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魔女狩りの狼
恐怖に竦み震えた声が叫ぶのは、精一杯の虚勢にしても、どうしようもなく陳腐ではあった。
「この魔女め…!」
魔女。
恐らく彼女を罵倒するために放たれたのであろう単語に、ころころと鈴の音のような声で、罵倒された当の少女が笑う。
「あら、魔女だなんて。光栄ですわ」
幼い見目に似合わぬ嫣然とした笑みを浮かべ、彼女が男を一瞥する。最近彼女の周囲を嗅ぎまわっていたその男は、途端、カメラを取り落とし、その場に倒れ伏した。その姿を眺めやり、少女――石神アリスは金の瞳を細める。
「…商品にするにも、詰まらないですわね」
嘆息だけを落として彼女はそのまま踵を返す。金の視線は人を石に変えることも、心を操ることも容易だ。どちらにするかは彼女の気分次第。本日は後者であった。相手が美少女や美青年ならともかくも、小汚い中年では興が乗らぬというものである。
夕闇に紛れ、街の片隅で倒れ込む男へは最早視線のひとつもくれず、アリスはそのまま場を後にした。あの男は明日になれば、探りを入れていた「美術商」の少女のこと等忘れてしまうだろう。
手にした傘を、くるりと回す。春の長雨はここ数日降り続いていて、陰鬱な気分を後押しするようであった。
東京の片隅、帰路を歩くアリスは空を見て細く息を吐きだす。薄闇の中、雨に混じる桜の中を物憂げな表情の美少女――といった風情ではあったが、生憎とそんな美少女が考えているのはこんな物騒な内容であった。
(このところ、良い"作品"に巡り合えませんね)
そんなことを溜息交じりに考え込んでいたせいだろう。前方から駆けてくる足音に迂闊にも気が付くのが遅れてしまい、アリスは突然の衝撃にたたらを踏んだ。慌てて顔を上げると、傘の向うに一人の少女が息を切らして倒れ込んでいた――この雨の中、傘も持たずに濡れそぼっている。
「まぁ、大丈夫ですか…あらいけない」
少女に傘を傾けてやったところで、アリスは目を瞠る。蒼褪めた顔色の少女は息も絶え絶えという様子で、どれだけ走って来たものか。立ち上がろうとしてもがくものの、その足には力が入っていないようだった。手を貸して立ち上がらせながら、アリスはその少女の様子を更に観察する。今は顔色が優れないが、亜麻色の髪に、黒いセーラーのよく似合う――有体に言えば美少女であった。ただ残念なことに、その頬にはざっくりと大きな裂傷が走っている。つい先頃受けたばかりの傷らしく、まだ血が生々しく流れていた。
「どうかされたんですか。怪我が…」
鞄から取り出した刺繍入りのハンカチで、少女の頬に触れる。アリスの金の瞳が妖しく煌めいた。
「わ、私、襲われて…逃げてきたんです」
「襲われた?」
「ええ、あの、…きっと最近噂の通り魔だわ…」
低く呟かれた独白にアリスが目を細める。
(最近、街で噂になっている『通り魔』? 嗚呼、成程)
「『魔女狩り』ですか」
アリスの発した単語に少女が驚いた風で顔を上げる。その少女の頬――傷を負っていない方の白い肌理の細かな左頬を撫でて、アリスは微笑んだ。
「そうするとあなたは、魔女?」
「…ええと、その…見習いですけれど。はい」
黒いセーラーの少女は懐から焦げ目のついた呪符を見せながら、恥ずかしそうに答える。その表情に、アリスは笑みを深めた。
「可愛らしい方――ふふ、素敵」
「へ?」
「…いえ、こちらの話ですわ。詳しいお話を聞かせてくださりませんか」
アリスの金色の瞳が、外灯の光を受けて緩やかに煌めいた。
