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sinfonia.33 ■ 動き出す牙
「……私、は……。私は……」
放心気味に呟いたエヴァが、瞳孔を開いた瞳を揺らしながら呟いた。頬を涙が伝い、動揺しているのか小刻みに肩が揺れている。
――元の生活に、戦わずに生きていけるような世界に、自分は行くことが許されるのだろうか。
脳裏を過ぎった小さな疑問。今までに感じたこともないその疑問が、エヴァの心を強く揺さぶる。
生きる為に必死に戦い続けてきた。それ以外、自分が生きる方法が解らなかった。
エヴァ・ペルマネントという一人の少女は、自分の人生において、勇太が突き付けた『普通の生活』というものを望んだことはない。それに羨んだこともなかった。
――あまりにも自分という存在が、そういった世界とは遠く離れた出来事に思えていたのだ。
一番古い記憶は、焼き焦げたコンクリートと硝煙の匂い。
赤黒く変色した、ペンキをぶちまけたように染められた瓦礫の残骸。
そして啜り泣く声や、恨み辛みを口にする周囲の怨嗟の声。
紛争地域で、不幸にも身寄りもなく生き残ってしまった少女。それがエヴァ・ペルマネントの原初の記憶だ。
戦いの中に身を投じた者達は、泣き喚く子供を殺す。そうしなければ敵勢力に自分達の位置を知られてしまい、自分達も危険に晒されるからだ。
幼いながらにその無情な現実を知ったエヴァは、賢く対処してみせた。幸いにも恐怖が気道を絞り込むように縮まり、声が上がらなかった。そのおかげで、泣き喚く同世代の少年少女が死んでいく姿を見ながら、それでもエヴァは生き残ることが出来た。
彼女にとって、戦いとは即ち生きることだったのだ。
やがて紛争が終わり、ただの孤児になってからは食い物の為に。
ドイツ軍に入った時は生きる為に。
そうして他者の血を流してでも、ただただ生きたいという傲慢とも言える願いだけが、エヴァという少女を支えてきた。
それが今、ここで一つの分岐点を迎えたのだ。
自分を殴りつけた少年――勇太は手を差し伸べている。
もしもその手を取れば、新たな一歩を踏み出せる。
望んでなんていなかった戦いの世界から足を洗い、新たな一歩を踏み出せる。
そう思うだけで視界が歪み、力無く震えた手が伸ばされた。
「――フ、フフフ……」
――伸ばそうとした手が止まり、ぞわりとその場にいた誰もの背中を冷たい悪寒が走り抜けた。
エヴァはその声に瞠目して手を止め、勇太や凛、そして武彦や百合は周囲を見回した。
確かに相手にしていた能力者達は片付いている。それらがあげた声ではない。
勇太はその声を知っている。
かつて耳にした、あの時の声だ。
「……巫浄 霧絵……ッ!」
勇太が絞りだすように告げた言葉に、そして勇太の向けた視線の先に。
真っ黒な闇が浮かび上がり、その中から姿を現した一人の女。
これまで勇太の運命を翻弄し、百合の身体を玩具にようにいじくり、目の前のエヴァの運命を捻じ曲げてきた張本人。
虚無の境界の盟主――巫浄霧絵が、ついに堂々と姿を現した。
「……天然の人誑し、とでも言うべきかしら。本当に似ていないわね。あなたの父親と」
姿を現した霧絵が、勇太に向かって告げた。
「……父、親……?」
「そうよ、工藤勇太。あなたの父親は孤高な一匹狼といったところかしら。でもあなたは、どちらかと言えば群を作る習性があるみたいね。百合の次はエヴァまで誑し込もうなんて、ね」
瞠目して尋ねる勇太に向かって、涼しげな笑顔を浮かべた霧絵は告げる。
――どうしてこの仇敵から、自分の父親という存在の話が出て来るというのか。
霧絵から突き付けられた言葉は、まさしく頭を金槌で殴るかのように勇太の頭の中をかき乱し、混乱させていた。
そんな勇太の様子に気付いたのか、凛と武彦が霧絵と向かい合う形で勇太の前へと躍り出た。
「あら、生きていたのね、ディテクター」
「生憎、俺の生命力は並じゃないらしい。風穴空けられたお礼もしてねぇからな」
「巫浄霧絵……! 私はあなたを許しませんっ!」
紫煙を巻き上げながら銃口を向けた武彦と、手に呪符を構えた凛が霧絵に向かって言葉を投げかける。
数的不利は明らかであろうこのタイミングで、どうして盟主たる霧絵が出て来たのか。誰もの脳裏にそんな疑問が思い浮かぶが、仇敵を前にして手をこまねいて狙いを読んでいる余裕はない。
気持ちとしてはすぐにでも攻撃を仕掛けたいところではあるが、それでも嘲笑を浮かべて対峙した武彦らを見つめた霧絵の不気味さが、武彦と凛の足を踏み出させない。
何かが必ず仕掛けられる。
そんな予感が胸中を支配し、身体を縫いつけているのだ。
そのせいで身動きが取れない武彦と凛。瞠目する勇太とエヴァ。
そんな中、百合が動いた。
咄嗟に攻撃を仕掛けた百合の一撃が死角となっている霧絵の斜め上上空から霧絵の首に目掛けて三寸釘さながらの鉄針を飛来させていたのだ。
――いける。
そう判断した百合であったが、次の瞬間。
霧絵の身体から吹き出ていた黒い影が、さながら骸骨のような身体を形成しながら百合の攻撃を掴み取ってみせた。
「な……ッ!」
「殺しに来るのは正解だったけど、残念ね、百合。その程度の攻撃じゃ私の身体には届かないわ」
「……ッ、さすがね……」
「勘違いしないで欲しいの。私が今日ここに来たのは、『虚無の巫女』を迎えに来ただけ」
「……『虚無の巫女』……?」
訝しむ武彦の横に立っていた凛に向かって、霧絵が指差した。
「『虚無』を降ろすには、媒介となる身体が必要なの。その素養たり得る存在がどうしても必要だった。そんな中、一番それに合っていた適合者。それがアナタよ、護凰の巫女」
霧絵の言葉とほぼ同時に、それぞれの身体を影から伸びた闇の鞭が縛り付けた。
誰もが突然のその行動に歯噛みする中、武彦が確信する。
(……クソッタレッ! 〈虚無〉の覚醒の最終段階にまで着手してやがったのか……!)
