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鮮血の波に抗う魂(中編)
「現場近くの教会で、君たちの世話をしているシスター……彼女に関して、知る限りの事を教えて欲しい」
「何も知らないよ。とんでもない変人だって事、以外はね」
突然現れたルーマニア軍人の問いに、ヴィルヘルム・ハスロは即答した。
「あのシスターに関しては、むしろ僕の方がいろいろ知りたいくらいだよ。軍人さんに付け狙われるような、一体何をしでかしたのやら……ま、どうでもいい事だけど」
ヴィルは軍人に背を向け、歩き出した。振り向かずに、言葉を残しながら。
「本当に気に入らないシスターだけど……腹立たしい事に、僕にとっては恩人だ。世話になってる。その借りを、まだ返していない。シスターの不利になるような事、僕は喋るつもりないからな」
「待って、ヴィル……!」
軍人の姪である少女が、腕にすがりついて来た。
無理矢理に振りほどこうとして、ヴィルは息を呑んだ。
少女の柔らかさが、匂いが、温かさが、伝わって来たからだ。
「あたし、ヴィルに会いたかった……ヴィルに謝らなきゃって、ずっと思ってた……」
「何で……君が、僕に謝る……?」
ヴィルは落ち着きなく、声を上擦らせた。
少女の柔らかさが、健やかな心臓の鼓動が、伝わって来たからだ。
「だって……あたしの、お父さんが……」
「君の父さんは、僕の親父に殺された……僕の方が……ま、謝りはしないけど、恨まれてもしょうがない……」
間近から見つめてくる、少女の愛らしい顔を、ヴィルは見つめ返す事が出来なかった。
少女の鼓動が、瑞々しい血の流れようが、伝わって来たからだ。
この少女の柔らかな肉体には、生命の温かさに満ちた血が流れ通っている。
それを思った瞬間、ヴィルの口の中で、舌が獰猛にうねった。
うねった舌先が、何か固く鋭いものに触れた。
犬歯……いや、それはもはや牙である。
その牙で、血を啜れ。
何者かが、ヴィルの心の中で、声なき言葉を発した。
何かが、久しく忘れていた何かが、5年間ずっと眠り続けていた禍々しい何かが、覚醒した瞬間だった。
覚醒したものが、なおも言う。
弱者の血と命を糧とせよ。それが、強者の道……
「黙れ……」
ヴィルは呻いた。少女の瞳が、涙で揺らめいた。
「ヴィル……」
「僕に、触るなあああああああ!」
少女の細腕を振りほどいて、ヴィルは駆けた。駆けながら、叫んだ。
「僕に触るな! 僕に、近付くな! ……僕に、語りかけるな……串刺し公……ッッ!」
血の臭いと火の臭いが混ざり合い、渦を巻いている。血生臭さと、焦げ臭さ。
戦場の臭いだった。
ヴィルは今、林の中に立っている。戦場の臭いに満ちた、林の中。
……否、林ではなかった。周囲に林立しているのは、樹木ではない。
杭であった。地面に大量に打ち立てられて天空を向き、何かを高々と串刺しにしている。
武装した兵士、だけではない。貴族、それに老若男女の民衆……大勢の人間が、串刺しとなって晒されていた。
ヴィルは硬直した。暴力的なまでの恐怖が、少年の細い身体を打ち砕いてしまいそうだった。
串刺しの屍などよりも、もっと恐ろしいものが、そこに佇んでいたからだ。
こちらに背を向けて立つ、赤黒い人影。
がっしりと力強い身体に、返り血まみれの甲冑をまとっている。
この光景を作り出した、張本人。
その禍々しい姿が、ゆらりとヴィルの方を向いた。
兜と面頬の下で、眼光を爛々と輝かせているのは……ヴィルが、よく知っている顔だった。永遠に失われてしまった、面影だった。
「お父さん……」
「ヴィル……私は父でありながら、お前に何も道を示してやれなかった……」
ハスロ博士の両眼が、とめどなく涙を溢れさせながら、血と炎の色に輝いている。
違う、とヴィルは思った。この男は、父ではない。
血と炎の色の眼光が、激しく燃え上がり、涙を灼き尽くし蒸発させていた。
「……だから、私が道を示してやろう」
獰猛に牙を剥いて微笑んだのは、成長し30代に達した、ヴィルヘルム・ハスロ本人だった。
気が付いたら、目が覚めていた。
「はあ、はあ……はぁ……っ」
荒い呼吸を整えながら、見回してみる。
いつも通り、教会の広い一室だった。子供たちの寝室である。
一応、ベッドは人数分揃っている。だが男の子も女の子も同じ部屋だ。子供とは言え男女は分けた方が良いのではないか、とヴィルは常日頃思っているが、小さな教会である。部屋が余っているわけでもないのは事実だった。
