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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


魔女狩りの狼


 千影にとって、夜の町は庭のようなものである。
 飾りの鈴の音を涼しげに鳴らして屋根から屋根へ、影から影へ。ここ数日は生憎の雨模様ではあったものの、買ったばかりの黒いレース縁取りの雨傘を差して歩き回れると思えば苦にはならない。
 彼女が「それ」と遭遇したのも、春の初めの、生ぬるいような雨が降る夜のことだった。
 緑の瞳は、月も星も無い夜でも、咲き初めの桜を捉える。桜に浮かれる辺りの浮遊霊をからかい、集会を始めた猫達に挨拶をして、彼女は足取り軽く公園を後にしたところだった。まだまだ明るい都会の夜の隅っこ、ブロック塀の向こう側から小さな悲鳴が聞こえたのだ。
 何だろう?
 好奇心の旺盛な彼女は耳を澄ませる。辺りの幽霊と妖精達が恐ろしげに身を竦めていた。さっきまで浮かれ騒いでいたというのに。
「ねぇ、どうしたの?」
 千影がひょいとブロック塀の縁に飛び乗る。
 彼女の視線の先では、黒い影が、一人の少女に襲い掛かっているところだった。暗がりであっても千影の眼にははっきりと、黒く蠢く、黒髪のようなものが見える。ぞわぞわと肌が粟立つような「嫌」な印象をそこから受けて、千影はむ、と眉根を寄せた。とはいえ、目の前で女の子が怪我をしているのは見捨ててもおけない。頭に乗っかった垂れ耳の兎に「行くよ静夜ちゃん」とだけ声をかけ、彼女はブロック塀からひらりと飛び降りた。
 音も無く着地し、少女を庇う位置に立つ。
「だ、誰…!? 危ないわよ、そこに今…」
「大丈夫だよ、チカ、強いんだから」
 雨傘を閉じて、千影は黒髪を睨む。その向こう側、塀の角で誰かが蹲っているのが見えた。
「だぁれ?」
 千影の呼び声に応えたのは、辺りの黒髪の方だった。千影を邪魔者と認識したのか、一斉に襲い掛かってくる。傘を片手に、もう片方の手には杖を構えた彼女だが、
「…? あれ?」
 彼女の眼前で、黒髪の動きが止まった。
 力を失い、空中に霧散していくそれらの向こう側。さっきまで蹲っていた人物が立ち上がって、千影を見ていた。パーカーのフードを深く降ろしているので顔はよく見えないが、さっきまでは赤く濁っていた瞳が、今は黒みがかった銀色に見える。
「あのね、チカはチカって言うの。あなたは、だぁれ?」
 さっきは見えなかった理性の色をそこに見て取り、改めて千影が問いかける。彼は口早に、まず怯えて竦んでいる少女にちらりとだけ視線をやって声をかけた――あまりまじまじと見つめるとまた襲い掛かってしまう、と言わんばかりの、どこか怯えた所作であった。
「そこの魔女、怪我してないか? 俺が正気失う前にさっさと逃げてくれよ。あと、ええと…チカ?」
「うん」
「お前のお陰で正気に戻れた。感謝する」
 それだけ言うと、パーカーの少年は地面を蹴った。千影も相当に身が軽い方なのだが、彼も身体能力は高いらしく、さして力を入れた訳でも無さそうなのに一跳躍で屋根の上に移動している。そのままこちらに背中を向けて去っていく少年に、千影はにっこり笑って手を振った。
「またね!」
「…また、はねぇと思うぞ」
 彼のそれは独白だったのだろうが、生憎と千影にとっては夜の町は庭なのだ。
 誰かの独り言なんて、いくらだって拾えるのである。



