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<東京怪談ノベル(シングル)>


滅びの世界にて


 頭上に浮かぶ赤い帯と青い帯が、いくらかは長くなっているようである。
「最大HPとMPが、上がってる……レベルアップしてる、って事ですよねえ」
 寒さに身を震わせながら、松本太一は呟いた。
 一面、雪景色である。
 崩れかけたビルも、ひび割れたアスファルトも、布団のような雪に覆われている。
 崩壊した文明の痕跡を、白く塗り潰してしまうかのような冬であった。
 崩壊する前の東京であれば、これだけ雪が降れば大混乱である。
 今は、混乱など起きようがない。人が、いないのだから。
 誰もいない真冬の廃墟に、太一は1人、佇んでいる。
 雪原に、紫色の花が1輪だけ咲いたかのようだった。
 ほっそりと引き締まりながらも豊麗な膨らみを保った肢体は、紫を基調とした薄く短いドレスに包まれ、むっちりと形良く露出した左右の太股が、いかにも寒そうである。
 長く艶やかな黒髪は寒風に舞い乱れ、可憐な美貌は、寒さよりも不安に苛まれて、翳りを帯びている。
『漫然と戦っていれば、適当に実力がレベルアップしてゆく……便利な世界よね』
 佇んでいるのは、松本太一1人。だが、頭の中にもう1人いる。太一にしか聞こえない声を発する女性が。
『魔力を上げるというのは、本当はこんなに単純なものではないのよ? まあ経験値という概念を否定するつもりはないけれど』
「……貴女にも、レベル1の時代があったんですか?」
『遠い……遠い遠い昔に、ね』
 人類が、まだ猿ですらなかった頃の話なのだろう、と太一は思った。
 悪魔。太一に理解出来るのは、それだけである。
 実年齢も、その力も、人間の尺度では到底測り得ない存在。
 そんなものが、ある日突然、平凡なサラリーマン・松本太一の中に住み着いた。
 結果、太一は男でありながら魔女になった。人間と女悪魔の融合体である『夜宵の魔女』に。
 世界を滅ぼす存在。
 あの高峰沙耶という女性は、太一の事をそう言っていた。ここは太一によって滅ぼされた後の世界である、とも。
 そんな世界を彷徨いながら、1つ気付いた事がある。
 高峰女史の言う『世界を滅ぼす力を持った者』は、実はそれほど珍しい存在ではないという事だ。
 この滅びた世界で、太一は何人かの仲間に出会った。
 例外なく皆『夜宵の魔女』に勝るとも劣らぬ力を持った戦闘者であった。
 そんな心強い仲間たちと共に、太一は、冒険と呼べるような事を幾度か経験した。
 このような世界でも、実は生き残っている人々が僅かながらいて、ひっそりと身を寄せ合うように生きている。
 そんな人々を守るため、太一は仲間たちと共に、滅びの世界を徘徊する怪物どもと戦い続けた。
 この女悪魔に言わせれば「漫然とした戦い」という事になってしまうのだが。
 その戦いが一段落した後、仲間たちはそれぞれの目的を見つけ、去って行った。
 この世界を旅していれば、いずれ再会する事もあるだろう。生きていれば、の話だが。
 豊かな胸を抱え隠すように、己の身体を細腕で抱きながら、太一はそわそわと周囲を見た。
 視線を感じてしまう、のは自意識過剰というものだろうか。
 積雪で潰れそうなビルの陰から、あるいは雪の中から、誰かが自分を見ているような気になってしまう。
『それが乙女心……恥じらい、というものよ』
 女悪魔が、楽しげに言った。
『女の子としては至極、健全な感情ね』
「女の子……なんですよね、今の私」
 太一は苦笑した。
 サラリーマンであった頃は、飲み会などで悪酔いをして、裸踊りなど披露した事もある。
 恥じらいなど欠片もなかった、あの頃に、自分は果たして戻れるのだろうか。
『良かったじゃない? 女の子の身体で』
 女悪魔が、くすくすと笑っている。
『さすがの私も、48歳の男にその服を着せるほど……悪魔じゃないわよ?』
 彼女ならば、いつか本当にやりかねない、と太一は思わなくもなかった。
『もちろん貴方の本質が男であるという事、私は忘れてはいないわ』
「本当にそうなら、いいんですけど……」
