|
仮想世界を走り抜けて
鏡に向かって、犬が尻尾を追いかけるみたいにクルクルと回ってみた。
様々なポーズをとってみた。
蛍光灯の下、鏡に映るケンタウルスを眺めていると、長い夢を見ているような錯覚を覚える。
(夢の中にいるなら、外に出てみたいけど……ここは現実だもの)
そこまで考えて、ふと。
仮想世界になら行けることを思い出した。
前にお父さんからプレゼントされていたアイテムがある。『仮想世界シミュレーター』という名前の、チョーカーに似た装備品。
これがあれば、あたしは外へ行ける――。
……ザシュ。
乾いたアスファルトを前足で擦る。
息を大きく吸う。
冬の空はとても澄んだ青色をしていて、冷たい空気が喉をヒリヒリさせる。
そんな小さな痛みさえ、心地良い。
(よぉーい。どんっ)
心の中で声を張り上げて。
あたしは走り出す。
「う、あ? わわわわっ」
しまった。前後左右、出鱈目な足の出し方をしてしまった!
足がもつれて、倒れ込む。
仮想世界なら、土の道にしておけば良かった!
アスファルトの上で転ぶと、痛い!
硬くした皮膚と剛毛があるから、すっかり油断していたのだ。
「うー……」
俯きながら起き上り、そっと辺りを見渡す。
仮想世界だから他に人はいないのだけど。
つい確認せずにはいられない、小心者のあたし……。
……――気を取り直して。
「いち、に。いち、に。いち、に」
子供みたいに声を出して、ゆっくりと歩き出す。右足、左足、右足、左足。
バランスがとりやすいように、両手も振りつつ。右。左。右。左。
だんだんと足を速めていって、やがて走り出す。
「1、2、1、2、1、2、1、2」
自転車に乗れるようになった子供が、自転車から降りたがらないように。
一度走れるようになったら、止まる気になんてならなかった。
大通りに出て、颯爽と交差点を走り抜けていく。
仮想世界って何て素敵なんだろう。どこまで行っても青信号!
(まるでテレビのコマーシャルみたい)
街中なのに誰もいなくて、時が止まったように静かで。その中を一人、あたしだけが軽やかに走っていく。
タネも仕掛けも分かっているのに、凄く不思議で、ロマンチックで……ドキドキする!
商店街を通り過ぎて行く。
次々に変わる景色。
いつも立ち止まる八百屋さんの前や、コロッケの美味しい肉屋さん、立ち寄りたいけど我慢して速足で過ぎる雑貨屋さんの前も。
ビュウビュウと風を切って、後ろへ置いて行く。
胸の高鳴りが大きくなって。
心地良さが風船みたいに膨らんでいって。
――そしたら、悪戯心も出てきた。
塀の上に林檎を一つ置いて。
さてお立会い。取り出したるは一本の弓、これで林檎を射ってみせちゃいます。
(なんてね)
仮想世界はあたしを大胆にさせるみたい。
あたしは奇妙な前口上を述べて、走りながら弓を放った。
「あー、違う!」
弓は大きく外れて、塀を飛び越えて明後日の方向へ行ってしまった。
ノリで出来ることではないのだ。何回も練習したけど、まぐれで一回当たっただけ。悔しくなって、あたしはこの遊びに夢中になった。
ただの馬の姿だったら弓を射ることは出来ない。上半身が人間のケンタウルスならではの遊びだった。
次にやったのはハードル。
ハードルと言っても、体育で使う物ではなくて。車だ。
仮想空間なので、自由に車を置くことが出来る。800メートルの中に何台も車を配置して、走り抜けるのだ。軽自動車もあれば、キャンピングカーもあり、トラックもある。ゴール前には漆黒のリムジン!
助走をつけてテンポ良く跳ねる。膝を柔らかく使って、尻尾を揺らし、ペガサスのように舞いあがる。
高く、高く。そして遠くまで飛び上がった。
キンキンに冷えた冬の風を、全身の毛で受け止めた。足に生えた長いこげ茶色の毛が風に靡いて、自分でも分かるくらい、獣の臭いがした。
リムジンを飛び越えて軽やかに着地したとき。足の裏が少し痺れた気がした。でもそんなことはどうでも良いくらい、気持ちが良かった。このままどこでまでも、どこでまでも、走って行きたかった。
塀を駆け上がり、砂利道を跳ね、原っぱを通り過ぎ、土埃を巻き上げた。
空はどこまでも澄んでいて、あたしの髪からはシャンプーの匂いがしていた。その下からは獣の蒸れた臭いが立ち上り、あたしの髪の匂いを覆い隠していた。
(明日は筋肉痛かも)
少し不安に思った。
でも次の瞬間には、再び地面を蹴っていた。
終。
|
|
|