――草間興信所の事務所の電話が鳴ったのはそれから数日後だった。炙っていたししゃもを齧っていた草間は行儀悪くもごもごとしながら受話器を取る。
「おう、そろそろ電話する積りだったんだが、そっちから連絡して来るとは珍しいな」
『お伺いしたいことがありまして。この手の話なら、あなたの所に情報は集まっているでしょう?』
「俺は『普通の探偵』なんだがな?」
苦々しい様子の草間の声に、アリスは思わず笑ってしまう。何を冗談を言っているのか、と言わんばかりだ。
『"魔女狩り"の一件です。情報を頂けますか』
「…お? お前もその件、噛んでんのか」
『いえ、こちらの個人的な事情ですわ。それで、そちらに情報はありますの?』
珍しく急かしてくるな、と草間は胸中だけで独りごちて、しかしそんな懸念は口には出さずに簡潔に状況を伝える。
「さっき千影も飛び出していったが、おおよその場所は見当がついてる。他にも何人か押さえ込みに行ったから、…『魔女狩り』と因縁があるなら、お前も手伝ってやっちゃくれねぇか」
『そんなことですか。…ええ、お手伝い程度で宜しければ』
「妙に素直だな」
皮肉げな草間の言葉に、艶やかにアリスは笑う。先日の夜に出会った見習い魔女の少女の顔を思い浮かべる彼女がどんな表情をしているのか、電話越しの草間には知る由もないことだ。
『わたくしだって、時に無償で誰かを助けることがありますわよ?』
その言葉に何を考えたものか。草間は少し沈黙した後、唸り声と共にこう応じた。
「…程々にしておけよ」
『ふふ、何の事でしょう』
応じつつ、アリスは内心だけで続ける。この「自称普通の探偵」の草間は、戦う力はせいぜいが喧嘩の得手な成人男性レベルの癖に、異様なまでに鋭い眼力を発揮することがあった。
(だから苦手なんですのよ、この人)
探偵の眼力とでも呼ぶべきだろうか。アリスは他に類する能力を持った人間を、知らない。
『とにかく、"魔女狩り"の場所が割れているのなら教えてくださいな』
「気を付けろよ。依頼人の話じゃ、ミヤ――"魔女狩り"の少年は、魔女と見れば無差別に攻撃してくるらしい。お前、どっかで『魔女』なんて罵倒、されてないよな?」
『まぁ、失礼ですこと』
「とにかく、気を付けることだ」
その言葉と同時に通話が切れ――直後にアリスの手にした携帯に地図が添付されたメールが送られてくる。それを確認して、少女は笑みを深め、顔を上げた。
「ミヤ!!」
群青の傘を投げ捨てる勢いで水溜りを蹴立てて、ヒスイが走る。背後から慌てたように黒いこうもり傘の姿が追った。
「あ、ちょ、ヒスイさん駄目だって!」
あっさりと青年――アキラに捕まえられて、ヒスイがすっかり狼狽した表情で彼と、眼前の少年――ミヤを見る。距離は10メートルもあるだろうか。
フードを被った少年は口元を複雑そうに、けれどもヒスイを真っ直ぐに見つめて、僅かに微笑んだようにも見えた。
「よう、ひぃちゃん」
困った様子で彼は言う。その影がぞわり、と蠢く。雨の日の弱い日差しの下で、彼の影だけが異様に黒い。それを見て、いよいよ少年は途方に暮れたように息を吐きだした。
「…上手くやってくれよ」
誰に告げた言葉だったのか。
雨の下、影が音も無く膨らむ。そこから細い糸のようなものが無数に伸び、一直線にヒスイを目指す。
「髪の毛…?」
どこからか取り出した金色の剣でそれを打ち払いながら、ぽつりとセレシュが呟いた通り、影から湧き出しているのは、真っ黒で艶も無い髪の毛のような何か、だった。縺れ、絡み合いながら、途絶えることなくミヤの影から湧き出ているそれを見て、アキラが小さく唸る。