 魔女狩り、という物騒な名前を千影が耳にしたのは、それからたった2日後のことだった。また、夜の町のどこかで誰かが怪我をしたらしい。黒い髪のようなものに襲われたのだと、野良猫が教えてくれた。
「そうなの? ふぅん、この間の子かな」
 何だか――と千影は、思い出す。たった2日前の夜の出来事。
(何だか、苦しそうだったな、あの子)
 襲われる子達――ほとんどが女性だった――も心配ではあるのだけれど、それ以上に、千影のココロに引っかかってしまうのは、名も告げずに逃げるように去って行ったあの少年の姿だった。
(ちょっと探してみよっかな)
 話を聞いてみよう。何も無差別に誰かを傷付けるような人物とは思えなかったし、酷く苦しそうでもあった。千影は気紛れにそんなことを思いついて、夜の町で傘をくるりと回した。そういえば、もうそろそろ桜の蕾も綻ぶ頃なのに、ここのところ雨ばかりだ。
 おニューの傘を差して歩けるのは楽しいけれども、随分と夜空を見ていない。
(あ、そういえば)
 屋根から屋根へ、街路樹の上を、電柱の上を。足場を軽々と渡りながら、千影はもう一つ思い出した。
(あの子、晴れた夜空みたいな髪の色をしてた)
 たったそれだけで、よし絶対に会おう、と千影は心に決める。
 そうとなれば彼女の行動は早い。夜の町は、彼女の庭も同然だ。どこに誰が隠れようと、見つけるのなんて簡単なこと。
 町はずれの公園の辺りで見かけたよ、とこの辺りの顔役である黒猫に教えられ、行きついた先。気配はするんだけど、と千影がきょとりと左右を見渡していると。
「…! 危ない、避けて!」
「え?」
 女性の声だった。自分に向けられたものとは思わず首を傾げる千影の真横、弓矢のように鋭くすり抜けていくものがあった。夜の闇に紛れる黒い髪のように細いそれは、千影には目もくれず、真っ直ぐ声の主へと突き進んでいく。
「くっ…!」
 呪符を取り出した少女の前に、千影は軽い足取りで降り立った。彼女自身の影がぐるりと渦を巻き、彼女を襲う黒髪を拘束する。
「あ、あなた…」
「えとね、今のうちに逃げた方がいいと思うよ?」
 思いの外、影で留めたはずの黒髪の抵抗が強い。常が呑気で楽天家の彼女には珍しく少しだけ眉根を寄せて、千影は襲われていた少女に告げる。彼女は逡巡したようだが、自分がそこに居ても力になれないと判断したようで、千影に気を付けてね、と言い置いて駆け去って行った。
 それを見送るうちに、黒髪の抵抗が力を失って霧散していく。
「あの子、行っちゃったよ。だからもう、大丈夫!」
 黒髪の伸びる向こう側、夜の最中なのに奇妙に黒々とした影の少年が立っていた。それを認めて、千影は笑う。今日はフードを被っていないので、群青の髪がよく見えた。やっぱり、晴れた夜空みたいな色をしている。傘を差さずに濡れそぼっているせいか、少しだけ前に見たより青味が強いようにも見えた。
「また会ったね!」
 笑いかけると、眼前の少年は何だか酷く面倒そうに深々と嘆息した。
「チカ? 千影だっけ? まぁどっちでもいいけどさ…会うとは思わなかったよ、俺は。何だよお前。変な力使うのに、魔女じゃないのか」
