよ」
 引き締まった気分が弾んでゆくのを、琴美は止められなかった。
 休日の外食やショッピングも無論、嫌いではない。
 だが自分はやはり仕事が好きなのだ、と琴美は思った。
『新年早々、虚無の境界が動き始めた。君に、強行偵察を頼みたい』
「偵察ついでに殲滅、という事ですわね?」
『それでは偵察の意味がなくなってしまうが……まあ、出来るようであれば』
 虚無の境界が相手ならば、あの無職無芸の者どもをひたすら切り刻むよりは、手応えのある仕事になるだろう。
 人殺しが嫌い、などと言う資格が自分にはないにせよ。どうせ最終的に殺戮・殲滅となるのなら、手応えのある相手の方が好ましい。
「お仕事が好き、と言うよりも……戦う事が好き、というだけですわね。私」
 電話を切りながら、琴美は苦笑した。
 鬱憤晴らしの暴動を起こそうとする者たちと、自分は本質的にはあまり違いがないのかも知れない。そう思わない事もなかった。