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<東京怪談ノベル(シングル)>


魔女の館

 暗闇に、何かを奪い合い、争うような激しい音が響いていた。
 それはしかし、ほんの十分ほどで終わりを告げる。
 ゆるやかに流れる石造りの水路に沿って造られた、細い通路。その上に野良犬のようにうずくまり、肉片を口にほうばっている女は、響カスミだった。
 その周囲には、何人かの少女たちが倒れている。どの少女も髪はぼさぼさで体も衣服も汚れ、しかも服は破れてぼろぼろだった。その上今は、体のあちこちが腫れたり傷ついたりしている。それらはどれも、カスミが殴ったり噛みついたりした痕だ。
 だが、カスミは少女たちの様子になど頓着することなく、ただ無心に肉片に食らいついているばかりだ。
 それを食べきってしまうと、カスミは通路の一画の小さな窪みへと四つ這いで移動して、うずくまった。そのまま、目を閉じる。
 次にカスミが目を開けたのは、それからずいぶん経ってからだ。
 どこかで響いた水音が、彼女を目覚めさせたのだ。
(私……こんな所で、何をしているのかしら……)
 半ば寝ぼけた目で、あたりの暗闇をぼんやりと眺めながら、ふと胸に呟く。
 ここは、東京から車で一時間ほどの山中にある、朽ちた洋館の地下だった。
 カスミがその洋館を訪れたのは、年が明けたばかりのころだ。冬休みに入ってすぐ、彼女の教え子の少女が、心霊スポットとして有名なこの洋館に向かうと言ったあと、行方不明になっていた。カスミは、その少女を探すため、ここに来たのだった。
 けれど。
(そう……たしか、あの子が、襲って来たのよ。まるで、野犬のように……)
 カスミは、おぼろげな記憶をたどって、呟く。
 そうだった。
 無人の朽ちた洋館――そう見えたのは、外側だけだった。開きっぱなしの玄関から中に入ったカスミは、ほどなく野生の獣のように四つ這いで、敵意剥き出しにうなり声を上げる少女たちに襲われたのだ。その中には、彼女が探していた教え子の少女もいた。
 それから、いったいどうなったのかは覚えていない。
 襲われて意識を失い、気づいた時にはこの地下の水路にいたのだ。
 ここにも、洋館の中と同じく、獣のような少女たちがいた。
 カスミは最初、彼女たちと話し合おうとした。どの少女も、教え子と変わらない年齢に見えたし、彼女には争う理由など、何もなかったからだ。
 だが、少女たちに言葉は通じなかった。
 やがて、空腹と身を守る必要性に駆られて、カスミは戦うようになった。
 食べ物は、時おり上空から降って来る。誰かが、洋館の地上階から、投げ落としているのだろう。
 たいていは、先程のような肉片で、生のものが多かった。ただそれは、地下にいる全員に行き渡るだけはなく、奪い合いになるのが常だった。
 また、この地下水路には、コカトリスや巨大なネズミなど、魔法生物が住み着いていて、人間を見ると襲って来る。
 つまり、カスミたちは生きるためには、同じ人間同士で争うと同時に、魔法生物とも戦う必要があったのだ。
 そうやってここで暮らし始めて、いったいどれだけの時間が過ぎたのだろうか。
 朝も昼も夜もわからないこの闇の中で、ただ恒常的な空腹を抱え、戦い続けるうちに、カスミには何もわからなくなりつつあった。
(喉が渇いた……)
 カスミは己の内に湧いた欲求に動かされ、身を起こした。獣のように四つ這いで窪みを出ると、通路の端――水路のすぐ傍まで寄った。そこから身を乗り出すようにして、顔を水につけると、そのまま舌を使って犬のように水を飲む。水路を流れる水は、黒く濁って、小さな獣の死骸らしきものやペットボトルやビニール袋を運んでいた。だが、カスミはそれにも頓着せず、ただむさぼるように水を飲み続けていた。

