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<東京怪談ノベル(シングル)>


始まりのための邂逅


 『裸足の王女』という美術品がある。世界各地を転々としていた謎の多い作品だ。
 IO2エージェントの萌は以前、この作品が船首像として飾られた船を警護したことがあった。
 埠頭に停泊する大きな帆船。
 見上げた先にあったその石像に、萌は心を奪われた。
 長い間、海水や雨風に晒され続けた像は汚れ放題で悪臭も放っていたのだが、萌はなぜかその像から目が離せなかった。
 悲壮感漂う表情。その瞳から今にも涙が零れ落ちそうだと感じた瞬間、彼女は船の先に飛び移り像の傍へと移動していた。
 苔生した像は見た目からは決して美しいとは言えるものではない。だがその像が放つ甘い香りが萌の鼻孔をくすぐり、ふらりと体が動く。
 触れたい。触れてみたい。
 そう思わせる甘美な香りに、彼女は思わず唇を寄せそうになった。
 直後、我に返った萌は「た、ただの石像にキスだなんて変態じみたことを!」と自身を律したが、それが後悔に変わるのにはさほど時間がかからなかった。

「…………」
 『BunnySociety』を壊滅させた後、自室で体を休めていた萌は、ベッドの上でごろりと寝返りを打った。
 眠ろうと思っていても眠れずに、数時間前に見た光景を思い出して表情を歪める。
 任務遂行のためとはいえ、一人の女性をあの場に残してきてしまった。地下に監禁されていて、助命を請っていた。
 美しい金の髪と赤い瞳、紫に塗られた艶のある唇が印象的な女性だった。
 萌の脳内をどんどん支配していく彼女の顔。
 忘れようと思っても思考を切り替えることが出来ない。
「……ダメ、やっぱり気になる」
 萌はそう言って、勢い良く体を起こした。
 そしていつものパワードプロテクターを纏い、背にブレードを装着して部屋を後にする。
 向かう先は自らが壊滅させた高級クラブ跡。
 最後まで気にかけたあの場所だった。

 現場はKEEP OUTと書かれた黄色いテープが張り巡らされていた。
 警官が入り口を警備していたので萌は手帳を出して自身の証明をする。
「IO2の茂枝です。未回収の品があったので作業を行います」
 彼女がそう言うと、警官は敬礼をした後あっさりと通してくれた。
 萌はテープをくぐり抜けて、先へと進む。
 崩れ落ちた建物の地下、ぽたりと滴り落ちる滴を目の端で捉えつつ、眉根を寄せた。頬に感じる冷たいものは監禁部屋から流れてくる。

 ――お願い、もう一度チャンスを……!

 彼女の悲痛な声が脳内で蘇る。
 バニーガールとして働いてはいたが、萌から見るに違和感があった。
 剣を交えたあの時から、強い印象を植え付けられた彼女――イアルにはデジャヴもあった。
 そう、私は彼女を何処かで見ている――。
 心で何度か呟いた。確信もないのに、何故だろうと思っていた。
「……あなた、あの時の……」
 萌が足を踏み入れた先は、氷の空間だった。
 部屋そのものが氷漬けになっており、その中心にあのバニーガールがいた。
 苦しそうな表情のまま、氷塊の中に閉じ込められている。
 それにそっと手を添えて、萌は静かにそう言った。
 自分の記憶の中で存在し続けるいつかの石像。胸がくすぐられる気持ち。切ない感情。
 『裸足の王女』とされる石像を警護した時に抱いた気持ちが沸き上がってくる。
 氷の向こうにいる彼女こそ、裸足の王女だったのだと確信した。
「ちゃんとした声が聞きたい……。だから、あなたを助けるわ」
 萌はそう言いながら、ブレードの柄に手をかけた。
 大きな氷塊を相手にするには難解かとも思えたが、萌のブレードは鉄をも切り裂く強靭なものだ。
 彼女は一歩を引いたあと、その場で地を蹴りひらりと宙を舞った。
 そして腕を振り上げて、目の前の氷塊を叩き割る。
 キン、という張り詰めたものが割れるような音がした後、氷は縦に割れた。
 そこからイアルの体が傾いて萌へと倒れこんできたが、彼女はまだ凍ったままだった。
「魔女の力……? これじゃ、わたしは溶かすことが出来ない」
 イアルを抱きとめて、その体からじわりと感じる力に萌は眉根を寄せた。
 ここを根城にしていた魔女の能力がまだ活きているらしく、イアルはそれにより氷化から溶けないようだ。
「待っていて、絶対助けてあげるから」
 それでも萌は諦めなかった。イアルをしっかりと抱きかかえつつそう言って、監禁部屋を抜け出す。
 彼女にはまだ希望があった。任務の報酬をまだ得ていない。IO2には様々な能力を持った人物がいる。氷の魔法を解いてもらう事だって可能なはずだ。
 イアルを抱いたままで萌は地面を蹴る。
 月の出た夜空にその体は綺麗に浮いて、そして月光に溶けるようにして影は消えた。


「……はっ」
 びくり、と体が震えた。
 随分と長い夢を見ていたような気がする。暗く悲しく冷たい悪夢。
 蛍光灯の明かりに眩しさを覚えたイアルは、右手の甲で影を作りつつ視線を動かした。
「良かった、気がついたのね」
 知らない声が傍から聞こえた。
 直後に温かい、と感じて胸元に目をやる。
 すると彼女の素肌を包むようにして抱きしめてくれていた存在があった。
 萌であった。
「こ、ここは……あなたは……?」
「わたしは茂枝萌。あなたは悪い魔女に捕まって、凍らされていたんだよ」
 萌がゆっくりとイアルの体から離れて、起き上がる。
 するとイアルも釣られるようにして起き上がり、記憶を巡らせた。辻占いの水晶球を覗きこんだところまでは明確な覚えがある。だがその後の映像が曖昧だ。
「無理に思い出すことはないよ。今はしっかり体を休ませた方がいいから」
「あ、ありがとう……」
 いまいち状況が把握できないが、萌という目の前にいる少女が自分を助けてくれたことには変わりない。
 そんな彼女に甘える形で、イアルは再びその場に寝転がった。
 すると萌がそっと上掛けを肩まで掛けてくれる。
「……名前を聞いてもいい?」
「イアル……イアル・ミラールよ」
 名を訊いてきた萌は、少しもじもじとしているような感じがした。
 イアルは僅かに首を傾げつつ自分の名前を告げる。
 すると目の前の少女は嬉しそうに微笑んだ。
 可愛らしい笑顔だった。
「わたし、あなたのことをもっと知りたいの」
「……わたしもよ、萌。あなたが悪い夢からわたしを連れ戻してくれた……そうであるのなら、その話を聞かせて」
 傍に添えられていた萌の手に、イアルの手が重なる。
 きゅ、と握り込めば萌もきちんとそれを握り返して、また笑った。
 出会いは少し前。その頃には互いの存在も名前すらも知らなかった。
 ようやく同じスタートラインに立てた二人は、そこから同じ時間を作るための話を、ゆっくりと始めるのだった。