「まじょ? チカはチカだよ。そうだ、この間訊いてなかったね。あなたはだぁれ?」
「ミヤ」
 ぶっきらぼうではあるが、彼は確かに彼女の問いに応じた。そしてようやく肩の力を抜いた様子で、顔を覆う。
「……またやっちまった…。さっきの子、怪我してたよな」
「ミヤちゃんは、」
 千影の呼びかけに、何やら少年――ミヤの視線が胡乱なものになったが、彼女は然して気には留めない。
「怪我、させたくないんだね。だから苦しそうだったんだ。何であんなことしてるの?」
「…俺、苦しそうに見えたか?」
「うん」
 千影が頷くと、彼は何故か驚いたように目を瞬いた。それから、ふ、と笑う。
「…『呪い』が発動してる俺にそんなこと言うの、ひぃちゃんくらいだと思ってたよ。変な奴だなぁ」
「ひぃちゃん? ミヤちゃんのお友達?」
「俺の姉貴分っつーか…旅の連れ、かな。名前はヒスイ、って言うんだ」
 ふぅん、と傘をくるりと回して千影は頷いた。それからあれ、と首を傾げる。
「あれ? じゃあ、今はどこに居るの?」
「さぁ。はぐれちまった。…多分、俺の事探してるんだと思うけど」
「そっかー、ミヤちゃん、迷子だったんだ。困ったね。あ、チカ、探してあげようか」
 そういうの得意なんだ、と胸を張って見せると、彼は苦笑いしていや、と首を横に振った。
「いいよ、この世界の連中にこれ以上迷惑かけんのも悪ィしさ。それに迂闊にひぃちゃんに近寄ったら――」
 そこまで言って、彼は言葉を濁した。千影は少し考え込み、ああ、と頷く。考えるのは得意ではないけれど、カンは鋭い方なのだ。
「怪我、させちゃうの?」
 彼女の言葉に、はぁ、と息を吐いて、ミヤは頷く。何か苦いものを噛むように、
「…怪我で済めばいいんだけど」
「……ミヤちゃんの周り、すごくすごく黒いものがくるくる回ってるの」
 千影の唐突なその言葉に、ミヤは目を上げて、怪訝そうに眉根を寄せた。何言ってんだ、と言わんばかりの表情だ。けれども千影は構わず、じっとミヤの眼を覗く。
 瞳は魂に繋がると言う。
 彼の瞳は、磨いた刃を連想させる、鋼の色をしていた。
「でもその真ん中のところは、綺麗な黒。…ねぇミヤちゃん、誰にそんなに強い想いをかけられたの。誰の想いを、背負い込んだの?」
 今度はミヤは何も、応えなかった。言葉を呑むように、呼吸すら呑み込んで、彼は彼女の問いかけに目を瞠り、それから強く拳を握る。
「いいんだよ、これは、俺の」
 強情さを感じさせる口調でそう告げかけて、矢張り途中で言葉を止めて。
 千影の真っ直ぐな視線から逃げるように彼は踵を返してしまった。一直線に屋根に飛び上がり、そのまま一気に姿を消してしまう。
 追いかけようと思えば、きっと簡単に追えた筈だ。夜は彼女の庭なのだから。
 けれども千影は、そうしなかった。遠ざかる背中を見送って、彼女は頭上に乗せた兎に声をかける。
「だってね静夜ちゃん、男の子が泣くときはそっとしておいた方がいいって、武彦ちゃんが言っていたの。…ミヤちゃん、何だか泣きそうだったもの」
 だから追いかけないの、と彼女は独白を零して、空を見上げる。
 雨脚は、強くなりそうな気配を見せていた。







