|
甘い香りにご用心
そこはただ、濃紺の闇が広がるだけの何もない空間だった。
その中空に、一冊の絵本が開いた状態で浮かんでいる。
そして、少し離れた場所には、女が一人。魔法薬屋を営むシリューナ・リュクテイアである。
彼女が低く呪文を唱えると、絵本はぐにゃりとゆがみ、濃紺の闇に溶けるかのように崩れ始める。同時に、あたりはゆるやかに色を帯び、形を取り始めた。
ややあって、その空間は最初とはまったく違う姿に変じていた。
それを眺めやり、シリューナは満足げにうなずいて、呟く。
「ざっとこんなものか。だが、隅々まで再現できているかどうかは、この空間を詳しく調査しないと、なんとも言えないな」
その時だった。背後で、ノックの音と共に聞き慣れた声が響いた。
「お姉さま〜。ここにいるんですか〜?」
「ティレ?」
思わずそちらをふり返り、シリューナは慌てて声のした方へと駆け寄る。その手が何もない空間の一画に触れ、押すとドアのように開いた。
シリューナは、その隙間から外へと滑り出る。次に彼女が立っていたのは、魔法薬屋の奥の住居部分の一画にある廊下だった。彼女の背後にあるのは、一枚のドアだ。
「お姉さま。ここにいたんですね」
うれしそうにその彼女に声をかけたのは、ファルス・ティレイラだった。シリューナにとっては、同族でもあり魔法の弟子でもある少女だ。
「ティレ、来ていたのか」
「はい。お店の方から声をかけたのですけれど、お返事がないので、お姉さまを探していました」
屈託なく言って、ティレイラは手にしていたケーキの箱を掲げてみせる。
「美味しいと評判のお菓子屋さんのケーキを手に入れたので、お姉さまと一緒に食べようと思って、来ました」
「そうか。……ありがとう」
笑ってうなずき、シリューナはキッチンの方へと歩き出す。それに従いながら、ティレイラは訊いた。
「お姉さまは、あの部屋で何をしていたんですか?」
「ちょっとした、実験をな」
「実験?」
「ああ。私が作った異空間に、架空の風景を再現する実験だ」
「架空の風景……ですか」
ティレイラは、シリューナの言葉がピンと来なかったのか、小さく首をかしげて問い返す。
「ああ。たとえば、空中に浮かぶ都市だとか、空を泳ぐ魚だとかいったようなものだ」
シリューナがうなずいて言った途端、彼女は目を輝かせる。
「それって、すごいです! それが実際に存在するなら、私も見てみたいです」
「だめだ。まだ、実験中だからな。ちゃんと隅々まで再現されているかどうかは、もうしばらく観察してみないと、はっきりわからないんだ」
シリューナは、かぶりをふって言った。
やがて二人はキッチンにたどり着き、シリューナがお茶の用意を始めた。ティレイラは、テーブルの傍の椅子に腰を下ろし、それを眺めているが、どことなくおちつかない。ややあって、とうとう彼女は立ち上がった。
「私、トイレに行って来ます」
そのまま彼女は、キッチンを出て行く。当人は、さりげなさを装っているつもりのようだったが――。
「やれやれ。ティレの好奇心はそう簡単には、止められないようだな」
その背を見送りシリューナは、小さな吐息と共に呟いた。
一方。
トイレに行くと言ってキッチンを出て来たティレイラは。
先程シリューナがいた部屋に、足を踏み入れていた。
「うわあ……っ」
ドアから一歩入っただけで、彼女は低い声を上げて、立ち尽くす。
そこはまさに、絵本の世界のようだった。
地面はふかふかのスポンジ生地で出来ていて、その上に芝生よろしく緑色のバニラビーンズが敷き詰められている。しかもそこには、クッキーやウエハースで出来た木々が、赤や黄、ピンクや緑のグミや飴玉の実をつけて立っているのだ。他にも、キャンディーやチョコレート、ゼリーの花々が咲き乱れ、パンケーキやマフィン、プリンやナタデココでできた昆虫たちや動物たちが、その間を闊歩している。
