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<東京怪談ノベル(シングル)>


囚われのマーメイド


 ボコン、と水中で空気が動く音がした。
 深い深い海の底。
 溺れる恐怖。目に見える恐怖。絶望と悲しみが交じり合う感情。
 それらを糧にして生きるシーメデューサという魔物がいる。
 頭部はメデューサ、体が人魚というキメラのような怪物だ。
 都内近郊の海の中、その怪物は常に獲物を待ち続けている。若く美しい獲物を。
 ボコン、とまた一つ。
 ゆらゆらと水面に上がろうとする泡は、次の瞬間には人魚の尾ひれに掻き消されて消えた。

 ここ数日、海岸で若い女性が姿を消すという事件が繰り返し起きていた。
 調査依頼を受けてその場を調べていたイアルは、強い魔力を感じて辺りを見回した。
 肌にまとわり付くようなねっとりとした空気。
 彼女は以前にもこの空気を感じ取ったことがある。
「……まさか……あれは萌が壊滅してくれたはず……」
 イアルはそう言いながら砂地を歩いた。
 IO2の萌がとある魔女結社と高級クラブを壊滅させてから、半年ほどの時間が経っていた。
 あの時、萌が自分を開放してくれたからこそ今があるのだと思いながらイアルは依頼をこなしていたのだが、今日は簡単には行かなそうな雰囲気であった。
「――おやおや、お嬢さん。ここはプライベートビーチだよ?」
「!!」
 背後から掛けられた声に、イアルの肩がビクリと震えた。
 先ほどまでは気配もなかった。そのはずなのに。
「……ご、ごめんなさい。この近辺で起こっている失踪事件を調べていたんです。ご存知ありませんか?」
 イアルは一拍置いてから声の主を振り返った。妖艶な婦人の風貌をした人物が立っている。
「さて……知らないわねぇ。お嬢さんのことはよく知っているけれど」
「え……?」
 イアルは身分証を見せながら女性にそう言えば、相手は首をひねりつつそう返してきた。
 改めてその女性を見ると、ニヤリと口元がゆがんでいるのがハッキリと分かる。
「私の妹達が世話になったそうじゃないか。ウサギの気分はどうだった? イアル・ミラールよ」
「!!」
 女性の体を紫色のオーラがまとった。妖しくそれが舞った後、彼女は本来の姿を現してイアルに飛びかかってくる。
 それは『魔女』そのものだった。
「……そ、そんな……あの時、滅ぼされたはずじゃ……!」
「馬鹿お言いじゃないよ。古い歴史を持つ私たちが滅びるはず無いじゃないか。……そう、お前たちの言う『魔女』は……どこにでもいる。この広い世界、どんなところにでも、な」
 イアルの体が砂に倒れこんだ。そこに馬乗りになってくるのは飛びかかってきた魔女だ。
 そうして怯えた目をしているイアルに向かって、魔女は楽しそうに笑いながらそう言った。
「探す手間が省けた。せっかく来てくれたんだ、相応のもてなしをしてやろう。……そうだな、此処は海だ。お前さんを人魚にでも変えてやろうか? そのきれいな肌を海に晒すのも悪くはない」
「い、いや……離して!!」
 魔女の長い爪がイアルの肌を伝った。
 シャツのボタンを器用に跳ねて、胸元を開けさせる。
 イアルは再び訪れた恐怖に全身を震わせてもがく。だがそれは魔女には何の抵抗にもならずに、妖しい笑い声だけが脳内に響いてきた。
「私たちはどんなに離れていても記憶を受け継いている……お前がどんなに逃げようとも、必ず見つけるだろう。今の私がそうしたようにな」
 歪んだ笑みが、イアルの視界に色濃く映り込んだ。
 魔女はそんな言葉を紡ぎながら、イアルの顎を乱暴に掴んで唇を開かせる。
 そしてもう片方の手にあった小瓶を傾けて、ラメ状の液体を口内に流し込む。
「……ッ……」
 ろくな抵抗も出来なかったイアルは、その液体を飲み込む事しか出来なかった。味などは解らず、ただひたすらの恐怖だけが彼女の体を支配する。
 そして、数秒。
「あ、あぁ……っ」
 びくりとイアルの体が跳ねた。そして彼女は大きく目を見開いたあと、かくりと力が抜ける。
「……お前は今からこの入江の人魚だ。自分忘れてこの海で彷徨うといい。私の可愛いペットもいるし、存分に遊んでもらえ」
 耳元で囁かれる言葉を、イアルは半分以上も聞き入れることが出来なかった。
 その瞬間から彼女は『イアル』ではなくなり、魔女の言うとおりの『人魚』となってしまったからだ。
 飲まされた液体が全身に蔓延にする頃には、イアルの両足は魚のそれに変わり、びちり、とひと跳ねしてみせたのだった。

