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海辺のマザコン
海水浴の季節ではない。が、浜辺には若者たちの姿がちらほらと見られる。
半分以上が、日本人である。
皆、何をするでもなく砂浜に寝そべったり、ヤシの木陰に座り込んでぼんやりしているだけである。
全員、この上なく幸せそうに見えた。
本人たちが幸せならば、それで良いのだろうか。
そんな事を思いながらフェイトは、浜辺の酒場から、その光景を眺めていた。
「これでもね、かなりマシにはなってきたのですよ」
テーブルの向かい側で、ちびちびと酒杯を傾けながら、ダグラス・タッカーが語る。
「それでも多くの外国人……特に日本の人たちにとって、この地はドラッグ天国です。国によっては所持しているだけで死刑を宣告されるような薬物が、この村では」
「コンビニでアイス買うくらい、お手軽に手に入っちゃうみたいだな」
砂浜や木陰で時折、おかしな笑い声を発している若者たちを眺めながら、フェイトは呟いた。
違法な薬物を格安で手に入れる、ためだけに海外旅行をしている若者たち。
ムンバイから若干、南下した所にある、海辺の観光地。
自分も、このドラッグ天国で違法なバカンスを楽しんでいる外国人にしか見えていないのだろうか。フェイトは、そう思った。
無論ダグとて、麻薬体験をさせるためにフェイトをこの村へ連れて来たわけではないだろう。
「長老方は、これから一層、この国における麻薬の流通に力を入れるでしょうね。あの方々の他のビジネスを、何しろ我が商会がことごとく潰しておりますから」
「麻薬関係のビジネスだけは、なかなか潰せない?」
「潰して見せますよ。いずれ必ず」
眼鏡の奥で、ダグの両眼が強い輝きを放った。
「私が言いたいのはね、フェイトさん。貴方がその手で殺したのは、この国に麻薬の害を垂れ流している一族の1人だという事です」
「殺した事を後悔してるわけじゃないよ。人を殺したの……初めてじゃ、ないからな」
フェイトは、己の右掌をじっと見つめた。こめかみに思いきり手刀を叩き込んだ感触が、特に強く残っている。
超能力も、銃器も刃物も用いずに人を殺したのは、初めてである。
「虚無の境界の連中とか、その他諸々のテロリストやら何やら、今まで散々殺してきたよ。だけど今回は違う……俺、民間人を殺しちゃったんだぞ」
「虚無の境界と結託していた民間人です。そのような人々まで守れるほど、IO2は万能ではありませんよ」
眼鏡越しに、ダグがじっと眼差しを向けてくる。
「法の裁きを受けよう、などと貴方が思っているのだとしたらフェイトさん……私は商会のお金を注ぎ込んででも、それを阻止しますよ。お金の力で、司法をねじ曲げて見せます」
「ダグ……」
「私はね、これから死ぬほど忙しくなるのですよ。この国で陰の支配者を気取っておられる上位カーストの方々は、あの長老の一族だけではありませんからね。虚無の境界よりも難儀な人たちを相手に、気の遠くなるような戦いをしてゆかなければなりません。つまらない事で煩わされたくはないのです。ええ何度でも言いますよ、つまらない事です」
「つまらない事……か」
フェイトは苦笑した。
日本人の若造がインド人を1人、殴り殺した。この英国紳士にとっては本当に、取るに足らぬ事なのであろう。
目の前に置かれたままのグラスの中身を、フェイトは一気に飲み干した。
ボンベイ・サファイヤあたりとは違う、無銘の安酒である。美味いのか不味いのかも、よくわからない。
あの男のような輩が、この国にはまだ大勢いるに違いなかった。女性に暴力を振るう事しか出来ない、最低な男が。
インドだけではない、日本にもいる。嫌になるほどいる。フェイトの、父親のような男たちが。
嫌になるほどいる。男の暴力の犠牲となる女性たちが。フェイトの、母親のように。
「今回は……あんたのお母さんの仇討ち、って事で良かったのかな。英国紳士」
フェイトは言った。自分はいささか酔っ払い始めているのかも知れない、と思わない事もなかった。
「それが、まあ滞りなく済んで……おめでとう、なんて軽々しく言ってもいいのかな」
「私がこの国に来たのは投資のため、と言いたいところですがね……大部分、私情が入っていた事は認めなければなりません」
苦笑気味に、ダグは微笑んだ。
「貴方のおかげで、私怨を晴らす事は出来ました。またフェイトさんに借りを作ってしまいましたね」
「俺だって、私情で暴れてただけさ。あいつらが、許せなかったから」
ダグの、あるいは彼の母親のために何かしてやろうなどと、フェイトは欠片ほども考えてはいなかった。
自分がこの世で最も憎む男と同じような者たちが、本当に許せなかっただけだ。
そんな私情のおもむくままに行動した結果、ダグの母方の実家に、いささか深く関わる事になってしまったかも知れない。一族の男を1人、殺害してしまったのだから。
別にフェイトが見たいと望んだわけではないが、ダグは母親の一族の、嫌な部分を見せてくれたのだ。
「なあダグ……スマホとイヤホン、持ってる?」
「持っていますが、それが何か」
「俺、今からちょっと、つまんない話するからさ。耳障りだと思ったら、何か音楽でも聞いててくれよ……知っての通り俺、おかしな能力があるんだけど。そいつが目覚めたきっかけってのが、これまたつまんない事でさ」