ただし、どれも大きい。超巨大、と言ってもいいだろう。
木々は巨大なビルのようで、見上げるだけで首が痛くなりそうだ。もちろん、花々も昆虫たちも動物も、みな本来の大きさの何倍もある。
その中では、普通の人間サイズのはずのティレイラは、まるでアリのようだった。
「すごいです〜。こんな素敵な世界を、お姉さまが作り出したんですね……」
彼女は目を輝かせ、うっとりと溜息をつく。
そしてさっそく、この不思議な世界を見て回ることに決め、弾むような足取りで歩き始めた。
歩くのに疲れると、彼女は翼と角と尻尾のある姿に変じて、空へと舞い上がる。
上空からの眺めは、壮観だった。
「きれいです〜。本当に絵本の中に迷い込んだみたいです……」
再び溜息をつきながら、彼女は翼をはばたかせる。
そんな中、彼女はパイ生地で出来た岩棚の下に巨大なチョコレートの蜂の巣がかかっているのを見つけた。現実世界でなら、ミツバチが作るような形の巣だ。しかも、近づいてみると中からはなんともいえない甘い香りが漂って来る。
(美味しそうな香りです〜。でも、もし中に蜂さんたちがいたら……)
少しためらったものの、結局その香りには勝てず、彼女は巣の中へと入って行った。
巣の中は幾重にも曲がりくねった回廊が、何層にもなった多重構造になっており、さながら迷宮のようだった。が、ティレイラはひたすら漂って来る甘い香りを追って、その中を移動して行く。
やがて彼女がたどり着いたのは、チョコレートの貯蔵庫だった。
広々としたホールの床は、深いプールのようになっており、そこになみなみとチョコレートがたたえられている。
「……!」
ティレイラは、声にならない声を上げ、プールの縁へとしゃがみ込んだ。指先に、少しだけチョコレートをすくって、口に運ぶ。
「ん〜」
腰が砕けるほど甘くまろやかなその味に、彼女はその場にぺったりと座り込んでしまった。今度は、両手でチョコをすくって口に運ぶ。砂漠で乾いた旅人が水をむさぼり飲むにも似て、彼女はひたすらチョコを堪能した。
ティレイラがようやく満ち足りて、深い吐息と共に立ち上がったのは、それからどれほどの時間が過ぎたころだったろうか。
まだ舌にはそのまろやかな味が残り、瞳は夢見るがごとく潤んでいる。
それでも、そろそろここを出なければ、と思うぐらいには理性は残っていた。
しかし。歩き出してほどなく、彼女は道に迷ったことに気づいた。
もっとも、それも当然かもしれない。来る時には、ひたすら香りを追って来たのだ。どこをどう通ったかなど、覚えているはずがない。
「あ〜ん。このままでは、帰れません〜」
回廊の一画で、べそをかきながら、彼女は座り込む。
その時だった。巨大なチョコレートで出来た蜂が数匹、回廊の影から姿を現した。チョコ蜂は、まるで敵を見つけたと言わんばかりに、羽根をぶんぶんうならせながら、ティレイラに向かって来る。
「いや〜ん」
ティレイラは、立ち上がるとチョコ蜂に背を向けて、走り出した。
(蜂さんたち、なんだか怒ってるような……。やっぱり、私が貯蔵庫のチョコを食べてしまったせいでしょうか……)
そんなことを考えながらも、彼女はただ必死に走る。
走りながら、ふと後ろをふり返って、彼女は目を剥いた。追って来るチョコ蜂の数が、増えている。
「ご、ごめんなさ〜い。チョコを食べたことは、謝ります〜。だから、許して下さい〜」
息をきらして謝りつつも、彼女は走り続ける。
だが。
「きゃ〜っ!」
叫びと共に、足を止める。