やけに明るい月の光が、窓から射し込んで来て子供たちの寝顔を照らしている。
満月だった。
ふと不安のようなものを感じて、ヴィルは己の口内を舐め回してみた。
牙などではない、人間の短い犬歯の感触が、舌先に当たって来た。
この歯が、いつまた牙になるかは、わからない。
「……ここまで、だな」
何も知らない子供たちの、無邪気そのものの寝顔を見回しながら、ヴィルは決意を固めた。
この夢を再び見るようになってしまった以上、あの声が再び聞こえるようになってしまった以上、もうここには居られない。
教会を出て行くなら、皆が寝静まっている今のうちがいいだろう。
そう思ってベッドを出ようとするヴィルであったが。
「ヴィル兄さま……どうしたの?」
女の子が何人か、起き出していた。いつの間にか、ヴィルのベッドを取り囲んでいる。
「眠れないの?」
「……何でもない。さっさと寝ろよ」
ヴィルが言っても、少女たちはベッドに戻らなかった。
「こわい夢でも見たの? ……かわいそうな、ヴィル兄さま」
「あたしが、すてきな夢……見させてあげる」
そんな事を言いながら、ヴィルのベッドに上がって来る。身を寄せて来る。
「ヴィル兄さまとは、あたしが遊ぶの……」
「ふふん、あんたは遊びで終わりよねえ……あたしは、ヴィル兄さまと結婚するの……」
「ヴィル兄さまは、あたしのもの……あたしは、ヴィル兄さまのもの……」
少女たちの柔らかさが、匂いが、温かさが、鼓動が、ヴィルを取り囲んだ。
瑞々しい血の流れようが、あらゆる方向から伝わって来る。
ヴィルの口内で舌先が獰猛にうねり、犬歯に触れた。
長く鋭い、獣の牙の感触だった。
「……どけ!」
自分の内から語りかけてくる声を掻き消すように叫びながら、ヴィルは少女たちを押しのけ、ベッドを飛び出した。
ずかずかと足早に寝室を出ようとする、その足が止まった。
「……子供たちの思いを受け止めてあげなければ駄目よ、ヴィルヘルム・ハスロ」
シスターが、そこに立っていた。
その目が何やらおかしな輝きを発しているように見えるのは、恐らく月光を反射しているのだろう、とヴィルは思った。
「……貴方、飢えているのでしょう?」
「何を言ってる……どけよ、シスター……」
違う。ヴィルは、そう感じた。
月光の反射などではない。シスターの両眼が、得体の知れぬ光を発している。
ヴィルは、振り返った。
「待って……ヴィル兄さまぁ……」
「兄さま、照れてる……可愛い……」
「あたしを、あげる……全部あげる……あたしの血も、あたしの命も、ヴィル兄さまのもの……」
女の子たちの目も、同じ輝きを発していた。シスターの眼光を、注ぎ込まれている。
そして、操られている。
「シスター……ッッ!」
「この子たちは、貴方の糧……貴方の飢えを満たすためだけに、私が集めたのよ」
シスターが微笑んでいる。優しい、ぞっとするほど優しい微笑み。
「飢えているのでしょう? もう我慢する事はないのよ、ヴィル」
「何だ……腹減ってんのかよ、ヴィル兄貴……」
男の子たちも、起き出していた。
「早く言ってくれよ、まったく無理ばっかしてさあ……自分のパン、いっつも俺たちに分けてくれて……」
「ヴィル兄ちゃん、ぼくのパンあげるよ……あれ、パンがない……」
「じゃあ、僕たちの血をあげるよ……いのちを、あげるよ……」
皆、シスターと同じ目の輝きを、月光の中で煌めかせている。
子供たちが、ヴィルを取り囲んだ。
いくつもの健やかな鼓動が、温かい血の流れようが、あらゆる方向から伝わって来る。
「やめろ……!」
ヴィルは後退りをした。が、背後にはシスターが立っている。
「やめろ……やめさせろ、シスター……!」
「観念なさいヴィルヘルム・ハスロ。みんな、貴方が大好きなのよ」
シスターが、本当に嬉しそうに言った。
「その気持ちを、受け入れてあげなさい。皆の血を、啜りなさい。皆の命を、食らい尽くしなさい……そうすれば貴方は、私と同じになる。神に見放され、死ぬ事も出来ない怪物に……あの御方の、真の後継者に」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに、シスターは涙を流していた。
「私の子供たちが、みんな私を追い越して行ってしまう……その子供たちも、そのまた子供たちも……だけどヴィル、あの御方に一番よく似た貴方だけは、ずっと私の傍にいるの。あの御方の後継者として君臨する、貴方の傍に……私が、ずっと居てあげるの……」
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