「やっぱりこれだったのか…」
「え?」
「いや、こっちの話…ミヤ! 聞こえてるか!?」
彼の誰何にも応えは無い。ただ、雨音をかき消すように低く低く、獣の唸るような鳴き声が聞こえてくる。
「獣ですわね、まるで」
呟く声は突如としてそこに出現したようにも思われた。実際には単純に、先回りをしていただけなのだが。まるで新たな獲物を見出したかのように「黒髪」の群れが声の下へ走る。
「わ、危な…」
咄嗟にみなもが、触れた水を飛ばすが、それより少し前に黒髪の歩みが鈍くなり、彼女に到達する頃には既に硬直していた。――見れば灰色に石化している。おや、とセレシュが瞬いたのを、恐らく現れたばかりの少女は知らないだろう。
黒髪に金色の瞳。白と黒のアシンメトリーの傘を閉じて、ワンピース姿の少女――石神アリスが佇んでいた。彼女は微かに笑みを浮かべ、小首を傾げる。所作はただの通りすがりの少女、といった風情だが、それがこんな現場で平然としている訳も無い。無論、深く追求する程この場の人間も野暮ではなかったが。
「この近くが工事中、ということで封鎖して貰いましたので、通行人が来る心配はありませんよ。皆さん」
「もしかして、タケさんの呼んだ助っ人?」
「――多分、わたくしではなくそれは別の方かと思いますが。皆さんを助けるように、というのが依頼ですので、お手伝いくらいはさせていただきます」
そこまで告げた所でアリスは再び視線をミヤへと向ける。目に見えて、蠢く髪の中に埋もれたミヤの動きが鈍った。
が。
ぐるル、と低い獣の唸り声。
影の真ん中で、ミヤが、笑う。
その瞳が先までの灰銀ではなく、確かに赤く、濁った。
「っ、いけない、大きいのが来ます!」
ヒスイが叫んで背中の翼を開く。白い翼は膨らみ、彼女と周りの人間を守るように広がった。
「『魔女狩りの狼』、お前の狙う魔女はここよ! こっちを狙いなさい!」
咄嗟の行動だったのだろうが、青くなったのは周りの人間の方だった。ミヤの呪詛を食い止めるのは彼女が頼みの綱だ。その当の本人が怪我をするような真似をしてどうすると言うのか。
ヒスイに名を告げられたことに呼応したかのように、黒髪は渦を巻き、不恰好ながら狼のような形を作る。常に蠢く黒く細い髪で象られたそれは常に輪郭が揺らめき、子供が塗りつぶした塗り絵がそのまま立ち上がった様な、冗談のような悪趣味さがあった。
沈黙は一瞬。すぐさま黒い「狼」は、身体を解れさせ、縺れさせながらヒスイへと迫る。それを水の塊が阻んだ――みなもと、そしてアキラだ。
(雨の日で良かった…!)
手近にある自然物を利用して魔術を繰るアキラにとっては、雨水は文字通り天からの恵みである。加えてその水の塊に更に、みなもの力が加わる。水に縁の深い彼女にとっても、足元に水溜りがあり、触れる場所どこにでも水がある状況は幸いと言えた。
「このまま動きを封じます、ヒスイさん!」
「分かりました…!」
呼びかけに応じて、ヒスイが駆けだした。追い縋ろうと、水の塊から抜け出た髪の毛が束となり彼女を追って伸びるが、それらは全てセレシュとアリスに留められる。アリスが動きを止めたモノを、セレシュの放った衝撃波が砕く。即席のコンビネーション。
「っ、ミヤ…」
あと、数センチ。彼の身体に手が触れる、と言うところで、しかし均衡は崩れ去った。水に喰いとめられていた狼が解れ、輪郭を喪う。また細い糸状の群れに戻った「呪詛」の塊は、その殆どがヒスイに向けて――ごく一部が、アキラとアリスを目がけて穿つような勢いで伸びた。
「…ッ!」