『心は男、なのに身体は女の子……ギャップ萌え、というものかしら? その恥じらいも何もかもが萌えポイントよ、私の力の源なのよ!』
「落ち着いて下さい! まったく、悪魔が萌えとか言っちゃって……人間社会の良くない影響ばっかり受けて」
 呆れつつ、太一はもう1度、見回した。
 気のせい、ではない。何かが本当に、自分を見ている。狙っている。
 雪が、大量に砕け散った。
 先程からずっと雪の下を蠢き這いずっていたものが、姿を現していた。
 列車のような、巨大な百足。
 その全身を覆っているのは、しかし甲殻ではなく白い獣毛だ。
 そんな怪物が、複眼を凶悪にぎらつかせて大顎を開き、太一を襲う。
「情報改変……事象を、初期化する」
 たおやかに繊手を掲げながら、太一は呟いた。
 雪の百足が、硬直した。
 列車のような巨体が、大顎を開いたまま固まり、そして光に変わった。
 光で書かれた文字や記号が無数、集まり固まり、巨大な百足の形を成している。
 そんな状態を経た後、それら光の文字記号は、目まぐるしく書き換えられながら消滅していった。
 雪百足は消えた、と言うより最初からいなかった。
 列車の如く巨大な怪物が出現した、という事象の情報が書き換えられ、最初から何もなかった事になってしまったのだ。
『いくら可愛らしく恥じらっても……貴女を見ているのは、あんな怪物ばかりという事かしらねえ』
 女悪魔が、苦笑している。
 太一は、苦笑する気にもなれなかった。
 あらゆる物事を、最初から無かった事にしてしまう、この力。
 高峰沙耶が「世界を滅ぼせる力」などと言って警戒するのも、道理である。
 自分は元の世界に戻ってはならない、のではないだろうか。
 にゃー……と、猫が鳴いた。
「……それは、貴女たち次第よ」
 高峰沙耶が、いつの間にかそこに佇んでいた。
「この世界で力の制御を学び、元の世界へ戻るか……あるいは、すでに滅びてしまったこの世界で、気兼ねなく制御する事なく思うままに力を振るい続けるか。貴女たちは最終的に、どちらを選ぶのかしらね」
「……あの人たちは、どちらかを選んだんですか?」
 この世界で共に戦った仲間たちの事を、太一は訊いた。
「ここは、私たちが滅ぼしてしまった世界……貴女は、そう言ってましたね。同じ事を、あの人たちにも?」
「言ったわ。貴方たちは元いた世界を滅ぼしてしまいかねない、だからこの世界で生きなさい……とも」
 語り続ける沙耶の足元で、黒猫がもう1度ニャーと鳴いた。
「皆、悩んでいるわ。力を振るえば壊れてしまうものが多過ぎる元の世界へ、戻る道を探すべきか……それとも思う存分に力を振るえる滅びの世界で、自由気ままに生きる道を選ぶのか」
 雪混じりの寒風が一瞬、吹きすさんだ。
「見ての通り、ここはゲームの中の世界。いくら殺戮を行っても、咎める者は誰もいないわ」
 沙耶の、声が聞こえる。姿は、いつの間にか消えていた。
 その代わりのように、姿を現している者たちがいる。
「力を振るう対象物は、尽きる事なく無限に現れる……巻き添えで壊れてしまうものが多過ぎる世界へと戻るより、ここで何に遠慮する事もなく戦い続ける。それも、1つの選択だと思うわ」
『1つ言っておくわね……他人に選択肢を提示されるのが私、大嫌いなの』
 女悪魔が言った。
『高峰さん、だったわね。私、貴女がどうも気に入らないから……貴女が口にしなかった3つ目の選択肢を、選ばせてもらうわ』
 高峰沙耶は、すでにいない。
 今『夜宵の魔女』を取り囲んでいるのは、何匹もの雪百足、だけではない様々な怪物の群れである。
『このふざけた世界を、滅ぼす……こんな廃墟だって残しはしない、全て消滅させる。貴女も、それでいいわね?』
「いいかどうかは、この場を切り抜けてから考えましょう」
 迫り来る怪物たちに向かって、太一は片手を掲げた。
 目の前に、敵がいる。
 少し派手に戦って鬱憤を晴らせば、女悪魔も、この世界を滅ぼすなどと思わなくなるかも知れない。
 凶悪な牙の列を、閃くカギ爪や大顎を、毒々しく蠢く触手の群れを。
 黒い瞳でじっと見据えながら、太一は言葉を発した。
「事象改変……情報、入力」