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魔女狩りの狼
夜の闇に紛れて、魔女が襲われる事件が起きているらしい。
そんな話を耳にして、気が気でなかったことだけは確かであった。何せ彼の近しい縁者には「魔女」と呼べる女性が居る。
アキラ――晶・ハスロは、夜の町を早足に帰路につきつつ、むっつりと眉間に皺を寄せていた。この近隣に、彼の縁者で魔女である女性も住んでいる。
(結構近くで起きてたよな、通り魔事件)
嘆息をしつつ、アキラはよく立ち寄る事務所の面々を思い浮かべていた。あまりに解決が遅いようならば、あそこの常連を頼るのもひとつの手段ではあるかもしれない。そんなことを考え――そこでふと、頬に冷たいものを感じて足を止める。
春の夜を照らす外灯が、ちかちかと瞬きをする。ここ数日降り続いている雨の音とは別に足音を聞いた気がして、彼はそろりと振り返った。その先。
外灯の真下で、黒い影が蠢いていた。
「…な」
何だこれ、と胸中に呻きつつ、後ずさる彼の足もとへ――その黒い影から突如として触手のように伸ばされたモノが突き刺さる。アスファルトを容易く貫通したそれは黒く細く、人間の髪の毛のようにも見えた。
「何だよそれ!?」
今度は思わず口に出してそう叫びつつ、アキラは傘を投げ捨ててもう一歩飛びずさる。今度は投げ捨てた傘に黒い穴が無数に穿たれ、しまった、と彼は顔を顰めた。
「勘弁しろよ、それ借りものなんだぞ!!」
まさに先程思い浮かべていた、彼に縁のある「魔女」がその傘の主なのであった。傘を忘れてスーパーを出たところに、たまたま通りかかった彼女が貸してくれたものである。後で返そうと思ってたのに、どうするんだ、と唸る彼の胸中など知る由も無く、黒髪は何故か執拗に傘を攻撃し、地面に傘が落ちた所でようやく、再びアキラの方へと蠢き始めた。
どう逃げたものか、とアキラが考えながらじりじりと後ずさりをしていた、その時だった。
ふと、黒髪の動きが止まる。夢だったかのようにそれは雨の中に霧散し、消えてしまった。
「…悪ぃ、なんか魔女の匂いがしたから――あんたは近いけど、違うよな」
外灯の向こう側、生垣の影から声がする。
アキラよりも年下の少年の声のように思われた。
「…魔女狩り、」
ここ数日、周囲で噂になっている通り魔の仇名を思わず呟く。生垣の向うからは、苦笑するような気配があった。
「驚かせて悪かった。あんまりここに居るとまたあんたを攻撃しそうだし、そろそろ逃げるよ」
じゃあな、と一方的に言い捨てて、気配は遠ざかって行く。追うべきか、とアキラが逡巡している間に、すっかり姿は消えてしまっていた。
呆然とするアキラの足元で、雨に打たれて穴だらけになった女物の傘だけが虚しく揺れていた。
そんな事件もあったもので、いよいよ放ってもおけないと思い立ったアキラは心当たりの事務所の扉を叩くことにしたのである。事務所の主は懸命に否定しているものの、東京で起きた奇妙な事件ならここに頼めば十中八九は解決してくれる、そういう場所である。集う常連もタダモノではないので、話だけでも持ち込んでみようと決意したのであるが、
「お、アキラか。丁度いいとこに来たな」
事務所の主から妙に機嫌よく迎えられたもので、アキラは思わず身構えた。
――ここの主が客人に愛想よく振る舞うのは、依頼がマトモで金になる時か、さもなければやってきた人間が「使えそう」な時である。そしてアキラの場合は、間違いなく後者だ。
「タケさん、何か用?」
「お前の方こそ、何の用だ。小遣い稼ぎにでも来たか?」
「いや、ちょっと相談があったんだけ、ど…」
言いかけた所で、事務所に先客が居た事に気が付いてアキラは言葉を噤んだ。
ソファに腰を下ろしているのはいずれも女性ばかり。黒髪を白いリボンでまとめて居るのはこの事務所の居候である零。その向かい側で地図を広げている金髪の女性と、地図を覗く青い髪の少女は事務所の常連の方だろう。
それから、縮こまるようにしてソファの隅でマグカップを抱えた女性。
緑色の髪、おまけに背中には白い翼が生えている。まぁ、この事務所ではそんな形の人間が居たとしてもさして珍しいことではなかったが、