アリスは矢張り石化で留めたが、呪詛を止める方へ意識を注いでいたアキラはそうもいかなかった。水の塊を細い糸は貫き、留めきれなかった数本がアキラの肩を穿つ。
同時に、ヒスイも。
翼を広げて身を庇ったことに加え、これは全く咄嗟にセレシュが眼鏡を外し、睨むように視線を向けたことで殆どの黒髪は石化して力を喪っていたが、それでも数本の髪の毛が彼女の翼を貫き、足を穿っていた。
彼女が悲鳴を上げず、それでもミヤへ手を伸ばしたのは、執念と呼ぶより他にない。
血の滲む翼を強引に動かし、水溜りへ血を落としながら、それでも前に進もうとするヒスイへ、更にトドメと言わんばかりに幾重もの髪の毛が鎌首をもたげ、襲い掛かる。
間に飛び込んだのは、みなもと、それからアキラもだった。
水を纏ったみなもが自らを盾とし、アキラがヒスイの腕を引いて間合いを外す。それでも執拗に、蔦のように黒髪は地面を這いまわって二人に迫った――いや、先程まではアキラとアリスに対しても攻撃の意思を向けていたので、かえって標的が一か所に固まったことで、攻撃は苛烈になったようであった。
「魔女と縁があるなら、あなたも危ないわ。あまり無茶しないで」
「どの口が言うんだよ、それ!」
思わず叫び返しつつ、アキラは彼女が庇う左足に触れる。貫通した傷口からは血が溢れていたが、幸いにして腱や骨が傷付く様な怪我ではなかった。
(これなら少しの応急処置で動けるはず…)
腰を据えて治療魔術をかけている余裕はない。血止めと痛み止め、ごく初歩の応急処置だけを済ませたところで、彼らの背後から水をぶちまけるような音がした。
「みなも!」
「だ、大丈夫です…まだ」
黒髪を剣で薙ぎ払いながら駆け寄るセレシュに、黒髪の塊――先程の狼よりも小型の、獣の形をしたモノに襲われて倒れたみなもはそう応じたが、纏った水は殆どが弾け、彼女自身も身体のあちこちに血が滲んでいる。立ち上がる足元もいくらか覚束ない。その横を、黒髪が塊になってすり抜けていく。
「あ、駄目…!」
食い止めようとするみなもを嘲笑うように、無数の髪の毛はヒスイを狙った。一直線に伸び――そして突然、動きが緩む。
**
無数の髪の毛がざわめく中心で、座り込んでいた少年が頭を抱え込んでいた。彼を覗き込む視線があれば、赤く濁っていた瞳が瞬間、元の銀を取り戻したのが見えたかもしれない。それはほんの一瞬程度のことで、顔を上げた時には、既に瞳は濁ってしまっていた。
だが、その一瞬の動きの遅滞の間に。
ヒスイへ迫っていた黒髪は、現れた影に喰われるようにして、消えていた。
**
「わぁ、今のはちょっとだけ危なかったね。あなたがヒスイちゃん?」
「…え?」
場に現れた助っ人は、小さな女の子の姿をしていた。黒いレースの縁取りのある雨傘をくるりと回して、少女はにっこり、ヒスイに向けて笑う。そんな挨拶の合間にも二人の周りで黒髪が棘となり、獣の姿となり襲い掛かって来るものの、
「もー、邪魔しないで!」
そんな叫びと共に、影に食い荒らされて霧散していく。
「あ、もしかして…千影ちゃん…だったっけ?」
みなもが目を瞬かせると、少女は満面の笑みで頷いた。
「そうだよー。武彦ちゃんにね、お願いされて来たの」
『…たけひこちゃん…』
期せずして、セレシュとアキラの声が重なった。――いい歳しているはずのあの人物を「ちゃん」付で呼ぶとは。本人が嫌そうな顔をしているのが目に浮かぶ様ではあった。
「挨拶も結構ですけど、少し手伝って下さいません?」