 さて、その翌日のことである。千影は夜の方を好むが、昼に動いていない訳でも無い。昨夜少し強くなった雨が、煙るような霧雨に変わった昼下がり、彼女は散歩の途中でぴたりと足を止めた。大きく息を吸い込んで、それから緑の瞳を輝かせる。
 彼女が駆け込んだのは雑居ビルの一角。
 ――探偵事務所、の名前が掲げられたドアの中であった。
「武彦ちゃん!」
「おー、来たか千影」
 勢いよくドアを開ける少女に、七輪を前に団扇で風を送っていた人物が顔を上げる。この探偵事務所の主である草間だ。
 何分、それなりに付き合いがあるもので、彼は今更彼女の「ちゃん付け」には動じない。
「ししゃも頂戴っ」
「…。兄さん、突然『国産のししゃもを買って来い』って言いだすから何事かと思ったら、こういうことですか…」
 あきれ果てた様子で口を差し挟んだのは零である。にっこり笑って千影はエプロン姿の彼女にも愛想よく挨拶をした。
「零ちゃんも、ししゃも食べようよ」
「ええと、そうですね。折角買ったものだし、あとで頂きます。――兄さん、『アテがある』って彼女のことだったんですか」
 零に頭を撫でられ、千影は今にも咽喉を鳴らさんばかりの表情だ。それを見ながら、草間がまぁなー、と適当な様子で頷いた。
「ししゃもの代金で動いてくれるしこの上なく有能だろ。オマケに人を護りながらの戦闘が必要なら、コイツは適任だ」
「なぁに、武彦ちゃん。お手伝いが必要?」
「まぁ、な。お前さんの力を借りる羽目にならないのが一番ではあるが…守ってやって欲しい依頼人が居るんだ」
 早速七輪で炙ったししゃもをはふはふと齧りながら、話半分、という様子で千影は草間の言葉を聞いていたのだが、
「――ヒスイって子なんだけどな」
「え、ヒスイちゃん?」
 今にもししゃもを齧ろうとしていたところで、最近聞いた名前が飛び出してきたものだから、彼女は思わずそう反駁してしまっていた。
「何だ千影、知り合いなのか」
「ううん。あたしはヒスイちゃんのことは知らないの。ミヤちゃんから聞いたの」
「ミヤさんから!?」「ミヤから? お前、ミヤに遭ってたのか!」
 二人は酷く驚いた様子でそう問いかけて来たのだが、生憎とししゃもにかぶりついた千影はそれを味わうのに忙しかった。はふん、と一口を呑み込んで、満足げに息をつく。
 二口目を食べようとしたら、草間からそれを取り上げられてしまった。
「あ、何するのよー、武彦ちゃん!」
「いいから答えろって、そしたら返すから。…ミヤに会ったのか。どこで?」
「あっちの方だよ。公園で、ちょこっとお話したの。…泣きそうな顔してたし、チカ、悪いこと訊いちゃったかなぁ」
「……そうだな、お前に具体的な解答を期待した俺が間違ってた」
 窓の向う側を指差して答える千影に、脱力した様子で草間はソファにどかりと座り込む。ついでにししゃもは返してくれたので、改めて千影はししゃもにかぶりついた。
「ヒスイが、ミヤを探してるんだ。今ちょっと出かけてるんだが、もしお前が知ってるなら、彼女にミヤの居場所を教えてやってくれないか」
 もぐもぐとししゃもを噛み締める千影は、草間の言葉を訊いて頷こうとして、む、と一瞬考え込んだ。
「でもミヤちゃん、ヒスイちゃんに怪我をさせたくないって言ってたよ。大丈夫かな」
 何だ、その話も聞いてるのか、と草間が意外そうに呟いた。それから彼はぽん、と千影の頭を撫でる。
「その為に、お前に行って欲しいんだよ。誰かを護るのはお前の十八番だろ。ヒスイは何が何でも、ミヤに会わなきゃならない。ミヤが彼女を怪我させたくないって言ってたんなら、彼女を護って、ミヤの気持ちも護ってやれ」
「そっか。…うん、わかった! じゃあチカ、お手伝いして来るね!」
 残ったししゃもはしっかりと零がお弁当箱に詰め込んでくれたので、千影はさっそく、雑居ビルの窓を開けた。そこからふわりと飛び降りていく。
「せめてドアから出ていけよ!!」
「だって急ぐんでしょ、武彦ちゃん!」
 そう叫んで弾む様な足取りで去っていく彼女を見送る草間が、頭を抱えて深々と溜息をついたのだが、そんなことは生憎と千影の知るところではないのだった。