「もしかして、依頼人さん?」
見たことのない顔だと判じてアキラが問えば、緑髪の女性がおずおずと頭を下げた。
「ヒスイ、と申します」
「ウチの依頼人だ。魔女狩りを探してるんだと。お前心当たりないか、アキラ」
事務所の主、草間の口から飛び出したその言葉に、アキラは思わず目を瞠る。
「心当たりっていうか…まさにそれを俺も尋ねに来たんだよ」
「よし、じゃあ手伝え」
やっぱりそうなるのか――とアキラは苦笑する。事務所の扉をくぐった時からそんな予感はあった。
「…分かったよ。事情とか、聴いてもいい?」
**
「それで、見つりそうなんですか? 探し人…ミヤさん、でしたっけ」
青い髪の少女――みなもの問いかけに、事務所内に一瞬だけ沈黙が落ちた。
「…東京は広いし、ヒントも探し人の風体だけや。おまけに当の探し人本人は、人の居らんとこに逃げ込んどる可能性が高いって言うやないか。時間がかかりそうやな」
唸るように答えたのは、金髪の女性――セレシュだった。
「人気のない所を虱潰しにしていくしかない、ですか…」
セレシュの言葉通り、広い東京で、それをやるのは眩暈がするほど途方もない作業だ。
「あとは『魔女狩り』のあった場所の近くを探す、って言うのが定石かな」
こちらも幾らか頼りない口調で提案したのは、一人の青年だった。自称21歳のセレシュより見た目は年上である。アキラと名乗った彼の言葉に、場の三人は地図へと視線を移す。
「1件目は、新宿歌舞伎町やね。そこから2件目、3件目、って少しずつ都心から離れとる」
「…少し間があって、5件目からは完全に郊外ですね…」
最後、一番直近の「事件」――8件目のそれは、郊外のベッドタウンで起きている。昼間の人通りは確かに少ないだろうが、住人が多く、地図で見る限り道も随分と入り組んでいた。
「これで探すのって大変だよねぇ」
思わずアキラが呟くと、ソファに座っていたヒスイがいよいよ泣きそうな表情になったもので、セレシュとみなもが揃って何とも言えない表情を彼に向けた。
「アキラさん…」
呆れたようにみなもが言えば、セレシュが腕組みをして頷く。
「アキラ、自分、女心への配慮が足りんとか言われへん?」
「何故それを…」
「…図星かい」
苦笑してから、セレシュは組んでいた腕を解いた。丁度彼女はソファの上、ヒスイの隣に座っている。
「ヒスイ、気にせんでええんよ。それより、もう少し話、聞いてもええやろか。ヒントがあるかもしれん」
「ええ、構いませんが…どういったお話をすればいいでしょう」
彼の風体と人となりについては伝えた積りですが、と困ったように眉を下げるヒスイに、うーん、と唸ってから彼女は思いついたように人差し指をたてた。
「ああ、そや。『元の世界』でその子が好きやった場所とか、馴染みの場所とか、そういう情報はあらへんか」
「? 元の世界で、ですか…?」
セレシュの質問の意味を図りかねたか、対面に座っていたみなもは首を傾げる。アキラも同様で、二人は顔を見合わせたが、
「その子も異世界人やろ。世界間の移動は、常識から何から全部違とるさかい、心細うなったら少しでも元の世界と似た雰囲気の場所に居たくなるんとちゃうやろか」
聞けば彼は身の裡の「呪い」を、人を傷付けたくないがために必死で抑え込んでいるのだと言う。ヒスイの言うような状況であれば、きっと、不安を感じているに違いない。
セレシュの説明に、ああ、とアキラは得心して頷いた。
「…それは何となく分かるかな。馴染んでた場所の情景とか、雰囲気とか。少しでも感じられるとやっぱりほっとするから」
「? アキラさん、どこか遠くからいらしたんですか」
不思議そうなみなもの質問に、アキラは曖昧な笑みで「まぁね」と誤魔化した。――時間軸が違う場所は、まぁ、「遠い場所」という認識でもそう間違ったものではない。ある意味、別世界から来たようなものだ、彼自身も。
そうなんですか、と、恐らく背景に事情があることを察したか、みなもは笑みを浮かべて頷いた。それから、思案する。
身の裡に呪いを抱え込んで、それを独りきりで、しかもどこだか分からないような世界で抑え込まなければならない、となったら、自分ならどうするか。