 ボコンと、再びの水中の音。
 空気が丸くなりふわふわと海の中を舞う光景を、一人の人魚が興味深そうに目で追っていた。
 金の髪が美しく水面に揺れる。
 空気の出処を確かめたくなったのか、人魚はその身をくねらせて深く潜った。徐々に暗くなっていく水中。その中心からポコポコと上がってくる空気の輪。
 導かれているかのような錯覚を覚えながら、人魚はどんどん深くを泳いでいく。
 そして、海底近いと思われる場所の先に、石造りの祭壇のようなものを発見した。
 海に沈んだ神殿を思わせる。
 人魚は不思議そうにその建物に近づき、奥を覗きこんだ。
「!」
 彼女の視界に入り込んできたもの。
 それは自分と同じような姿の美女たちが、石化して集められている光景だった。
 皆、苦しそうに両腕を上げている。
 人魚は恐れを感じて、無意識に後へと水面を移動した。すると、背中に何かが当たった感じがして、彼女はゆっくりと振り向いた。
 ゆらり、と揺れるものは目の光。光源などどこにもないはずなのに、それは青白くゆらゆらと発光している。
「……ッ!」
 人魚が対峙したのは自分と似た風貌――だが、その髪は同一ではなく一本一本が蛇の形をしている、別のものだった。
 シーメデューサである。
 この海域一体を支配する魔物であり、海岸の魔女が飼う『ペット』でもあった。
 シーメデューサは目の前で恐怖に震える人魚を見て、嬉しそうに笑った。
『……モット、怖ガレ。私ヲ恐レロ』
 人魚の脳内に響いてくる声があった。
 それを認識して、彼女は下半身を思い切り動かし距離を取る。
 シーメデューサはゆっくりと身を翻し、やはりゆっくりと人魚に顔を向けた。その動きだけでも恐怖だと感じて、人魚は水面を必死に蹴る。
 逃げて逃げて、逃げ続けた。
 シーメデューサはそんな人魚とわざと距離を取り、じわりじわりと追い詰める。深海魚のような動きだった。
『ソウソウ、ソノ恐怖……ソレガ私ノ糧ニナル……』
 ボコンと空気の輪が出来た。
 ゆらゆらとそれらを生み出しつつ、魔物は人魚を追い続ける。
 逃げる人魚はただひたすらの恐怖を感じていた。
 自由であるはずの海の中で、自分は何故こんなにも怖いと思っているのだろう。助けて欲しくても誰にも助けを乞うことが出来ない。
 そう思いながら、金の髪の人魚は逃げ続けた。

 ――誰か、誰か……助けて――。

 暗い海の中で懇願するような声があった。
 それは誰にも届くことはなく、泡となって消える。
 逃げ続けて体力が尽きかけた頃、人魚はとうとうシーメデューサの手に堕ちた。
 彼女が最初に見つけた神殿広場に連れて来られ、その場でゆっくりと自分の体が動かなくなるのを感じて、人魚はもがいた。
 自分の足――尾ひれが石になっていく。
 周囲ですでに石塊となっている人魚たちと同じように、自分もここで石になってしまうのか。
 そう思うと、人魚の心が酷く揺れた。
 嫌だ、嫌だ。
 助けて欲しい。何でもいい、誰でもいいから。
 そんな思いがこみ上げて、人魚は泣いた。胸の下で腕を組んで顔を上げ、悲痛な表情を作り上げる。
 シーメデューサはその側近くでゆらりと泳いでは、いやらしい笑みを浮かべているのみだ。
 人魚の瞳から涙が溢れ出る。それは小さな丸い雫となって、そして海水と混じり合い溶けていく。
「……っ、萌……ッ」
 海の底で人魚はたった一言。
 その名を告げた後彼女は完全な石像となって、時間を止めた。
 それは魔女の秘薬によって姿を変えられた、イアルの成れの果ての姿だった。


 数カ月後。
「あの魔女結社がまだ息をしている?」
 そんな情報を得た萌が、一人で調査を進めていた。
 忽然と姿を消してしまったイアルを探すことも同時に行っていた彼女は、とある高級ホテルのオークション会場に潜入していた。
 闇取引が行われているとの情報を得たためだ。
 参加者は全員、顔を隠すためのマスクを着用していた。萌はその参加者の一人として潜り込み、同様にマスクをして出品物を眺めている。
「――さて、こちらが本日の目玉商品となります。『入り江の人魚』です!」
 ざわ、と周囲が湧いた。
 会場内の誰もがその像に目を向ける。
 萌も当然、前方を見た。
 彼女は言葉を失い、大きく瞠目する。
 スポットライトを浴びながらその舞台に上がった石像には、見覚えがある。
「……イ、イアル……!?」
 思わずポツリ、と言葉が漏れた。
 目の前にある人魚の石像は、確かにイアルの姿そのものであった。