 草間からわざわざ詳しい場所を確認せずとも、ヒスイとミヤの姿を見つけ出すのは容易だった。郊外の住宅街、何故か「工事中」と張り出されて進入禁止の看板が立てられた向こう側。いつかの夜に見た黒い髪の気配が濃密に漂ってくるので、千影はまた、少しだけ眉根を寄せた。ミヤの魂に纏わりつくようにしていた黒い気配が、随分と活気づいているように感じられる。
 あれは怨念や、憎悪や、多分そういった類のものだ。
(でも真ん中のトコの黒いの、あれは綺麗だったな――)
 きっと、色々な想いが彼の魂には絡みつき、刻み込まれてしまっているのだろう。そんなことを思いつつ走る彼女の視界、池のほとりに彼らは居た。
 ――それも、無数の黒髪が茨のように、あるいは棘のように。緑の髪の女性――多分彼女がヒスイだろう――に襲い掛かろうとしているところだった。


**

 無数の髪の毛がざわめく中心で、座り込んでいた少年が頭を抱え込んでいた。彼を覗き込む視線があれば、赤く濁っていた瞳が瞬間、元の銀を取り戻したのが見えたかもしれない。それはほんの一瞬程度のことで、顔を上げた時には、既に瞳は濁ってしまっていた。
 だが、その一瞬の動きの遅滞の間に。
 ヒスイへ迫っていた黒髪は、現れた影に喰われるようにして、消えていた。

**

「わぁ、今のはちょっとだけ危なかったね。あなたがヒスイちゃん?」
「…え?」
 場に現れた助っ人は、小さな女の子の姿をしていた。黒いレースの縁取りのある雨傘をくるりと回して、少女はにっこり、ヒスイに向けて笑う。そんな挨拶の合間にも二人の周りで黒髪が棘となり、獣の姿となり襲い掛かって来るものの、
「もー、邪魔しないで!」
 そんな叫びと共に、影に食い荒らされて霧散していく。
「あ、もしかして…千影ちゃん…だったっけ?」
 青い髪の少女――みなもが目を瞬かせると、少女は満面の笑みで頷いた。
「そうだよー。武彦ちゃんにね、お願いされて来たの」
『…たけひこちゃん…』
 期せずして、セレシュとアキラの声が重なった。――いい歳しているはずのあの人物を「ちゃん」付で呼ぶとは。本人が嫌そうな顔をしているのが目に浮かぶ様ではあった。
「挨拶も結構ですけど、少し手伝って下さいません?」
 一方、ここまでずっと攻撃の標的にされ続けているアリスが、少しばかりの疲労を見せながら思わずと言った体で告げる。いくら石化させても、黒髪は幾らでも湧いて出てくるのだ。加えて本来の彼女の得意とするところ――催眠は、さすがに呪詛の塊相手には通用しない。通用させるべき精神を持っていないのだから、当然とも言えるが。
(あの少年に近付いてしまうことが出来れば、ある程度は通用するのでしょうけれど)
 無数の髪を壁のようにそりたたせた彼に近付くのは相当な困難であろう。
 そんな中、血で汚れた翼を勢いづけるように一度羽ばたかせて、ヒスイが顔を上げる。彼女の傍では、千影が手にした杖で黒髪を絡め取り、霧散させていた。
「ヒスイちゃんのことは、あたしに任せて!」
 楽しそうにすら聞こえる千影の語調は、この時ばかりは心強いものであった。
「あの子、守護獣なんか。――誰かを護る戦い方は得意なはずやね?」
 確認するようなセレシュの問いに、彼女はうん、と頷いて返す。
「そんなら、ウチらのやるべきは、道を創ることか。少し楽になったわ」
「そうですね。ええと、すみません、先に確認すべきだったんですけどヒスイさん、この黒いの攻撃したら、ミヤさんにダメージが入ったりしません?」
 今更ですけど、と恐縮する様子のみなもに、少しだけ肩の力が抜けたらしいヒスイが笑みを浮かべる。
「いえ、大丈夫です。でもありがとう、気遣ってくださって」
「それなら良かった。遠慮なくがつんと行きますね!」
 一番前線で身体を張っていたみなもは、全員の中でも傷が多い。唇を切ったらしく血の跡も痛々しい顔で、しかし笑顔でそう言われて、ヒスイが強く頷く。
「でも、ホントに大丈夫? 任せても」
「心配しなくていいよーっと…!」
 呑気な会話の間を、呪詛の塊が見過ごしてくれる訳も無い。いつの間にか地面を這っていた髪の毛が、ヒスイと千影の周囲をぐるりと取り囲んでいた。それらが一斉に飛びかかる。が。
 全て、千影の近くで千切れて霧散した。
 彼女の足元からは影が伸び、その手にはどこか可愛らしい杖がある。殆どは影が攻撃したのだが、正面から来たものは千影が手にした杖で容赦なく殴りつけたのであった。
「ほらね、大丈夫」
 笑みと共に告げられて、アキラはようやく正面へ向き直った。
 それほど離れた場所ではない。距離にしてせいぜい10メートル。その場所に、ミヤが立っている。あの場所まで、改めてヒスイを届けてやらねばならない。
「どうする?」
 誰にともなく問うと、応じたのはセレシュだった。金色の剣で絡まりつく黒髪を払い、切り捨てながら、
「…まぁ、何とかなるやろ。自分、アリスいうたか?」
「あら、わたくしをご指名ですか。何をすれば?」
「あんたも石化の能力持ちやろ。ちょっと手伝ってくれへんか」
「わたくしも狙われているみたいなんですけれど…」
「自分の安全優先で構わへんよ。――じゃ、ちょっと行くとしよか」