(…そうね、確かに不安だし、心細くて、少しでも知っている場所と似た場所を探すかもしれない)
想像するとすとん、と腑に落ちて、みなもは顔を上げた。改めて、早くミヤを見つけてあげなければ、と思う。不安な夜を過ごしている「魔女」の人達のこともそうだが、彼自身も辛いだろう。
そんなみなもの表情を見ていたヒスイが、ふ、と思い出した様子で口を開く。
「元の世界では神殿にお仕えしていた子ですから、神域には馴染みがあるんじゃないかしら。ただ、今は呪われていますし、神域に入れるかどうかは分かりません。こちらの世界の神様達が穢れを気にされるなら、入れないんじゃないかと思います」
「うーん、こっちの神さん達は何て言うか…」
「バリエーション豊かだからねぇ」
言い淀んだセレシュの言葉を、アキラが苦笑しつつ引き継ぐ。
「あとは、そうですね。水場も。彼の郷里には湖があって、彼はよくそこを遊び場にしていたらしいので」
「湖は東京にはあらへんな。あるとすれば河川敷か?」
「溜池は? 確かこの場所の近くに、少し大きな遊水地があるはずです。この長雨ですし、水がある可能性は高いんじゃないかな」
みなもの言葉に、ふむ、とそれまで黙っていた草間が口を挟んだ。
「それなら二手に別れちゃどうだ。この辺りには確か神社があったはずだから、神域っつーならソレだろ。溜池の方を確認するのと、神社側と。それでどうだ?」
「…ちなみにタケさんはどうすんの?」
アキラの問いに、彼は少し眉根を寄せて不機嫌そうに応じた。曰く。
「あんまり使いたくなかったコネだが、この手の事件に強そうなのと、役に立ちそうなのに心当たりがあってな。…一方は簡単に釣れるだろうから、声をかけておくさ」
春の長雨は、すっかり煙るような霧雨になっていた。少しだけ生ぬるい雨の中、アキラは黒いこうもり傘を広げて辺りを見渡す。
町はずれの古びた社は、手入れもされていないようで、すっかり荒れ果てていた。
「ここには居ないみたいだね」
アキラの言葉に、興味深げに社を覗き込んでいた女性――ヒスイが顔を上げる。群青色の傘を差した彼女は、力ない笑みを浮かべていた。雨が視界を遮るのと、大きな雨傘のお陰で、彼女の背中の小さな翼は幸い目立ってはいない。
「そうですね。…えっと、あと他に行っていない場所はありますか?」
「そうだね、あと一か所。小さいけど稲荷神社があるらしいから、そこ行ってみよう」
「いなり?」
「狐の神様だったかなぁ」
まぁ、とヒスイがぱちぱちと瞬く。
「狐の神様ですか。不思議な神様が居るんですね、この世界には」
「まぁ、八百万、なんて言われるくらいだし。特にこの国には多いらしいよ」
生憎と、アキラは神様が見えるような体質ではない。セレシュ辺りは神域に縁の深い存在であるらしく、知人に神様が居るとか言っていた記憶があるが。おぼろげな知識を頼りに答えたアキラに、そうですか、とヒスイは頷いた。
それからしばらく二人、霧雨の中を無言で歩く。
ヒスイがしきりに傘の持ち手を掴み直し、手を摩っているのを見てとり、アキラはうーん、と頬をかいた。多分彼女は、緊張しているのだろう。それが分かるから、どうしたものか考えてしまう。
(…俺と彼女を組ませてミヤを探すっての、どう考えても囮捜査みたいなもんだろうしなぁ)
アキラ自身は自分に魔女との縁があることを周囲に伝えてはいないのだが、事務所を出る際にしきりにセレシュとみなもが、「いざ襲撃を受けた時に、ヒスイを連れて逃げられるか」をアキラに確認したので、そういう意図があるのだろう、とアキラは薄々勘付いてはいた。確かに、ミヤの潜んでいるであろう地域をある程度絞ることさえ出来れば、手っ取り早いのは、「魔女」を囮に彼をおびき出すことだ。
そして多分、とアキラは眉根を寄せつつ考える。
ヒスイもそのことを察している。というか、彼女が率先して言い出したのだ。自分が行った方が、ミヤが見つかり易いだろう、と。
彼女の緊張がそれ故だろうと思えばこそ、アキラにはかけるべき言葉が見つからない。
「あの、訊いても良いでしょうか」
代わりに沈黙を破ったのは、ヒスイの方だった。何? とアキラは傘を傾けると、彼女は不思議そうに彼を青い瞳で見据えて、問うた。
