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<東京怪談ノベル(シングル)>


桜の庭で君を待つ

 ひきつれるような荒い息が、コンクリートの壁に乱反射する。
 女は、爛漫と咲く一本の桜の樹を背に、立ち尽くしていた。ここまで全力で走ってきたせいで、呼吸が整わない。乱れた長い黒髪が濡れ羽色に輝いて見えるのは、にじんだ汗のせいだろうか。降り注ぐ桜の花びらが、絹糸の如く繊細なその髪にはりついては、彼女の細い肢体にまとわりつく。
 南の高い空に、満月がのぼっている。桜の樹のすぐうしろには、打ちっ放しのコンクリートのビルの壁。左右も同じく壁に囲まれている。次々とビルが建てられていくうちに、一本の桜の樹だけを残して、袋小路となってしまった路地裏の空間。ぽっかりと空いた都会のエアポケットのようなこの場所には、街の明かりはほとんど届かない。見上げた空は四角く切り取られ、そこに浮かぶ月だけが、唯一の光源だった。
 女は、両手をぎゅっと胸元に握りしめ、目の前の人影を見つめる。おどおどとした視線の先には、彼女と同じく荒い息で立ち尽くす、一人の男がいる。黒いタートルネックのセーターに、ブラックジーンズ。全身黒ずくめなうえに、目鼻と口だけが開いた、黒いニットの覆面キャップをかぶっている。高く掲げたその右手には、鈍い銀色の鋏を握っている。中肉中背の容姿から、そう若くもなければ老年でもない、四十代ほどの男だとわかる。覆面で顔は見えないが、興奮に爛々と輝いた表情を浮かべているのが伝わってくる。獲物を追いつめた喜びに歪んだ、変質者の顔だ。
「さあ、もう逃げ場はないぞ……」
 男はそう囁きながら、しゃきん、と鋏を鳴らした。鋭利な音に、女はビクリと身を震わせる。その様子に気を良くした男は、幾度も指を動かし、空を切ってみせる。しゃきん。しゃきん。しゃきん。
「おとなしくしていれば、命まではとらねえよ。俺が欲しいのは、あんたの、その」
「――髪の毛、でしょう?」
 突然、氷のように冷たく澄んだ声が返ってきて、今度は男のほうがビクリと身を震わせた。
「嬉しいわ、狙い通りについてきてくれて。あなたのお眼鏡に叶うくらい、私の髪も、魅力的ってことかしらね……?」
 腰まである美しい黒髪をぱさりと払って、女は強気に微笑んでみせる。先ほどまでぜいぜいと苦しげだった呼吸すら、ぴたりと落ち着いていた。男はようやく、罠にかかった己に気がつく。すべてがこの女の演技だったなんて。追いつめたつもりが、誘い込まれていたなんて!
「お前……!」
 男が叫んだ瞬間、金属のぶつかる音が響いた。掲げた鋏に何かが当たったのだ。次いで、男の頬を掠めて通り過ぎるものがある。男は驚いて目を凝らす。女の手の中に、武器のようなものが見える。ナイフだ。――投げたのか? ナイフを?
 男は激高する。鋏を振り上げて襲いかかろうとした瞬間、男の目の前から、女の姿が消えた。と思った次の瞬間、背後から、両手を立て続けにナイフで貫かれる。痛みを感じるより先に、衝撃で、手から鋏が滑り落ちた。何が起こったのか理解できない。振り返ると、男の背後四メートルの位置に、女が立っていた。
 ナイフを投げた? そこから?
 いつのまに、そこに?
 男には、女の移動した気配すら感じ取れなかった。いや、それどころか、と、遅れてきた痛みの中で、男は思考する。まるで、この女が、俺の背後に瞬間移動したかのような――。
 がんっ、と首筋に凄まじい衝撃を感じて、それっきり、男は意識を手放した。気を失う直前に目にしたのは、膝で蹴り上げた女の瞳の、翡翠色にきらめく光の残像だけだ。
 桜の花びらの降り注ぐ中、スローモーションのように、男の身体が地面に落ちてゆく。蹴り上げた姿勢のまま、その光景を見つめる女――土萌ライラは、ふと、昼間に見た光景を思い出していた。

 ――夢を、みた。
 そう、これは、昨日見た夢だ。
 ストーリーはない。断片的な映像が、記憶に焼き付いて離れない。
 黒い羽。一本が羽ペンほどもある大きな、黒い……これはたぶん、散らばった烏の羽。
 冷たい金属の気配。反射する光は鈍い。これは、銀色の……鋏。
 そして、乱れた黒髪に、妖しく光る瞳。
 その光景を目にした瞬間、冷たい手で背中を撫でられたような心地がした。けれど、なぜだか目を離すことができなかった。そんな……夢。

