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<東京怪談ノベル(シングル)>


白い口づけ


 簡単に覗きが出来る、ようでいて覗けないように出来ているのが、温泉旅館の露天風呂というものだ。
 それは、響カスミにもわかっていた。
 だが屋外で裸になるというのは、ちょっとした冒険ではある。
「だからって、水着で温泉に入るなんて……無粋だものねぇ」
 真っ白な世界の中でカスミは、ほろ酔い気分に浸っていた。
 木々や岩に降り積もる、白い雪。乳白色の湯。
 露天風呂に盆を浮かべ、雪見酒を楽しんでいる最中である。1人ではなく、マンションの同居人と一緒にだ。
「ほらあ、イアルも飲んで飲んで。って言うか、お湯に入って」
「カスミ、私……臭くない?」
 自身の二の腕や脇の下の匂いを執拗に嗅ぎ回りながらイアル・ミラールは、遠慮がちに岩に座り込んだまま湯に入ろうともしない。
「何百年も、水浴びすらしなかったのよ……きっと、まだ汚れてるわ。カスミと一緒に、お風呂になんて入れない……」
「なぁに言ってるの。一緒にシャワー浴びてぇ、よぉく洗ってあげたじゃないの。この綺麗な身体のぉ、あんな所やこーんなトコまでぇっ!」
 カスミはイアルの腕を掴み、岩の上から強引に引きずり下ろした。
 湯の飛沫が、派手に飛び散った。他に客がいたら、迷惑行為となっていたところである。
「汚れてなんかいないわ。イアルのお肌……とっても綺麗よ。んー妬ましいっ」
「か、カスミ……貴女、酔っ払ってるわ」
「イアルも一緒に酔っ払うのっ。何なら口移しで飲ませてあげてもいいのよん?」
「……カスミのキスを、そんなに安っぽくしては駄目」
 カスミが差し出したお猪口を、イアルは覚悟を決めたかのように受け取った。
 そこへ、熱燗を注いでやる。
 一気に、イアルは飲み干した。
 そして、ぶくぶくと湯に沈んだ。
「あらあら……イアル、大丈夫ぅ?」
「……熱いお酒なんて……初めて飲んだわ」
 カスミの豊かな胸にもたれながら、イアルは今にもまた沈んでしまいそうである。
「いけない、こんなに酔っ払っては……この山には、邪悪な雪の精霊がいると言うのに」
「ああ、雪女の事?」
 そういう言い伝えがある地方の、温泉旅館であった。
 カスミが商店街の福引きで、引き当てた旅行である。
 雪を掻き分けて行くような感じで、到着まではいささか大変だった。
 だが温泉は申し分ないし、酒も美味い。これなら料理も期待出来そうである。
 ちらちらと、雪が舞っていた。風情も最高だ。
「いいわね〜、思わず歌いたくなっちゃう。うぃでぃでぃーりゅりゅーでぃでぃーりゅりゅーでぃぽーららろでぃー♪」
「ぱーららろでゅー、ぱーららろでぃー」
「あら、歌も上手いじゃないのイアルぅ。ヨーデルなんて知ってるのねえ」
「カスミ……私、歌っていないわ」
 イアルは相変わらず、カスミの胸に抱かれて酔い潰れかけている。
 カスミでもイアルでもない何者かが、歌い続けていた。
「うぃでぃでぃーりゅりゅーでぃでぃーりゅりゅーでぃぽーららろでぃー」
「ぱーららろでゅーあーららろでゅー」
 酔いが醒めてしまいそうなほど、冷たく涼やかな女たちの声。
 それと共に、ちらつく雪が猛吹雪に変わった。
「あっ……寒……っ」
 湯では溶かせぬ氷が、カスミとイアルをビキビキッ……と包み込んでゆく。
 氷の、棺であった。
 冷たさを感じる暇もなく遠のいてゆく意識の中、カスミは、旅館の女将から聞いた雪女の伝説を、ぼんやりと思い出していた。


 その雪女たちは、若い娘の生気を糧として、何百年も生き続けているという。
 若さは続くものの完全な不老ではなく、老いた肉体を捨てては若い女の肉体を奪い、不老不死に近い状態に命を保ち続けるという。
 温泉の女性客が狙われたりさらわれたり、という事も過去に何度か起こっているらしいが、真偽は定かではない。
 恐いもの見たさで若い女性客が増えた時期もあったようだ。幸いにと言うべきか、その中の誰かが雪女にさらわれたという事例はない。
「当然よ。少し見てくれが良いだけで中身の腐った女など、こちらから願い下げというもの」
「私たちの目にかなう娘なんて、そうそういないわ……今回は、大収穫ね」
 雪女の1人が、凍り付いたカスミの頬を撫でた。
 氷像と化したカスミとイアルは、魔女たちの洞窟に運び込まれていた。現在、カスミの方から解凍されている最中である。
「う……ん……」
 カスミは、うっすらと両目を開けた。
 雪女たちの真っ白な美貌が、自分を取り囲んで笑っている。その様が、まずは視界に広がった。
「年齢的には、割とギリギリみたいね……」
 雪女の1人が、失礼な事を言っている。
「でも大丈夫、私に身を任せなさい。そうすれば、100年でも200年でも、若く美しくいられるのよ」
 薄い唇が、そんな言葉を紡ぎながら、カスミの唇を奪った。
 無数の冷たい唇が、全身を這い回っている。
 骨まで凍えそうなほど冷たく、それでいて心を蕩かすほどに熱い快感が、カスミを襲った。
 思考が、理性が、その快楽の波に溶け込んでしまう。
(い……ある……ぅ……)
 冷たいキスで唇を塞がれたまま、カスミは悲鳴を上げた。届かぬ悲鳴だった。