「あなたは、魔女の縁者ですよね」
あっさりとしたその言葉に瞬間、答えを迷う。が、質問と言うよりも確認と呼ぶべき語調からして、彼女は確信しているのだろう。
「何で分かったの?」
「何となく、気配で。…どうして協力してくださるんですか。あなたも危険かもしれませんよ?」
ミヤの「呪い」は魔女と見れば攻撃しますから、と彼女は苦いものを噛むような口調で付け加える。それを見れば、ヒスイが彼が誰かを傷付けることを、本当に望んでいないのだと容易に知れ、アキラはうーん、と眉根を寄せた。
「…ヒスイの見立ての通り、俺の近しい人に『魔女』っぽい人が居るからってのも確かに理由かな。いつまでも『魔女狩り』が居たんじゃ心配だし」
「他にも、理由が?」
「そうだなぁ――単純に、俺が力になれるなら、協力したいって言うのもあるかな。…その子、ミヤ君は、魔女を傷付けることなんて望んでないんだろ」
優しい子だから、と、事務所で彼女が語るのをアキラも聞いている。実際の少年の人となりを知る訳ではないが、ヒスイがこれだけ大切そうに語るのを聞けば、悪い人物ではないのだろうと思うのだ。まして、自分よりも年下の少年らしいのに。
「…誰がそんな呪いをかけたのか知らないけどさ、苦しんでると思うんだ、きっと」
「そう、ですね――」
微かに悲しそうに目を伏せて、ヒスイが頷く。それから彼女は、気を取り直したように顔を上げた。その表情は明るく、青い瞳が真っ直ぐにアキラに微笑みかけている。
「彼の為に怒ってくれて、ありがとう。…あの子は『呪い』のせいで元の世界で色んな大人に利用されてばかりだったから、すっかり他人を信じられなくなっているんです。あなたみたいな人が居るって知れば、少しは人を信じてくれるかもしれないわ」
「…優しい子、って言ってなかったっけ」
「優しいですよ。人を信じるのが少し苦手なだけ」
うーん、と今度はさっきまでとは違う意味合いでアキラは唸ってしまった。もしかしてこれは。
(身内のひいき目…?)
わざわざそれを口に出して問う程、さすがのアキラでも無粋ではなかったけれども。
――そんな言葉を交わしつつ最後の目的地、神社へ向かう道中だった。
ヒスイが足を止める。ん、と首を傾げてアキラが彼女の視線を辿ると、その先はセレシュとみなもが向かった池の方角だ。
そこに、二人の女性と、それ以外の人影が見える。
アキラが止める間もあればこそ。傘を投げ捨てんばかりの勢いで、ヒスイが駆けだしてしまっていた。
「ミヤ!!」
群青の傘を投げ捨てる勢いで水溜りを蹴立てて、ヒスイが走る。背後から慌てたように黒いこうもり傘の姿が追った。
「あ、ちょ、ヒスイさん駄目だって!」
あっさりと青年――アキラに捕まえられて、ヒスイがすっかり狼狽した表情で彼と、眼前の少年――ミヤを見る。距離は10メートルもあるだろうか。
フードを被った少年は口元を複雑そうに、けれどもヒスイを真っ直ぐに見つめて、僅かに微笑んだようにも見えた。
「よう、ひぃちゃん」
困った様子で彼は言う。その影がぞわり、と蠢く。雨の日の弱い日差しの下で、彼の影だけが異様に黒い。それを見て、いよいよ少年は途方に暮れたように息を吐きだした。
「…上手くやってくれよ」
誰に告げた言葉だったのか。
雨の下、影が音も無く膨らむ。そこから細い糸のようなものが無数に伸び、一直線にヒスイを目指す。
「髪の毛…?」
どこからか取り出した金色の剣でそれを打ち払いながら、ぽつりとセレシュが呟いた通り、影から湧き出しているのは、真っ黒で艶も無い髪の毛のような何か、だった。縺れ、絡み合いながら、途絶えることなくミヤの影から湧き出ているそれを見て、アキラが小さく唸る。
「やっぱりこれだったのか…」
「え?」
「いや、こっちの話…ミヤ! 聞こえてるか!?」
彼の誰何にも応えは無い。ただ、雨音をかき消すように低く低く、獣の唸るような鳴き声が聞こえてくる。
「獣ですわね、まるで」
呟く声は突如としてそこに出現したようにも思われた。実際には単純に、先回りをしていただけなのだが。まるで新たな獲物を見出したかのように「黒髪」の群れが声の下へ走る。
「わ、危な…」