一方、ここまでずっと攻撃の標的にされ続けているアリスが、少しばかりの疲労を見せながら思わずと言った体で告げる。いくら石化させても、黒髪は幾らでも湧いて出てくるのだ。加えて本来の彼女の得意とするところ――催眠は、さすがに呪詛の塊相手には通用しない。通用させるべき精神を持っていないのだから、当然とも言えるが。
(あの少年に近付いてしまうことが出来れば、ある程度は通用するのでしょうけれど)
無数の髪を壁のようにそりたたせた彼に近付くのは相当な困難であろう。
そんな中、血で汚れた翼を勢いづけるように一度羽ばたかせて、ヒスイが顔を上げる。彼女の傍では、千影が手にした杖で黒髪を絡め取り、霧散させていた。
「ヒスイちゃんのことは、あたしに任せて!」
楽しそうにすら聞こえる千影の語調は、この時ばかりは心強いものであった。
「あの子、守護獣なんか。――誰かを護る戦い方は得意なはずやね?」
確認するようなセレシュの問いに、彼女はうん、と頷いて返す。
「そんなら、ウチらのやるべきは、道を創ることか。少し楽になったわ」
「そうですね。ええと、すみません、先に確認すべきだったんですけどヒスイさん、この黒いの攻撃したら、ミヤさんにダメージが入ったりしません?」
今更ですけど、と恐縮する様子のみなもに、少しだけ肩の力が抜けたらしいヒスイが笑みを浮かべる。
「いえ、大丈夫です。でもありがとう、気遣ってくださって」
「それなら良かった。遠慮なくがつんと行きますね!」
一番前線で身体を張っていたみなもは、全員の中でも傷が多い。唇を切ったらしく血の跡も痛々しい顔で、しかし笑顔でそう言われて、ヒスイが強く頷く。
「でも、ホントに大丈夫? 任せても」
「心配しなくていいよーっと…!」
呑気な会話の間を、呪詛の塊が見過ごしてくれる訳も無い。いつの間にか地面を這っていた髪の毛が、ヒスイと千影の周囲をぐるりと取り囲んでいた。それらが一斉に飛びかかる。が。
全て、千影の近くで千切れて霧散した。
彼女の足元からは影が伸び、その手にはどこか可愛らしい杖がある。殆どは影が攻撃したのだが、正面から来たものは千影が手にした杖で容赦なく殴りつけたのであった。
「ほらね、大丈夫」
笑みと共に告げられて、アキラはようやく正面へ向き直った。
それほど離れた場所ではない。距離にしてせいぜい10メートル。その場所に、ミヤが立っている。あの場所まで、改めてヒスイを届けてやらねばならない。
「どうする?」
誰にともなく問うと、応じたのはセレシュだった。金色の剣で絡まりつく黒髪を払い、切り捨てながら、
「…まぁ、何とかなるやろ。自分、アリスいうたか?」
「あら、わたくしをご指名ですか。何をすれば?」
「あんたも石化の能力持ちやろ。ちょっと手伝ってくれへんか」
「わたくしも狙われているみたいなんですけれど…」
「自分の安全優先で構わへんよ。――じゃ、ちょっと行くとしよか」
攻撃の起点は、まずアキラからだった。辺りの雨水と、水嵩を増した池の水に力を借りて、ミヤを護るようにぐるりと彼を囲んでいる黒髪に水の塊をぶつける。細い髪の毛は水の中に突っ込むと、水圧に勢いを殺されて動きが緩む。
そこへ、セレシュとアリスが左右から挟み込むように飛び出した。セレシュは眼鏡を外して、アリスは金の瞳を煌めかせて、二人の視線に絡み取られたものは次々に石化していく――そう、空中に浮かんで黒髪を抱き込んだ水ごと。空中に幾つも出来た石の塊を踏みつけ、最後に飛び出したのは、再度水を纏ったみなもだ。運動神経の良くない彼女の動作はいささか強引ではあったが、人ならぬ身ゆえの身体能力がそれを支えた。
石化した水を踏み台に、彼女は大きく跳躍し、そして。
(捕まえた…!)