前方からも、チョコ蜂の大群が向かって来ていたのだ。彼女は、素早く左右を見回す。そこはちょうど、十字路のようになっている場所だった。が、その左右の通路からも、チョコ蜂の大群が殺到して来る。
ティレイラは、真っ青になった。
「ご、ごめんなさい〜!」
謝りつつも、炎魔法を放つ。空中に生まれた炎の礫が、雨のようにチョコ蜂の大群へと降り注いだ。
一瞬、道が開けたかに見えた。が、次の瞬間には、どこからともなく現れた新しいチョコ蜂の群れに、道はふさがれてしまう。
それは、何度やっても同じことだった。
(このままでは、私、本当にこの蜂さんたちに殺されてしまいます)
胸に呟いて、ぞっと背筋を凍らせたティレイラは、強行突破するしかないと心を決めた。
その途端、愛らしい少女の姿は一瞬にして消え去り、そこには巨大な紫色の翼を持つ竜が出現していた。
これこそが、別世界から異空間転移して来た竜族である彼女の、本当の姿なのだ。
彼女は、翼を大きくはばたかせた。そのまま、チョコ蜂の群れに突進する。紫色の肢体でチョコ蜂たちを押しのけ、無理矢理に前進しようとした。
けれど、なんとしたことか。
チョコ蜂たちは、その竜の巨大な体を押し返して来るではないか。
両者はしばし、力まかせに押し合う。
そして。紫色の竜の方が、回廊の壁に押し付けられてしまった。
しかも。チョコ蜂たちは、いっせいにその口からチョコレートを吐き出した。大量のチョコレートは、竜の体にかかると、たちまち固まって行く。
竜は必死にもがき、巨大な口を開けて咆哮したが、もはや逃れるすべはなかった。嘆くように吼え続けるその顔先にも、茶色の液体は容赦なくあびせかけられ、そのままの姿で固まって行く。
そうして、とうとう竜は――竜の姿のティレイラは、巣の一部と化してしまったのだった。
チョコ蜂たちは、それで気が済んだのか、あれほどたくさんいたのが嘘のように、またたく間に姿を消して行く。
ほどなく回廊は、がらんとした何もいない空間となった。
ただ壁には、嘆くように咆哮する竜の姿がレリーフのように残るばかりだ。
そこへ。ふいに空中から湧き出すように現れたのは、シリューナだった。
チョコ蜂たちに見つからないよう、気配を消して様子を見に来たのだったが――。
「ティレはまったく、相変わらずだな……」
壁のレリーフと化した竜の姿に、楽しげに笑って呟き、彼女はそちらへ歩み寄った。竜の姿を見詰めるその赤い瞳はわずかに潤み、白い頬は桜色に染まっている。
「これはこれで、上出来だ」
興奮気味にくすくすと笑い、彼女はそっと竜の体に指をすべらせた。チョコレートでおおわれた竜の体は、冷たくなめらかな感触で、本来のそれとはまったく異なっている。
低い笑いと、ときおり満足げな吐息を漏らしながら、シリューナは竜の体に、頭から胴、尻尾、足、翼と丹念に指をすべらせ、手を這わせ、最後にその嘆きの咆哮をたたえたまま固まっている顔へとたどり着いた。
顔を更に丹念になぞりながら、彼女はふと思いついて、たてがみの端へと唇を寄せた。小さく口を開き、歯を立て、かじり取る。
ほんのわずか、口に含んだチョコレートは、たちまち舌の上で溶けて行く。芳醇な甘さとほんの少しの苦味をまとった、極上のものだった。
「なんとも、美味だ……。これだけでも、実験は成功したと言うべきだろうな」
シリューナは、うっとりと呟き、満足げに笑う。
そうして、なおもチョコのレリーフと化したティレイラの竜の体を、まるで至高の宝石のように指と手と、ときおり舌でも、堪能し続けるのだった。
ティレイラが、チョコの縛めから解かれて自由になるのは、それから小一時間ほどがすぎた後のことであったという――。
|
|
|