咄嗟にみなもが、触れた水を飛ばすが、それより少し前に黒髪の歩みが鈍くなり、彼女に到達する頃には既に硬直していた。――見れば灰色に石化している。おや、とセレシュが瞬いたのを、恐らく現れたばかりの少女は知らないだろう。
黒髪に金色の瞳。白と黒のアシンメトリーの傘を閉じて、ワンピース姿の少女――石神アリスが佇んでいた。彼女は微かに笑みを浮かべ、小首を傾げる。所作はただの通りすがりの少女、といった風情だが、それがこんな現場で平然としている訳も無い。無論、深く追求する程この場の人間も野暮ではなかったが。
「この近くが工事中、ということで封鎖して貰いましたので、通行人が来る心配はありませんよ。皆さん」
「もしかして、タケさんの呼んだ助っ人?」
「――多分、わたくしではなくそれは別の方かと思いますが。皆さんを助けるように、というのが依頼ですので、お手伝いくらいはさせていただきます」
そこまで告げた所でアリスは再び視線をミヤへと向ける。目に見えて、蠢く髪の中に埋もれたミヤの動きが鈍った。
が。
ぐるル、と低い獣の唸り声。
影の真ん中で、ミヤが、笑う。
その瞳が先までの灰銀ではなく、確かに赤く、濁った。
「っ、いけない、大きいのが来ます!」
ヒスイが叫んで背中の翼を開く。白い翼は膨らみ、彼女と周りの人間を守るように広がった。
「『魔女狩りの狼』、お前の狙う魔女はここよ! こっちを狙いなさい!」
咄嗟の行動だったのだろうが、青くなったのは周りの人間の方だった。ミヤの呪詛を食い止めるのは彼女が頼みの綱だ。その当の本人が怪我をするような真似をしてどうすると言うのか。
ヒスイに名を告げられたことに呼応したかのように、黒髪は渦を巻き、不恰好ながら狼のような形を作る。常に蠢く黒く細い髪で象られたそれは常に輪郭が揺らめき、子供が塗りつぶした塗り絵がそのまま立ち上がった様な、冗談のような悪趣味さがあった。
沈黙は一瞬。すぐさま黒い「狼」は、身体を解れさせ、縺れさせながらヒスイへと迫る。それを水の塊が阻んだ――みなもと、そしてアキラだ。
(雨の日で良かった…!)
手近にある自然物を利用して魔術を繰るアキラにとっては、雨水は文字通り天からの恵みである。加えてその水の塊に更に、みなもの力が加わる。水に縁の深い彼女にとっても、足元に水溜りがあり、触れる場所どこにでも水がある状況は幸いと言えた。
「このまま動きを封じます、ヒスイさん!」
「分かりました…!」
呼びかけに応じて、ヒスイが駆けだした。追い縋ろうと、水の塊から抜け出た髪の毛が束となり彼女を追って伸びるが、それらは全てセレシュとアリスに留められる。アリスが動きを止めたモノを、セレシュの放った衝撃波が砕く。即席のコンビネーション。
「っ、ミヤ…」
あと、数センチ。彼の身体に手が触れる、と言うところで、しかし均衡は崩れ去った。水に喰いとめられていた狼が解れ、輪郭を喪う。また細い糸状の群れに戻った「呪詛」の塊は、その殆どがヒスイに向けて――ごく一部が、アキラとアリスを目がけて穿つような勢いで伸びた。
「…ッ!」
アリスは矢張り石化で留めたが、呪詛を止める方へ意識を注いでいたアキラはそうもいかなかった。水の塊を細い糸は貫き、留めきれなかった数本がアキラの肩を穿つ。
同時に、ヒスイも。
翼を広げて身を庇ったことに加え、これは全く咄嗟にセレシュが眼鏡を外し、睨むように視線を向けたことで殆どの黒髪は石化して力を喪っていたが、それでも数本の髪の毛が彼女の翼を貫き、足を穿っていた。
彼女が悲鳴を上げず、それでもミヤへ手を伸ばしたのは、執念と呼ぶより他にない。
血の滲む翼を強引に動かし、水溜りへ血を落としながら、それでも前に進もうとするヒスイへ、更にトドメと言わんばかりに幾重もの髪の毛が鎌首をもたげ、襲い掛かる。
間に飛び込んだのは、みなもと、それからアキラもだった。
水を纏ったみなもが自らを盾とし、アキラがヒスイの腕を引いて間合いを外す。それでも執拗に、蔦のように黒髪は地面を這いまわって二人に迫った――いや、先程まではアキラとアリスに対しても攻撃の意思を向けていたので、かえって標的が一か所に固まったことで、攻撃は苛烈になったようであった。
