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■徒花の吐息
今日初めての来訪者は、どことなく儚げな印象のある黒髪の美女。
彼女は周囲を見渡すことなく、まっすぐカウンターへ向かってくるとスツールに手をかけ、どっかりとやや乱暴に座った。
「何にしましょう」
「適当でいいわ。あ、酒の気分じゃねぇからソフトドリンクで頼まぁ」
……女性はかなり砕けた口調でそう答えると、悩みがあるのか重いため息をついた。
艶やかな唇から洩れた吐息が、顔の前に垂れた髪を大きく揺らす。
バーテンである男性がそんな彼女へ一度、視線を走らせ顔色を伺ったが……この店が『どんな客を受け入れるのか』が分かっていない様子だ。
時折、そんな客も迷い込んでは来るのだが……詮索は無粋である。
何事も無かったかのようにコースターとグラスを女性の前へと置いた。
「ピンクグレープフルーツのジュースです。疲労回復と美容に良いですよ」
「疲労回復、か……」
ふっと笑った女性は、グラスに添えられた赤みの強い果肉を見つめる。
「――あのさ。ちょっと俺の愚痴を聞いてくんねぇかなぁ。それが多分一番、疲労回復になるんだわ」
彼女の女性らしからぬ言葉に、バーテンの顔が僅かに曇った。
「愚痴……ですか。構いませんけれど……」
「あー、このナリと口調じゃ、ひでぇ女と思うか。そうだよな……まぁ理由は話せば長いんだ」
女性は自身をクレアクレイン・クレメンタインでもあるし、鶴橋亀造でもあると、簡潔に述べた。
「こうして、なかなかイカした女の体に入ってるが、俺は生まれも育ちも男だったんだよ」
断じて漢の娘とかの類じゃねぇし、百合の花咲かす女でもない、と熱弁を振るう。
「ま、理解しろっていっても難しいだろうが――」
「そんなことありません。ここには、何らかの事情を抱えた方がいらっしゃいます」
何らかの事情が解決しても常連客は来るんですけどね、とバーテンは何事も無く言い、グラス拭きを続けている。
変わった奴らが来るんだなと、正直な感想を述べてからクレアクレインはジュースを口に運ぶ。
爽やかさと程よい苦みを喉の奥に流し込み、一息ついてから、クレアクレインが語り始めた。
「実は愚痴ってのは……まぁ人使いの荒い自分の嫁の事なんだ。良くある話かもしれねぇが」
何で女は頼み事一つにしても喧嘩腰かね、といいながら否定するように頭を振るクレアクレイン。
バーテンも『それ分かります』と同意してきた。
「お、兄ちゃんも分かるか!」
「そりゃそうです。ウチの店も似たようなモンで。怖いオーナーがいます」
ふ、と遠い目をするバーテンの顔に、同士を見て取ったクレアクレインは、ぱあっと表情を輝かせた。
「だよなぁ! ったく……でウチのは『どこそこの掃除が出来てない!』だの、チマチマした箇所のゴミまで見つけてよ、『何故それに気づかないの?』の挙句に『気が利かない』とよ。毎日こんな調子なんだぜ!」
喋っているうちに熱が入ってきた彼女……いや、彼の形よく整えられた眉は、だんだん吊り上がってきている。
「つまり、奥さんの尻に敷かれてるんですね」
「アイツが我侭抜かすんだよ!」
こちとらつまんねぇことで言い争いしたくねえだろとクレアクレインが強く否定する。
「……うちの家は共働きで家事分担なんだ。で、残業上がりでヘトヘトになって帰ってきた俺が、家事をこなす」
「偉いですね」
「約束だからな。ほら、普通はそうやって何かしら労うだろ。それなのにアイツときたら『序にコレもやるのが常識でしょ! 一々言わなきゃダメ?』とか……こんな調子だ。有難うの一言も無しだぜ!!」
見返りを求めているわけではないんだと言うクレアクレイン。
気持ちはよく分かるとバーテンも同意する。
「その感謝の一言が欲しいんですよね」