攻撃の起点は、まずアキラからだった。辺りの雨水と、水嵩を増した池の水に力を借りて、ミヤを護るようにぐるりと彼を囲んでいる黒髪に水の塊をぶつける。細い髪の毛は水の中に突っ込むと、水圧に勢いを殺されて動きが緩む。
 そこへ、セレシュとアリスが左右から挟み込むように飛び出した。セレシュは眼鏡を外して、アリスは金の瞳を煌めかせて、二人の視線に絡み取られたものは次々に石化していく――そう、空中に浮かんで黒髪を抱き込んだ水ごと。空中に幾つも出来た石の塊を踏みつけ、最後に飛び出したのは、再度水を纏ったみなもだ。運動神経の良くない彼女の動作はいささか強引ではあったが、人ならぬ身ゆえの身体能力がそれを支えた。
 石化した水を踏み台に、彼女は大きく跳躍し、そして。
(捕まえた…!)
 ――ミヤに届いた。と思った瞬間、己が身を守る針鼠さながら、彼の周りにぐるりと黒髪の棘が現れる。一瞬怯んだものの、みなもはえいや、と手を伸ばした。次の瞬間、彼女の纏う水を貫かんばかりの勢いで無数のその棘が彼女に突き刺さる。背後で小さく息をのむ音が聞こえた気がする――多分、ヒスイだろう。そんなことをどこか遠く考えながら、みなもは少年の腕を掴む。そのまま肩をぐいと押すと、呆気ない程にあっさりと彼はその場に倒れ込んだ。
「今度こそ…!」
「ヒスイちゃん、行ってきて!」
 みなもが押さえ込んだ腕の下では、グルル、と獣の唸るような声が響いている。ヒスイが駆け寄るとそれに呼応するかのように、また彼の周りの影が茨のように蠢いた。みなもがそうされたように、無数の針が影から飛び出してくる。
「もう、ダメだってばっ」
 千影がその針は殆ど迎撃しているが、幾らかはヒスイの腕や頬を掠めて、彼女に新しい血を流させた。それでも大きな怪我をさせず、致命傷になりそうなものを確実に止めている辺りはさすがと言うべきだろう。
 翼と右肩、それに頬に大きな裂傷を負い、それ以外にも服をあちらこちら血で汚しながら、それでもようやく、ヒスイの手が、ミヤの頭に伸ばされた。みなもが押さえ込み、地面に倒れ込んだ身体を前に跪いて、群青色の髪に触れようとして――最後の抵抗、と言わんばかりにその身体を全方位から、黒い棘が襲う。
「ヒスイちゃん!」
 駆けこんできた千影は一部の棘を迎撃した後、何に気が付いたものか、瞬きをしてから構えていた杖を降ろしてしまった。
「わ、ちょ、何してるんだよ千影ちゃ…!」
「危ない…!!」
 ヒスイの眼球を今にも貫こうとしている黒い棘は、しかし。
 眼球に触れるか触れないか、というところで止まった。千影が一度首を傾げ、ちりん、と鈴の音を響かせながら、問う。
「ミヤちゃん、苦しいの? 大丈夫?」
 応えは無い。が、みなもの組み敷いた腕の下、ミヤの瞳が揺れ、震えた。
 その髪に、ヒスイが触れる。
 それから、首筋に。
「お休みなさい。良い夢を見て、そして全てを忘れるの。三千世界の果てまで全てが、あなたの呪いを忘れるから」
 歌うように囁きかけた彼女の指先。ミヤの首に、群青色の糸が巻き付いていく。細いそれは幾重にも絡まり、縒られ、組紐細工のような姿へ転じて行く。
 それと同時、辺りをまだ蠢いていた黒髪が、その数を減じて行った。やがて全て消え去り、彼の影はまた、薄曇りの空の下で当たり前の灰色へと戻る。異様な黒い影はもう、どこにも無い。
 まるで、何かに忘れ去られてしまったかのように。