かつて虚無について調べていた際に、武彦に協力していた一人の少女らしい見た目をした研究者が告げた言葉を思い出しながら、武彦は歯噛みした。
――――
『依代……?』
『そーだよ、武ちゃん。基本的に神道、陰陽道、仏道。それに西洋のキリスト教でも同じだと思うんだけどね、〈神降し〉を行うにはその器となる〈依代〉が必要になると思うんだよねぇ』
『ふぅん……? それがどうしたってんだ?』
『つまりだよ、武ちゃん。虚無の境界が〈依代〉となる人間――つまりは適合者を見つけて捕らえようとした時には、すでに虚無の境界による〈虚無〉の復活は最終段階に入っているってことだよ。もしこの状況になったら、不殺の精神を破ってでも盟主を殺して』
『もしそれが間に合わなかったら……?』
『全てを無に帰す、絶望と混沌の悪神、〈虚無〉が降臨するってこと』
――――
「――勇太! 凛を連れてどこへでも良いから飛べ! 凛が連れて行かれちまうぞ!」
武彦の怒声にハッと我に返った勇太が、テレポートを開始しようと試みる。
「残念ね。でもそうはさせないわ」
霧絵も勇太の能力を把握し、そう動くであろうことは予測していたのだろう。
闇を操り、かつて武彦の身体を貫こうとした円錐状の闇が回転しながら霧絵の目の前に具現化され、そして勇太に向けて放たれた。
両手すら縛られた状態で身動きが出来ない誰もの視線を受けながら、霧絵の放った円錐状の闇が勇太へと肉薄する。
せっかくの神気も、縛られているせいで自由には使えない。
ギュッと目を瞑った勇太であったが、いつまで待ってみても自分の身体には何の変化も生まれようとはしなかった。
その代わりに、自分の前に飛び出した何かによって生まれた影に、勇太がそっと瞼を押し上げようとしているその最中に、霧絵が口を開いた。
「……どういうつもりかしら」
「簡単なことだ。俺も柴村と同じく、この少年に誑かされた一人だった、というだけのこと」
唸るような野太い声。
勇太はゆっくりと押し上げた瞼の向こう側に立ち、飛び込んできた円錐状のそれを力技で殴り飛ばしたらしい男の背が映り込んだ。
「……ファン、グ……?」
思わず勇太が声を漏らす。
目の前に現れ勇太を庇ったのは、かつて勇太が戦った相手、ファングであった。
「きゃ……ッ!」
「――ッ! 凛!」
九死に一生を得たばかりであったが、再び霧絵が動き、凛を足下の影の中へと引きずり込んでいく。
慌ててテレポートをしようとした勇太であったが、身体に巻き付いている影が勇太の力を邪魔しているらしく、動けない。
「クソ、動け、動けよッ! 凛!」
「勇太……!」
勇太と視線を交錯させていた凛が、ついに闇の中に呑み込まれて姿を消した。
「……そ、んな……ッ! 巫浄霧絵えぇッ! 凛をどこにやったッ!」
勇太の叫ぶ声を耳にしながらも、霧絵は笑みを崩そうとはしなかった。
「教えても仕方がないでしょう? だって、ここで死ぬんだもの」
「させん」
「あなた程度に何が出来るのかしら、ファング」
あれだけの実力を持ったファングに向かって、明らかに下に見た発言をしてみせた霧絵であったが、ファングはそんな挑発を鼻を鳴らして吹き飛ばした。
「……エヴァ・ペルマネント」
唖然としたまま状況を見つめていたエヴァが、ファングの言葉にピクリと肩を揺らした。
「……俺はそちら側には戻れないが、まだお前ならば戻れる。こいつらを縛っている悪霊の力はお前なら無効化出来るはずだ」
「……ッ」
「エヴァを使おうってつもりなのかしら。だったら、そうはさせない――ッ!」
「――世話になったことには礼を言うが、盟主。俺は生憎、この腐りきった世界を生きていくにはじゅうぶんな理由と希望を見つけたのでな。このボロボロの身体でも、エヴァがこいつらを助けるまでの時間ぐらい十分に稼げる!」
霧絵の言葉を遮り、ファングが霧絵へと肉薄する。
その光景を見て、先程から瞠目し続けていたエヴァが目を大きくむいて口を開く。
「わ、たし、は……ッ! ど、うすれば……ッ!」
「エヴァ・ペルマネントッ!」
霧絵へと向かって動きながらも、ファングが叫んだ。
「儀式の場所はあそこだ! お前は今からでも違えた道を取り戻せ!」
霧絵が次々に飛来させる闇の槍。
その雨を抜けながら、ファングが叫んでいた。
To be continued...
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