「魔女と縁があるなら、あなたも危ないわ。あまり無茶しないで」
「どの口が言うんだよ、それ!」
思わず叫び返しつつ、アキラは彼女が庇う左足に触れる。貫通した傷口からは血が溢れていたが、幸いにして腱や骨が傷付く様な怪我ではなかった。
(これなら少しの応急処置で動けるはず…)
腰を据えて治療魔術をかけている余裕はない。血止めと痛み止め、ごく初歩の応急処置だけを済ませたところで、彼らの背後から水をぶちまけるような音がした。
「みなも!」
「だ、大丈夫です…まだ」
黒髪を剣で薙ぎ払いながら駆け寄るセレシュに、黒髪の塊――先程の狼よりも小型の、獣の形をしたモノに襲われて倒れたみなもはそう応じたが、纏った水は殆どが弾け、彼女自身も身体のあちこちに血が滲んでいる。立ち上がる足元もいくらか覚束ない。その横を、黒髪が塊になってすり抜けていく。
「あ、駄目…!」
食い止めようとするみなもを嘲笑うように、無数の髪の毛はヒスイを狙った。一直線に伸び――そして突然、動きが緩む。
**
無数の髪の毛がざわめく中心で、座り込んでいた少年が頭を抱え込んでいた。彼を覗き込む視線があれば、赤く濁っていた瞳が瞬間、元の銀を取り戻したのが見えたかもしれない。それはほんの一瞬程度のことで、顔を上げた時には、既に瞳は濁ってしまっていた。
だが、その一瞬の動きの遅滞の間に。
ヒスイへ迫っていた黒髪は、現れた影に喰われるようにして、消えていた。
**
「わぁ、今のはちょっとだけ危なかったね。あなたがヒスイちゃん?」
「…え?」
場に現れた助っ人は、小さな女の子の姿をしていた。黒いレースの縁取りのある雨傘をくるりと回して、少女はにっこり、ヒスイに向けて笑う。そんな挨拶の合間にも二人の周りで黒髪が棘となり、獣の姿となり襲い掛かって来るものの、
「もー、邪魔しないで!」
そんな叫びと共に、影に食い荒らされて霧散していく。
「あ、もしかして…千影ちゃん…だったっけ?」
みなもが目を瞬かせると、少女は満面の笑みで頷いた。
「そうだよー。武彦ちゃんにね、お願いされて来たの」
『…たけひこちゃん…』
期せずして、セレシュとアキラの声が重なった。――いい歳しているはずのあの人物を「ちゃん」付で呼ぶとは。本人が嫌そうな顔をしているのが目に浮かぶ様ではあった。
「挨拶も結構ですけど、少し手伝って下さいません?」
一方、ここまでずっと攻撃の標的にされ続けているアリスが、少しばかりの疲労を見せながら思わずと言った体で告げる。いくら石化させても、黒髪は幾らでも湧いて出てくるのだ。加えて本来の彼女の得意とするところ――催眠は、さすがに呪詛の塊相手には通用しない。通用させるべき精神を持っていないのだから、当然とも言えるが。
(あの少年に近付いてしまうことが出来れば、ある程度は通用するのでしょうけれど)
無数の髪を壁のようにそりたたせた彼に近付くのは相当な困難であろう。
そんな中、血で汚れた翼を勢いづけるように一度羽ばたかせて、ヒスイが顔を上げる。彼女の傍では、千影が手にした杖で黒髪を絡め取り、霧散させていた。
「ヒスイちゃんのことは、あたしに任せて!」
楽しそうにすら聞こえる千影の語調は、この時ばかりは心強いものであった。
「あの子、守護獣なんか。――誰かを護る戦い方は得意なはずやね?」
確認するようなセレシュの問いに、彼女はうん、と頷いて返す。
「そんなら、ウチらのやるべきは、道を創ることか。少し楽になったわ」
「そうですね。ええと、すみません、先に確認すべきだったんですけどヒスイさん、この黒いの攻撃したら、ミヤさんにダメージが入ったりしません?」
今更ですけど、と恐縮する様子のみなもに、少しだけ肩の力が抜けたらしいヒスイが笑みを浮かべる。
「いえ、大丈夫です。でもありがとう、気遣ってくださって」
「それなら良かった。遠慮なくがつんと行きますね!」
一番前線で身体を張っていたみなもは、全員の中でも傷が多い。唇を切ったらしく血の跡も痛々しい顔で、しかし笑顔でそう言われて、ヒスイが強く頷く。
「でも、ホントに大丈夫? 任せても」
「心配しなくていいよーっと…!」