「そうだよ! そこなんだよ! そんなこと言われちゃガッカリもするだろ。で、疲れて先に寝ようとすりゃ『私の話し相手もせずに寝るのか?』と怒るわけ」
感情も高ぶっているせいで、クレアクレインの表情は喜怒哀楽により、目まぐるしく変わる。
とても美しい女性の外見なのに、仕草や話し方も相まって、彼の本質である亀造の姿が透けて見えるようだった。
彼女に差し出したグレープフルーツジュースが、酎ハイにさえ見えてくる。
ジュースをあおるクレアクレインは、話の続きだが、と言って再び嫁との会話を語る。
「俺が疲れたといえば『じゃ一人になれば? 気楽だよ』……こんな調子だ。どうしろってんだよ」
疲れることは仕事だけではない。彼女もゆっくりしたい日だってある。
真剣な顔をし、自身の身体――いや、クレアクレインのものだが――に手を添えてから、亀造である彼はしみじみと告げた。
「俺は、こうして女の体になってからというもの……体力に比例して、収入もガタ落ちで嫁に負けてる。仕事で疲れてるって言えば『私は貴方の倍稼いでしんどい家事もきちんとこなしている』って言われりゃ身も蓋もねぇ……」
はぁー……と長く重いため息をついたクレアクレイン。
華奢で小さい身体が、ますます小さく見える。
「なんというか……色々お察しいたします……」
幸薄そうな女としか傍目には見えないクレアクレインに、バーテンは言葉をかける。
「兄ちゃんはまだ若そうだもんなぁ……。いいねぇ」
「お客様も十分若いですけど」
見た目だけだと言いながら、クレアクレインはジュースを飲み、しみじみと呟いた。
「しかし、男は暮らしていくのも仕事するにも責任ばっかり。辛いねぇ……」
重いため息が場にとどまった後。
「あら、女も辛い事はたくさんあるのよ」
クレアクレインとは違う女の声がした。
なんと、いつの間にか……黒いドレスの女が、クレアクレインの横に座って微笑んでいる。
「寧々さん……」
「絢斗君も熱心に聞いていたから、怖いオーナーは出にくくなってしまったのよ」
寧々という女性はそう言って目を細めるが、絢斗と呼ばれたバーテンはばつが悪そうに目を閉じる。
「いろいろ社会に出たら大変よ。優れた素質を持っていても、それだけでは認めてもらえないし……何より、仕事も家庭も、そして女であるという事も……やっていかなければいけないものね」
絢斗やクレアクレインも、寧々の言う事はなんとなく理解できたのだが……深い言葉の本質までは呑み込めないようだ。
「お嫁さんに強く当たられてしまうのも……あなたにとっては時折煩わしく感じることもあるのでしょうね。でも、お嫁さんがあなたを信頼して、甘えている部分を見せているからだと……知ってほしいわ」
「甘え……て?」
クレアクレインが呟くと、寧々はこくりと頷く。
「きっと、お嫁さんは外でそんな風に何から何まで強く言わないと思うの。あなたにだけ、自分を許してくれる相手だから見せている顔よ……きっと」
あなたにも、きっとお嫁さんにしか見せない顔があるわと言ってから、寧々は絢斗から桃色のカクテルを受け取り、口を付ける。
「……それが本当なら、うちの嫁にも可愛い所があんだねぇ」
そろそろ帰るよとクレアクレインは席を立ち、代金をカウンターへ置いた。
「愚痴、聞いてくれてありがと。なんか……ちょっと心が軽くなった気がするよ」
「すっきりしたなら嬉しいです。また、お会いできることを楽しみにしておりますよ」
絢斗はそう言って、クレアクレイン――であり、亀造でもある彼女に微笑みを返す。
その姿がバーを出るまでを見送ってから、絢斗は寧々に聞いてみた。
「あの人も大変そうですね」
「女性と男性の狭間で苦労されているみたいね。でも、大丈夫よ」
と言って、手元のカードを1枚めくる寧々。
そのカードは、皇帝のカード。
「じきに、良い知らせがあるわ」
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