 もう1つの氷の棺が、砕け散った。
 破片を素足で蹴散らしながら、イアル・ミラールは踏み込んでいた。その右手に長剣が出現し、握られる。
「お前……!」
 息を呑んだ雪女の1人が、真っ二つになった。その屍が、無数の雪の結晶に変わり、キラキラと散って消えた。
「寒かった、とっても……酔いを醒ましてくれて、ありがとう」
 とりあえず感謝を口にしながらイアルは、雪女たちに切っ先を向けた。
「お前たちが雪女……シルフィードの邪悪な亜種、みたいなものかしらね? 何にしても、この程度の冷気魔法でミラール・ドラゴンの力を封じる事など出来はしないわ」
「猪口才な西洋の巫女か何かか……!」
「こっちの小娘は、とんだ食わせ物だったみたいだねええッ!」
 雪女たちの怒りに合わせ、猛吹雪が発生した。
 荒れ狂う寒気の嵐を切り裂くが如く、イアルの長剣が縦横無尽に乱れ閃く。
 切り刻まれた雪女たちが、雪の結晶に変わり、粉雪のように消滅してゆく。
 残る雪女は、ただ1人。
 斬り掛かろうとしたイアルの動きが、硬直した。剣を振り下ろす事が、出来なくなった。
 カスミが、そこに立っていたからだ。
 外見は、肉体は、響カスミのそれである。
 そこに宿っているのはしかし、彼女とは似ても似つかぬ邪悪な魂だ。
「この娘がいれば、お前は要らない……」
 カスミの可憐な唇から、雪女の冷たい声が、寒風の如く吹き出して来る。
 たおやかな細腕が絡み付いて来るのを、豊かな胸が押し付けられて来るのを、イアルはかわす事が出来なかった。拒む事が、出来なかった。
「だから、その生意気で活力に満ちた生気だけをもらう……ふふっ、幸せでしょう? 愛する人のキスで、生命を吸い取られてゆくなんて」
「この……ッッ!」
 怒りの叫びを紡ぎ出そうとするイアルの唇が、あっさり塞がれた。
 カスミの唇、だが邪悪な雪女のキス。
 冷たく、熱い、得体の知れぬ快感が、イアルの全てを溶かしてゆく。
 溶けたものが、啜り取られてゆく。
(カ……スミ……)
 唇を奪われたまま、イアルは叫んだ。届かぬ叫びだった。


 否。
 その叫びは、辛うじて届いた。
「お前……お前は!」
 カスミは、いや雪女は、狼狽していた。
 身体の、心の奥から、もはや欠片も残っていないはずの魂が這い上がって来る。
 吸収したイアルの生気が、その魂と合流し、溶け合い、燃え上がった。
 雪女の力をもってしても、凍らせる事の出来ない熱さだった。
 短い断末魔の絶叫を響かせ、カスミは倒れた。
 そして、すぐに起き上がった。
「あ……寒っ! 寒い寒い、何なのよォ!」
 豊かな胸を隠す感じに、カスミは己の身体を抱いた。
「ちょっと一体、何でこんな所に……きゃあああああ! イアル!」
 寒さなど吹っ飛んでしまうほど絶望的なものが、そこに転がっていた。
 イアル・ミラールの、凍死体である。
 いや、まだ死んではいない。石像として数百年を生きてきた彼女が、氷像と化したくらいで死ぬはずがない。
 吸い取ってしまった生気を戻しながら、温泉で温めてやる。
 カスミに出来る事は、それだけだった。


 今にも泣き出しそうなカスミの顔が、視界いっぱいに広がっていた。
「カスミ……?」
「イアル! 良かったぁ……」
 温泉の中だった。
 湯の飛沫と涙を飛び散らせながら、カスミが抱きついて来る。
 その胸に圧殺されかけながら、イアルは呻いた。
「カスミ……よね? 雪女じゃなく」
「もうっ、何言ってんのよ! 雪女なんているわけないじゃない。女将さんの話、まともに信じちゃって……ふふっ、心が純粋なのねイアルは」
 何もかも、都合よく忘れてしまっているらしい。ある意味、とんでもない特殊能力である。
 女将が、脱衣所の方から声をかけてきた。
「お客様ぁー、そろそろ御夕食のお時間ですぅー」
「はぁーい!」
 イアルを抱いたまま、カスミは元気に応えた。
「何か、酔いも醒めちゃったし……飲み直しよ、イアル。熱燗の素晴らしさ、教えてあげるっ」
「ほどほどにね……」
 この女教師は、もしかしたら酒癖があまり良くないのかも知れない、とイアルは思い始めていた。