***




 彼女が再びミヤに会ったのは、雨が止んで、桜が満開を迎える夜のことだった。大ぶりの桜の枝に寝そべり、桜の濃密な気配に酔う幽霊達や、同じく浮かれた様子の猫の集会を眺めていた千影は、気配に気付いて顔を上げる。
「よう」
 フードを目深に被って、目立つ群青色の髪を隠した少年が、反対側の枝に腰を下ろしていた。
「あ、ミヤちゃん」
「…ちゃん、はやめろって」
 彼の首には、組紐で作られたチョーカーがある。それが彼の呪いを確かに鎮めているのを見て取り、千影は頬杖をついた。
「強い想い、って、千影は前に言ってたよな」
 ぽつりと口を開いたのは、ミヤの方だ。彼は枝の上に座り込んで、満開の桜を見上げていた。綺麗なもんだな、と小さく呟いてから続ける。
「…最初に俺に呪いをかけたのは、俺のお袋なんだよ。俺が決して魔女に害されることが無い様に、と」
 最初のそれは、祝福に近いものだったはずだ。ところが、彼の世界では魔女と人間の間に争いが絶えず。
「俺に敵意や害意を抱いた魔女が、傷付くようになった。そしたら傷付いた魔女の憎悪や、怒りや、そういうものを呑み込んで俺の呪いはどんどん膨らんで行った」
 ああ、と千影は息を吐きだした。
 だから。
 彼の魂に絡みつく怨嗟に似た黒い鎖は、傷付けられ、時には死に至った無数の魔女達の想い。
 そしてその中央で黒曜石のような色で鎮座しているのは。
「お母さんの想いだったのね、それは」
「…お袋のやらかしたことが正しかったとは、俺は思えねぇけど。でも、…うまく言えねぇな。何て言うか、これは俺がちゃんと抱えておかなきゃならねぇと思ってる」
 そっか、と千影は頷いた。それからやおら、枝の上で立ち上がる。身の軽い彼女が立ち上がっても、桜の枝はしなることすらなく、花弁が僅かに落ちただけだ。


「――それなら『それ』は、食べないでおいてあげる」
 満月に舞う桜の中で、黒猫が舌なめずりをした。




***



 二人が別の世界へ旅立った、と聞いたのはそれから少し経ってからのこと。どうやら折角だから、と花見に誘われたらしく、予定よりずっと遅れての旅立ちになった。
 千影は二人を見送って、それから、腕の中の兎に笑いかける。
 彼女の手には、つい数日前までは、ミヤの首にかかっていた組紐細工の首飾りがある。呪詛を抑えるのに使われていたそれは、ミヤの髪色と同じ、晴れた夜の空の群青色をベースに、銀と黒の糸が重なり合った形をしていた。
「呪いが消えた訳じゃないけど、随分弱くなったみたいだし。俺はいつでもひぃちゃんに頼めば作ってもらえるから、それはやるよ」
 鎮静作用があるらしいから、何かの役には立つんじゃねェの。
 というのがその飾りを彼女にくれたミヤの言い分であったが、千影は組紐細工を光にかざして、微笑む。力があっても無くても、これはミヤのためにヒスイが紡いだもので、それもまた、強い想いが籠められたものには違いない。
(だからとっても、綺麗だわ)
 夜桜の中、月明りに透かすと、それはまるで、夜空をぎゅっと詰め込んだようにも見えた。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【8538 / セレシュ・ウィーラー 】
【1252 / 海原・みなも (うなばら・みなも) 】
【3689 / 千影 (ちかげ) 】
【8584 / 晶・ハスロ (あきら・はすろ) 】
【7348 /  石神・アリス (いしがみ・ありす) 】