呑気な会話の間を、呪詛の塊が見過ごしてくれる訳も無い。いつの間にか地面を這っていた髪の毛が、ヒスイと千影の周囲をぐるりと取り囲んでいた。それらが一斉に飛びかかる。が。
全て、千影の近くで千切れて霧散した。
彼女の足元からは影が伸び、その手にはどこか可愛らしい杖がある。殆どは影が攻撃したのだが、正面から来たものは千影が手にした杖で容赦なく殴りつけたのであった。
「ほらね、大丈夫」
笑みと共に告げられて、アキラはようやく正面へ向き直った。
それほど離れた場所ではない。距離にしてせいぜい10メートル。その場所に、ミヤが立っている。あの場所まで、改めてヒスイを届けてやらねばならない。
「どうする?」
誰にともなく問うと、応じたのはセレシュだった。金色の剣で絡まりつく黒髪を払い、切り捨てながら、
「…まぁ、何とかなるやろ。自分、アリスいうたか?」
「あら、わたくしをご指名ですか。何をすれば?」
「あんたも石化の能力持ちやろ。ちょっと手伝ってくれへんか」
「わたくしも狙われているみたいなんですけれど…」
「自分の安全優先で構わへんよ。――じゃ、ちょっと行くとしよか」
攻撃の起点は、まずアキラからだった。辺りの雨水と、水嵩を増した池の水に力を借りて、ミヤを護るようにぐるりと彼を囲んでいる黒髪に水の塊をぶつける。細い髪の毛は水の中に突っ込むと、水圧に勢いを殺されて動きが緩む。
そこへ、セレシュとアリスが左右から挟み込むように飛び出した。セレシュは眼鏡を外して、アリスは金の瞳を煌めかせて、二人の視線に絡み取られたものは次々に石化していく――そう、空中に浮かんで黒髪を抱き込んだ水ごと。空中に幾つも出来た石の塊を踏みつけ、最後に飛び出したのは、再度水を纏ったみなもだ。運動神経の良くない彼女の動作はいささか強引ではあったが、人ならぬ身ゆえの身体能力がそれを支えた。
石化した水を踏み台に、彼女は大きく跳躍し、そして。
(捕まえた…!)
――ミヤに届いた。と思った瞬間、己が身を守る針鼠さながら、彼の周りにぐるりと黒髪の棘が現れる。一瞬怯んだものの、みなもはえいや、と手を伸ばした。次の瞬間、彼女の纏う水を貫かんばかりの勢いで無数のその棘が彼女に突き刺さる。背後で小さく息をのむ音が聞こえた気がする――多分、ヒスイだろう。そんなことをどこか遠く考えながら、みなもは少年の腕を掴む。そのまま肩をぐいと押すと、呆気ない程にあっさりと彼はその場に倒れ込んだ。
「今度こそ…!」
「ヒスイちゃん、行ってきて!」
みなもが押さえ込んだ腕の下では、グルル、と獣の唸るような声が響いている。ヒスイが駆け寄るとそれに呼応するかのように、また彼の周りの影が茨のように蠢いた。みなもがそうされたように、無数の針が影から飛び出してくる。
「もう、ダメだってばっ」
千影がその針は殆ど迎撃しているが、幾らかはヒスイの腕や頬を掠めて、彼女に新しい血を流させた。それでも大きな怪我をさせず、致命傷になりそうなものを確実に止めている辺りはさすがと言うべきだろう。
翼と右肩、それに頬に大きな裂傷を負い、それ以外にも服をあちらこちら血で汚しながら、それでもようやく、ヒスイの手が、ミヤの頭に伸ばされた。みなもが押さえ込み、地面に倒れ込んだ身体を前に跪いて、群青色の髪に触れようとして――最後の抵抗、と言わんばかりにその身体を全方位から、黒い棘が襲う。
「ヒスイちゃん!」
駆けこんできた千影は一部の棘を迎撃した後、何に気が付いたものか、瞬きをしてから構えていた杖を降ろしてしまった。
「わ、ちょ、何してるんだよ千影ちゃ…!」
「危ない…!!」
ヒスイの眼球を今にも貫こうとしている黒い棘は、しかし。
眼球に触れるか触れないか、というところで止まった。千影が一度首を傾げ、ちりん、と鈴の音を響かせながら、問う。
「ミヤちゃん、苦しいの? 大丈夫?」
応えは無い。が、みなもの組み敷いた腕の下、ミヤの瞳が揺れ、震えた。
その髪に、ヒスイが触れる。
それから、首筋に。
「お休みなさい。良い夢を見て、そして全てを忘れるの。三千世界の果てまで全てが、あなたの呪いを忘れるから」
歌うように囁きかけた彼女の指先。ミヤの首に、群青色の糸が巻き付いていく。細いそれは幾重にも絡まり、縒られ、組紐細工のような姿へ転じて行く。