――ミヤに届いた。と思った瞬間、己が身を守る針鼠さながら、彼の周りにぐるりと黒髪の棘が現れる。一瞬怯んだものの、みなもはえいや、と手を伸ばした。次の瞬間、彼女の纏う水を貫かんばかりの勢いで無数のその棘が彼女に突き刺さる。背後で小さく息をのむ音が聞こえた気がする――多分、ヒスイだろう。そんなことをどこか遠く考えながら、みなもは少年の腕を掴む。そのまま肩をぐいと押すと、呆気ない程にあっさりと彼はその場に倒れ込んだ。
「今度こそ…!」
「ヒスイちゃん、行ってきて!」
みなもが押さえ込んだ腕の下では、グルル、と獣の唸るような声が響いている。ヒスイが駆け寄るとそれに呼応するかのように、また彼の周りの影が茨のように蠢いた。みなもがそうされたように、無数の針が影から飛び出してくる。
「もう、ダメだってばっ」
千影がその針は殆ど迎撃しているが、幾らかはヒスイの腕や頬を掠めて、彼女に新しい血を流させた。それでも大きな怪我をさせず、致命傷になりそうなものを確実に止めている辺りはさすがと言うべきだろう。
翼と右肩、それに頬に大きな裂傷を負い、それ以外にも服をあちらこちら血で汚しながら、それでもようやく、ヒスイの手が、ミヤの頭に伸ばされた。みなもが押さえ込み、地面に倒れ込んだ身体を前に跪いて、群青色の髪に触れようとして――最後の抵抗、と言わんばかりにその身体を全方位から、黒い棘が襲う。
「ヒスイちゃん!」
駆けこんできた千影は一部の棘を迎撃した後、何に気が付いたものか、瞬きをしてから構えていた杖を降ろしてしまった。
「わ、ちょ、何してるんだよ千影ちゃ…!」
「危ない…!!」
ヒスイの眼球を今にも貫こうとしている黒い棘は、しかし。
眼球に触れるか触れないか、というところで止まった。千影が一度首を傾げ、ちりん、と鈴の音を響かせながら、問う。
「ミヤちゃん、苦しいの? 大丈夫?」
応えは無い。が、みなもの組み敷いた腕の下、ミヤの瞳が揺れ、震えた。
その髪に、ヒスイが触れる。
それから、首筋に。
「お休みなさい。良い夢を見て、そして全てを忘れるの。三千世界の果てまで全てが、あなたの呪いを忘れるから」
歌うように囁きかけた彼女の指先。ミヤの首に、群青色の糸が巻き付いていく。細いそれは幾重にも絡まり、縒られ、組紐細工のような姿へ転じて行く。
それと同時、辺りをまだ蠢いていた黒髪が、その数を減じて行った。やがて全て消え去り、彼の影はまた、薄曇りの空の下で当たり前の灰色へと戻る。異様な黒い影はもう、どこにも無い。
まるで、何かに忘れ去られてしまったかのように。
**
桜が、雨のように舞っている。
花見客がちらほらと見える公園の中を歩いていたアリスは、駆け寄ってくる足音に気が付いて足を止める。振り返ると、一人の少女がアリスのすぐ傍で足を止め、肩で息をしていた。今日は黒いセーラーではなく、春らしい若草色のワンピース姿だ。明るい色合いが似合う子だ、と今更ながらアリスは思う。
先日の夜、アリスが遭遇した見習い魔女の少女であった。
「あの、この間…ありがとうございました。ここに通って居れば会えるんじゃないかって思って」
待っていたんです、と言いながら彼女が差し出すのは見覚えのある刺繍入りのハンカチだ。いつぞやアリスが血を拭ったそれは、一点の染みも無くなり、アイロンをかけたのだろう、皺もきっちり伸ばされている。
「気になさらなくても良かったのに」
応じつつ、アリスは口元が緩むのを抑えられなかった。ここ数日、目ぼしい作品にも遭遇できず、"商品"の仕入れも滞っていたのだが――
「お礼に、今度お茶でもご馳走させてもらえませんか?」
魔女見習いの少女の申し出に、アリスは顔を上げる。その頬に触れる。先日無残な裂傷を作っていたそこには傷痕もなく、触れれば肌理が細かく手に吸い付くようだ。
「…綺麗ですわね」
え? と首を傾げる彼女に、アリスの金の瞳が注がれる。
「お礼だなんて、とんでもない。でも、そうですわね、わたくしあなたのことをもっとよく知りたいんです――我が家でお茶でも、如何でしょう」
嗚呼。
存外近くに、綺麗なものはあったのだ。
桜の花弁を背景に、アリスは胸を躍らせる。可愛らしい少女の顔に怪我をさせてくれたのは全く以ていただけないが、
(出会いを作ってくださったことには、感謝をしても良いかもしれませんわね)
どこか遠くへ旅立った、翼の生えた魔女と魔女狩りの少年のことを想い、アリスは初めて晴れやかに笑った。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【8538 / セレシュ・ウィーラー 】
【1252 / 海原・みなも (うなばら・みなも) 】
【3689 / 千影 (ちかげ) 】
【8584 / 晶・ハスロ (あきら・はすろ) 】
【7348 / 石神・アリス (いしがみ・ありす) 】
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