 ――ここが、問題の洋館ね。
 イアル・ミラールは、灰色の空の下、うっそりと佇む朽ちた洋館を見上げ、胸に呟いた。
 同居人の響カスミが姿を消したのは、一月前のことだ。行方不明になった教え子を探しに行くと言って、いなくなった。その彼女の足取りを追って、イアルはここにたどり着いたのだった。
 心霊スポットとして有名な場所だが、ネットなどでは行方不明者が多い場所としても知られていた。中には、まことしやかに洋館に住み着いている魔女が人をさらうのだとか、幽霊が訪れた人を呪い殺すのだとか言った噂もあった。
(どっちにしろ、カスミの行方を知る手がかりは、ここにあるはずだわ)
 イアルは胸に呟いてうなずくと、洋館へと足を踏み入れた。
 入ってすぐのエントランスはがらんとしており、壁は剥がれ落ちて、かつては立派だったろうカーテンやタペストリーも、ぼろぼろに朽ちている。ただ、天井から垂れ下がった蜘蛛の巣は破れたものが多く、床に積もった埃の上にはいくつもの足跡が刻まれていた。
(けっこう、人の出入りはあるみたいだわ)
 それに気づいて、イアルは軽く眉をひそめる。
 あたりを油断なく見回しながら、彼女がエントランスから奥に向かうドアの方へと足を踏み出した時だ。頭上から、突然何かが踊りかかって来た。
「きゃっ!」
 とっさのことでよけきれず、そのまま床へと倒れる。が、うなり声と共にこちらに噛みつこうと襲って来る何かを、彼女は倒れたまま足のバネを使って投げ飛ばした。素早く起き上がり、襲って来た相手をふり返る。
 そこにいたのは、汚れた髪をライオンのたてがみのようにふり乱し、顔も体も服も黒く汚れた四つ這いの女だった。黄色く汚れた歯を剥き出し、低くうなりながら、こちらを威嚇している。
 イアルは、しばしその女をまじまじと見据えた。だが、やがて。
「……まさか……カスミ……?」
 そうだった。それは、すっかり変わってしまってはいたが、たしかに響カスミだった。
「カスミ、どうして……!」
 何か言いかけるイアルの言葉も待たず、カスミは再び獣さながらに、彼女に襲いかかって来た。
「くっ……!」
 イアルはそれをかわし、小さく唇を噛む。戦うことは難しくはない。だが、カスミを傷つけることはできない。
 みたび襲いかかって来たカスミの首筋に、イアルは鋭い手刀を叩き込む。
「……!」
 カスミは、声もなくその場に昏倒した。
 と、そこに再び別の者が現れる。今度は一人ではなく、数人いた。どれもカスミと同じく真っ黒に汚れて悪臭を放ち、獣のように四つ這いで動いている。
 少女らしい彼女らは、いっせいにイアルに襲いかかって来た。
 それらをも、次々と気絶させ、イアルはとにかく奥へと進むことにした。
(これは、あまりにも異常だわ。何か、彼女たちをこんなふうにしている者が、この洋館のどこかにいるに違いないわね。そいつを探し出して、こんなことはやめさせないと)
 決意して、彼女は館の奥へと向かう。
 その途中にも、やはり獣と化した少女たちが襲いかかって来たが、イアルはひたすらそれをかわし、昏倒させて先へと進む。
 やがて。
 彼女がたどり着いたのは、館のほぼ中央に位置しているとおぼしい、中庭だった。
 中庭の中央には、かつては美しかっただろう枯れた大きな噴水があり、その中央には両手を広げ、天を仰いで立つ女性の彫像が立っていた。
 イアルがその前に立った途端、彫像の天を仰いでいた顔が、彼女の方を向いた。
「あ……!」
 それを見た途端、イアルは低く息を飲む。女の顔は、ネットで調べた情報にあった、魔女のものと瓜二つだったのだ。その情報によれば、魔女は魔法生物の生成と人間の洗脳を得意としており、捕らえた人間を洗脳して番犬代わりにしたり、生成した魔法生物の能力を試すために戦わせたりするとあった。
(まさか、あの情報は本物だったの?)
 イアルは愕然として、彫像を見据える。その脳裏に直接、女の声が響いた。
『美しい女……。おまえも、わらわの犬にしてやろう』
 どうやら、イアルが得た情報は、あながちただの噂ではなかったらしい。
(カスミたちを助けるためには、この魔女を倒す必要があるってことね)
 小さくうなずくとイアルは、愛用の魔法銀製のロングソードとカイトシールドを召喚した。ロングソードで、彫像を切りつける。だがそれは、ふいに地中から現れた太く長い緑色の蔓によって遮られてしまった。
「な……っ!」
 驚く彼女の目の前で、地中から現れた幾本もの蔓が、蠢きながら彫像を守るかのように包み込んだ。
 イアルはかまわず蔓めがけて切りつけたが、それはずいぶんと固く、歯が立たない。
 そんな彼女を嘲笑うかのように、脳裏に女の笑い声が響く。
 ぜいぜいと肩で息をついているイアルめがけて、蔓の群れが襲いかかった。必死にかわすものの、蔓の先端は鋭く、かすっただけで皮膚や衣類が簡単に切り裂かれてしまう。
(このままでは、わたしの方がやられてしまう……)
 イアルは唇を噛みしめ、必死に考えをめぐらせた。
 そして。
(いちかばちか!)
 蔓に切りつけると同時に、手にしたカイトシールドを前方上方に投げた。蔓がいっせいにそれを追って動く。一瞬、彫像の周辺ががら空きになった。
「やあっ!」
 彼女の鋭い一太刀が、彫像の眉間を割る。
 同時に、あたりに凄まじい絶叫が響いた。彫像が、音を立てて崩れ落ち、地中から伸びていた蔓の群れがいっせいに枯れて朽ちて行く。
 その姿をイアルは、ただ肩を喘がせながら、見詰めていた。

 魔女の死と共に、少女たちは本来の自分を取り戻したようだった。
 イアルがエントランスに戻ってみると、意識を取り戻したカスミがぼんやりと座り込んでいるのが見える。
「カスミ」
 イアルが駆け寄ると、カスミは顔を上げた。
「イアルさん。……私、いったいどうしてたのかしら。なんだか体中が痒いし、臭いし、痛いんだけど」
 それへイアルは、自分がカスミを探しに来たいきさつと、魔女のことを話す。
 聞くなり、カスミは顔をしかめた。
「じゃあ、もしかして私、一月もお風呂に入ってないの?」
「わからないけれど、その様子ではたぶん……」
 問われてイアルは、言葉を濁す。
「いや〜っ! なんだかますます体が痒くなって来た気がするわ」
 カスミは身をよじると、立ち上がった。
「とにかく、お風呂よ、お風呂。お腹も空いてる気がするけど、まずはそっちが先だわ」
「なら、ここに来る途中に、露天風呂があったから、そこに行きましょう。あそこなら、誰に遠慮することなく、ゆっくり体を洗えると思うわ」
「露天風呂! ナイスね。じゃ、さっそくそこへ行きましょ」
 思いついて言ったイアルに、カスミは目を輝かせる。
 そこへ、他の少女たちもエントランスへ集まって来た。
 カスミが、彼女たちにも風呂に入ろうと提案する。
 こうして、イアルとカスミは捕らわれていた少女たちを引き連れ、露天風呂へと向かうのだった。