それと同時、辺りをまだ蠢いていた黒髪が、その数を減じて行った。やがて全て消え去り、彼の影はまた、薄曇りの空の下で当たり前の灰色へと戻る。異様な黒い影はもう、どこにも無い。
まるで、何かに忘れ去られてしまったかのように。
**
長雨は、桜が見頃を迎える頃に終わりを告げた。済んだ青空に薄紅の花が鮮やかに映える。
ヒスイとミヤがそろそろ立ち去るというので事務所に挨拶に顔を出したアキラを出迎える主の声はいくらか無愛想であった。
「…何だ、お前かアキラ。暇だな」
「お互いにね、タケさん」
「ほっとけ」
思わずにんまりとアキラは笑ってしまう。彼が無愛想だと言うことは、アキラが駆り出されなければならない依頼が無いということだ。
ここ数日ですっかり姿を見せなくなった「魔女狩り」の事と言い、平和で良いことである。
その「魔女狩り」の犯人、ミヤはと言うと、どうも千影に会いに行ったとかで不在であった。代わりにヒスイが零を手伝って、事務所の掃除に勤しんでいる。エプロン姿の零が、アキラに気付いてにこりと笑みを浮かべた。
「アキラさん、こんにちは」
「あら、アキラさん。先日はお世話になりました…怪我の治療までして頂いちゃって」
その隣でぺこぺこと頭を下げるヒスイに、苦笑が漏れる。
「いいって、俺としても『魔女狩り』の件が片付いてすっきりしたし。ご近所さんにももう心配しなくていいって伝えて来たところで」
「そうだったのですか――すみません、ウチのミヤが色んな方に心労をおかけしたみたいで」
頭を下げる姿は、何だか素行の悪い子を持った母親のようですらある。そんなことを言えば、まだ年若い彼女も、それからきっとミヤも嫌な顔をするだろうが。
(母親、か…)
その言葉で思い出したのは、つい先日、ゴミに出さなければならなかった雨傘のことだった。借りものだったので何かで弁償をしなければならないのだが、どうしたものかな、というのが彼の目下の悩みである。
「…ところでヒスイさんって、貰ったら嬉しいものとかある?」
手始めに、母親を連想させた魔女にそんなことを尋ねてみる。参考程度の積りだったのだが、彼女は存外大真面目に考え込み始めてしまった。
「貰ったら嬉しいもの、ですか…? …人から何かを貰うことなんてあまり無かったものですから、よく分からないですね」
「零さんなら、どう?」
「え、私ですか? うーん、そうですねぇ。お花とか…あ、お茶でも嬉しいです。お客様用のがそろそろ切れそうなので」
「実用的だなぁ」
零らしいと言えば、零らしい答えだ。
「アキラさん、急にどうしたんですか。誰か女性にプレゼントですか?」
「そんなとこ。借りた物を壊しちゃったから、弁償と、お詫びの品を贈ろうと思っててさ、参考に」
そんなやり取りをする隣で、ヒスイはまだ腕組みをして悩んでいる。余程に物欲の無い女性であるらしい。それに、ミヤと世界から世界への旅暮らしをしているというから、余計な持ち物を持たない主義なのかもしれない。
同じ「魔女」を名乗る女性のよしみ――なんてものがあるのかどうかは定かではなかったが。
アキラは彼女の答えが聞けるまで、待ってみようとそう決めた。
(だって女性に何を贈るかなんて、全然検討つかないもんな)
いざとなれば、体力の回復したらしい彼女に買い物に付き合って貰うのも良い手段かもしれない。そんなことを考えつつ、アキラはソファに腰を下ろして、零の持ってきてくれるお茶を待つ。
思案するヒスイの背後、事務所の窓からは、彼女の瞳の色によく似た、澄んだ水色の空がよく見えた。――今日はきっと、絶好の花見日和になるだろう。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【8538 / セレシュ・ウィーラー 】
【1252 / 海原・みなも (うなばら・みなも) 】
【3689 / 千影 (ちかげ) 】
【8584 / 晶・ハスロ (あきら・はすろ) 】
【7348 / 石神・アリス (いしがみ・ありす) 】
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