 バサバサバサッと、一斉に飛び立つ羽音が、すぐそばで聞こえた。
 はっと身をすくませて、ライラは立ち止まる。
 左手の住宅の塀の上から、幾羽もの烏が飛び立っていく。烏を追って見上げた青空に、春の昼下がりの、柔らかな太陽。思わず、ぽかんと見上げたまま、住宅街の道ばたに立ち尽くしてしまう。
 ――いけない、ぼんやりしてた。
 あまりにもぼうっと歩いていた己を自覚して、危機感すら覚えた。これからバイトだというのに何をやっているのかしら、と、自分の頬を軽く叩く。
 こんなにぼんやりしてしまうのは、ここ数日で唐突に満開となった桜のせいだと、ライラは思う。バイト先への通勤路であるこの道も、桜のせいで、まるで見知らぬ道のように感じられる。つまり、現実感がない。だから、こうして、昨日の夢のことなど考えてしまうのだ……。
 頭上で、ばさっと羽ばたく音がした。先ほど飛び立った烏の一羽だろうか。ライラの目の前に、真っ黒な羽が一本、落ちてくる。羽に遮られた視界の向こうに、ふと、人影が見えた。烏の羽のように艶めく長い黒髪に、黒いワンピース姿の……女性?
 しかし、はっと気がついたときには、視線の先から人影は消えている。まばたき一つの瞬間に、まるでかげろうのように、揺らめいて。

 ――ここですでに、ライラの記憶は混乱している。
 あの女性の姿、あれは現実に見た光景だろうか? それとも、昨日見た夢の続きだろうか?
 それを、ライラには判別できない。なにしろ、その後、どうやってバイト先のカフェまでたどり着いたのか、覚えていないのだ。気がついたときには、カフェのロッカールームで、自宅から持ってきた封筒を鞄から取り出し、中身を読んでため息をついていた。
「女性の髪を切って逃げる男……って。ただの変質者じゃない。なんで私に……」
 白い便箋をつまみ上げ、蛍光灯に透かしてみる。やはり、それ以外のことは何も書かれていない。新たにひとつ、深いため息が出る。
 赤い封蝋の施された、真っ黒な封筒。差出人の欄には、「AAA」という銀色の印が押されているのみだ。ライラは時折、このAAAなる人物からの依頼を受けて、超常的な事件の対処を請け負っている。しかし、今回の依頼は、とうてい超常的とは言えなかった。こんなの、警察に届け出て、巡回警備の強化でもしてもらえば済む話なのでは……。
 ぶつぶつと文句が口をつきそうになった途端、ばたんとロッカールームの扉が開いた。店長がひょっこりと顔を出す。
「おーい、そろそろ休憩交代……って、どうした、ライラ? 浮かない顔して」
「え? いえ、なんでもありません」
 慌てて、手紙をたたむ。封筒ごと鞄にねじこんで、ばたばたと仕事に戻る。
 それっきり、依頼について深く考えるのはやめた。ほんの少し、妙な依頼だというだけで、解決が難しいわけではない。ならば、淡々とこなせばいい。そう割り切って、その夜、ターゲットを路地裏に誘い出した。ただそれだけのことだ。
 ――ただそれだけのこと、だったのだが。

「……ええ、終わりました。場所は、ご指定の通り。後の処理はお任せします」
 気絶したまま地面に延びる鋏男を横目で見ながら、ライラは携帯電話の通話を切った。一仕事終えた安堵から、ふーっと長いため息が出る。
 男の上に、ぽろぽろ、ぽろぽろと、こぼれるように桜の花びらが降り積もる。見上げると、完全な円を澄む満月に照らされた桜の樹が、青みを帯びた銀色に発光しているかのようなたたずまいで、静かにそこに立っている。それはあまりに非現実的な光景で、どきりとしたライラに、言葉を失わせる。まるで冷たい手で背中を撫でられたみたいだと感じた瞬間、ふと抱いた違和感に、ライラは首を傾げた。
 ――冷たい手で、背中を……なんだろう?
 しかし、いつまでもそこにとどまっているわけにはいかなかった。人が来る前に、立ち去らなければならない。感じた違和感をねじふせて、桜の樹に背を向けて歩き出そうとしたときだった。目の前に落ちてきたのは、桜の花びら――ではなく、一枚の、烏の羽。
 ばっと、顔を上げた。視線の先に、ひとつの人影があった。充分な明かりのないこの路地裏で、なぜだかくっきりと、鮮明に認識できた。
 烏の羽のように艶めく長い黒髪。黒いワンピース。――昼間見た、あの女性!
「――っ」
 誰!? という言葉が声になるより早く、まばたき一つの瞬間に、人影は消えていた。昼間とまったく同じように、かげろうのように、揺らめいて。
 ライラは慌てて周囲を見回す。息を殺して気配を探る。しかし、人影はおろか、鳥の気配すら感じられない。
 驚きに呼吸の浅くなった胸を押さえて、足下を見下ろす。薄く積もった桜の花びらの上に、一本の、真っ黒な烏の羽が落ちている。
 ――鳥なんて、いなかったのに。どこから落ちてきたの、この羽は。
 指を伸ばして、羽を拾った。青白い月光を浴びたその羽は、思いがけず石油を流し込んだ水面のように、不可思議なペイズリー模様を描いて輝く。
 それはまるで、未だ見たことのない不吉な生き物からの予言のように、ライラの瞳に映るのだった。




【ライター通信】
 ご発注ありがとうございます。梟マホコです。
 黒髪美女さん! しかも、戦う魔女さん!
 と、ライラさんのミステリアスさにドキドキしながら書かせていただきました。
 物語の序章のようなイメージで、とのご指定でしたので、「不穏な物語がはじまりそうな雰囲気」を、めいっぱい詰め込んでみました。この後、ライラさんに、一体どんな物語が待っているのか? 気になります……! 読んでみたい、書いてみたい!
 このたびはありがとうございました。また機会があれば、ぜひ、書かせてください!