浜辺でダラダラと幸せそうにしている若者たちを眺めながら、フェイトは語ってみた。
「俺のおふくろが、親父に殴られてて。俺、おふくろを助けようとして……気が付いたら親父が、壊れた人形みたいになっててさ。で俺、虚無の境界の親類みたいな連中に目ぇつけられて、そいつらに買われる事になったんだ」
「買われた……貴方のお母さんのために、ですか?」
「親父は元々仕事なんかしてなかったけど、おふくろも働ける状態じゃなかったからね。で俺は、買われた先でいろいろあって、IO2に助けてもらって今に至ると。そういう話さ」
「貴方自身に関するお話……チベットでは、聞けずじまいでしたね」
「あんた1人に御家族の話、させちゃったからな。あの時は」
言うべきか否か、言ったところでどうなるのか。
などと迷いつつも、フェイトは言っていた。
「……俺のおふくろは今、入院してる。息子がバケモノだったショックで、立ち直れなくなっちゃって」
「それでも生きていらっしゃるだけ幸せでしょう……と言いたいところですが、どうでしょうね」
ダグは、海を見つめていた。
「私の母もね、最期に近い頃はいくらか精神を病んでいました。何しろ周囲に誰一人、味方がいないのですからね。あのままでは虚無の境界に呪殺されずとも、本当にどこかの屋上から飛び降りていたかも知れません」
「誰一人、味方がいなかった……か」
自分の母もそうだった、とフェイトは思い出した。
周囲の人々は、父が酔っ払って暴力を振るっていても、単なる夫婦喧嘩としか見てくれなかった。
「父さえも、母の味方をしてはくれませんでした。多忙な人でしたからね……私は一時期、そんな父親を本気で殺そうと考えていましたよ」
「……今は、違う?」
「そのような男と結婚したのは、母自身の意志。そう思えるようになりました」
海の中に、母がいる。
そんな眼差しで、ダグはじっと海を見つめている。
「私を生んでくれたのも、私を虫使いに育て上げてくれたのも、母の意志です。他人のせいにするのは、母という1人の人間の意志を軽んずる事にしかならない……今の私は、そう思うのです」
「……立派だと思う。いや、皮肉じゃなしにな」
「立派な事を、口で言っているだけですよ」
ダグは微笑んだ。
「心の中では、モヤモヤとしたものが今でもまだ渦巻いています。父が、母を守ってはくれなかった……この思いは一生、私の心の中で、わだかまり続けているでしょうね。それを父にぶつけたところで意味はありません。他人にぶつけたところで、母が生き返ってくれるわけでもなし。わだかまったものは一生、モヤモヤさせたまま抱え続けてゆかなければならないようです。嫌ですねえ、人生って」
自分は他人にぶつけた、とフェイトは思った。ぶつけて、死なせてしまった。
「ああ、どうか誤解なきように。フェイトさんの行動を否定しているわけではありません。自分の妻に直接の暴力を振るうような男は、子供による制裁を受けて当然であると私は思いますよ。フェイトさんは何も、間違った事はしていません……まあ要するに、貴方が殺したのは殺されて当然の男、何も気に病む必要はないと。私はそう申し上げたいだけなのです」
気に病んでいるわけではない。フェイトは、自分ではそう思っている。
ただ、手応えが残っているだけだ。
どう反省しようと開き直ろうと消える事のない感触を手足にこびりつかせたまま、アメリカへ帰る事になる。
そんなフェイトをじっと見据えて、ダグは言った。
「フェイトさんはこれからも、御自分のお父様に似た人間を見かける度、同じ事をするのでしょうねえ……無理に抑える必要はない、と思いますよ? どんどんおやりなさい。タッカー商会の財力で、私がいくらでも揉み消して差し上げますから」
言いつつダグが立ち上がり、スマートフォンを取り出した。着信があったようだ。
「すみませんね、会話中に……」
「俺なんか気にせずに、ほら早く出た出た。仕事の電話だろ?」
ダグも若社長として、多忙な日々を送っているのだ。
もしも彼が、妻を娶るような事があれば。その妻もまた、彼の母親と同じような思いを味わうのだろうか。
少し離れた所で電話を始めたダグを見やりつつ、フェイトは苦笑した。
「俺が考える事じゃあ、ないよな……」
呟きつつ、スーツのポケットからスマートフォンを取り出す。
メールが1通、届いていた。教官からだった。
メリークリスマス&ハッピーニューイヤー。そんな内容だ。
どうせ今頃しけた面してるんだろう。俺の新しい家族でも見て、空元気を出せ。
そんな言葉と共に送られて来た画像を、フェイトはじっと見つめた。
教官が『新しい家族』を両腕に抱え、笑っている。
2匹の仔犬。日本犬であろうか。黒人男性の力強い両腕に捕われ、キャンキャンと悲鳴を上げているように見える。
フェイトは軽く、頭を押さえた。2匹とも、どこかで見たような仔犬だった。
「まさか……だよな。そんな事、あるわけが……」
頭痛に近いものを、フェイトは感じた。
素手で人間の命を奪った事など、どうでも良くなりかけていた。
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