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<東京怪談ノベル(シングル)>


美しき琴棋(3)
 駆ける、駆ける、黒衣の女。戦場という舞台の上で鮮やかに舞う琴美の姿は、さながら歌劇を演じているかのようだった。
 心もとない明かりの下であろうと、琴美が敵との間合いを見誤る事はない。容赦なく繰り出される、足技。黒いプリーツスカートの下から伸びた彼女の長い足が、なめやかに弧を描きながら相手の体へと叩き込まれる。
 反撃しようと相手がナイフを振るったが、琴美は華麗に身を翻しそれを避けた。ロングブーツが床を叩く音が、周囲に心地の良い音色を奏でる。
「ちょこまかと……卑怯よ! 水嶋っ!」
 自分は正々堂々と自身の力で戦っているというのに、見当違いな罵声を飛ばされて琴美は少しだけ笑った。けれど、攻撃の手を緩める事はない。再び敵へと接近し、隙のない格闘術とナイフさばきで彼女は相手を追い込んでいく。
 泥と血にまみれた戦場で、唯一美しさを保っている琴美の艶美さは際立っていた。ボディラインを強調するラバースーツは、彼女の色っぽさを雄弁と語っている。
 美々しい黒髪が不意に、重力に逆らい誘うように揺れた。重力すらも、琴美の手のひらの上なのだ。琴美の意志に忠実に従う重力弾が、敵に向かい放たれる。
 敵は銃を取り出し、琴美に向かい乱射。下手な鉄砲もなんとやらとは言うが、下手すぎるならば話は別だ。何よりも、相手が悪すぎる。
 特務統合機動課。自衛隊の中に非公式に設立された暗殺、情報収集等の特別任務を目的にし、魑魅魍魎の類の殲滅も担う特殊部隊。
 その課のエースである水嶋・琴美を、弾丸如きが傷つけられるはずもない。
 不意に立ち止まった敵の口から、鮮血が吐き出される。血を吐き驚愕に目を見開きながらも、彼女は自身に突き刺さったものをゆっくりと見下ろす。
 そこにあったのは、ナイフだった。
 琴美が先程狙いを定め放ったそれは、銃撃を掻い潜り的確に相手の急所へと突き刺さったのだ。
 倒れ伏した裏切り者が、最後の力を振り絞り琴美を睨み上げた。怨嗟の言葉を吐こうと開かれた口は、結局何の言葉を発する事も出来ないままに閉じられる。毅然と佇む琴美を見て、彼女は悟ってしまったのだろう。圧倒的なまでの、力の差を。
 射撃においても、近接戦においても、美しさにおいても、水嶋・琴美には……敵わないのだ。

 施設の裏手。薄暗い駐車場にて車に乗り込もうとしているのは、敵組織のトップである男だ。
 監視カメラで侵入者である琴美の動向を伺っていた彼は、幾戦もの戦いに身を投じてきた歴戦の猛者だった。けれど、だからこそ琴美の鮮やかな戦いを見ている内に、分かってしまったのだ。彼女、琴美には……勝てない、と。
 少なくとも、態勢を立て直す必要がある。このままむざむざと彼女のナイフに切り刻まれる瞬間を待つのはごめんだとばかりに、琴美が裏切り者と戦っている隙に男はこの場から逃げ出そうとしていた。
 けれど、琴美の力は、彼の予想を遥かに上回る。
「かくれんぼの次は、鬼ごっこでして?」
 いつからそこにいたのか、耳元で響いた艶やかな女の声。首元に添えられたのは、鋭いナイフの刃。
「見逃してほしい? ごめんあそばせ、それは出来ない相談ですわね。私の今日の任務は、敵組織の――殲滅ですわ」
 殲滅。それすなわち、皆殺し。ただの一人も逃す事は許されない。
 振り返る暇すら与えず、琴美はナイフを引く。そうして今日、一つの組織が世界から姿を消した。

 今まで色々な敵と対峙してきたが、琴美の仕事の終幕を飾るのは、いつだって同じ結末だ。自分が勝利する、という結末。今日もまた、それをなぞっただけ。
 むしろ普段より少々呆気なかったくらいですわね、と琴美は肩を竦めてみせる。
 掻き上げられた黒髪を、風が優しく撫でる。整ったその横顔に浮かぶ表情は、微笑。甘い吐息と共に、物言う花は囁く。
「任務、達成ですわ」

 ◆

「よくやった、水嶋」
 帰還した琴美を迎えたのは、賛美を孕んだ司令の低い声だ。
「楽な仕事でしたわ。休暇前に体を動かすのもいいと思っていたけれど、結局肩慣らしにもなりませんでしたわね」
 命の懸かった任務から今しがた帰ってきた事など嘘のように、琴美の様子は普段通りだった。その体には傷どころか、返り血や汚れ一つついていない。ラバースーツに身を包まれた、美しい肢体があるだけだ。
 それどころか、形のよい彼女の黒色の瞳は、今回の任務がどれだけ物足りないものであったかを語るかのように退屈げであった。
「そう言うな。君が苦戦を強いられるような任務がそう何度も起こっていたら、国の一つや二つ簡単に滅んでしまう」
「あら、ご安心を。私なら、その国すら救ってみますわ」
「……だろうな」
 司令は満足気に頷き、静かに微笑む。その笑みは、琴美への信頼の高さを静穏ながらも物語っていた。
「次も頼むぞ」
 司令が彼女に頼むのは、『任務』ではない。『任務の成功』だ。どのような任務であったとしても琴美なら必ず成功させる、と彼は信じているのだ。
 そして琴美自身もまた、次の任務も自分の勝利で幕を閉じる事が出来ると信じている。絶対な実力とそれに見合う自信のもと、数多もの屍を築き上げた黒髪の女神は笑みを返した。
「ええ、もちろんですわ。司令」
 司令への信頼と、忠誠を胸に携えながら。