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番犬の哭き声に、魔女は嘲笑う
1.
私は…ここにいる…わ。
たす…け…て…。
「い、いるの? いるのなら返事をして」
新月、真っ暗な夜の中で小さなスマホの明かりだけを頼りに不気味な洋館の前に立った。
響カスミは、できればこの中に入りたくなかった。
ただでさえ夜は幽霊やら何やらが出そうで怖いのに、この高級住宅地に存在する自然に囲まれ半ば朽ち果てたような洋館には嫌な予感しか感じない。
…でも行かなきゃ。
教え子の少女が失踪した。都内郊外、オカルトスポットとしても有名なこの洋館が最後の目撃場所だった。
少女を探しに来たカスミは慎重にその一歩を踏み出す。
なにも出ませんように。
明かりのない窓、壊れかけた扉、壁を這う植物が風に揺れるたびにカスミは足を止めて帰りたくなる。
詳しいことは知らない。明治から大正にかけて建てられ、全盛期は夜毎に夜会も開かれたような館だったと噂があった。
けれど、そんなことは微塵のかけらも残っていなかった。あるのはただ流れてしまった時間に風化したただの廃屋。
建物の中に入るのは最後にしよう。
カスミは屋敷の周りを探し始める。
「…がルる…」
「!? だ、誰!?」
獣のような鳴き声。しかし、どこか聞き覚えのあるような…?
瞬間、近くの茂みから黒い影が飛び出ると、カスミの体を地面に叩きつけた!
「きゃっ!?」
逃げる暇もなく、カスミは地面に倒れ込んだ。飛び掛かってきた影と共に。
「…ガ…るルる…」
低い唸り声をあげる獣に、カスミは凍りついた。
この獣…いや、この人間こそがカスミの探していた少女だった。
「な、なんなの!? じょ、冗談…でしょ!? ねぇ!!」
声が震えた。目の前の少女はカスミの知る少女とは似ても似つかぬ…そう、犬の威嚇のような唸り声を出して四つん這いでカスミの体を拘束する。
「嘘…嘘…ウソウソウソ!!!」
狼狽し、絶叫するカスミの口を少女は力いっぱい手で塞ぐ。
息ができない。苦しい。目の前が赤くなったり暗くなったりし意識が遠のこうとしていた時、その声は聞こえた。
「あらあら。綺麗なペットがまた増えちゃう〜♪」
可愛らしい声とは裏腹な、底知れぬ黒い言葉。
少女をこんな風にしてしまった張本人であり、この洋館の主である美しい魔女。
カスミに手を差し出し微笑んでいるが、それは助ける為ではない。
けれど、カスミにはその手を掴むことしかできなかった…。
2.
イ…アル…、どうしている…の?
ここは…どこ…なの?
洋館の地下一帯を網の目のように走る地下水道。石造りのその水道は今現在は使われていないものの、どこからともなく水の匂いがする。
「さぁ、今日は楽しい決闘よ〜♪」
楽しげに鎖を何本ももった魔女は言う。
その鎖の先には幾人もの少女と、その中にカスミの姿もあった。ボロボロになった服を纏ってはいたが他の少女たちと違い、カスミの首にはバラの花が飾られている。
「よく似合ってる〜♪」
嬉しそうにカスミの頭を撫でて、魔女は命令する。
「今日の相手はこの子たち♪ あ、顔に傷をつけちゃイヤよ? この子たちはもう飼い主が決まってるの〜♪」
虚ろな目をしたカスミは四つん這いで、戦う相手である少女たちと向き合う。少女たちも一様に獣のようにカスミと対峙して牙を剥く。
カスミの意識は朦朧としていた。それは魔女の催眠術の力だった。朦朧とした頭に魔女は語りかける。
「あなたは野生にかえるの♪ とても美しい野獣になるのよ〜♪」
戦いは始まる。爪で相手を傷つける。ブチブチッと髪の毛が引き抜かれる。赤い血の花が咲く。
痛い。なぜ? どうして。
『だって、あなたは獣だもの♪』
戦いたくない。こんなのはイヤ。
『ダメよ〜。野生にかえることが本来の姿に戻ることなのよ? 正しいことなの〜♪』
私は…帰りたい。
『そう、あなたはかえらなくちゃ。野生のあなたに…』
違う! 私が…私が帰りたいのは…。
『何も違わないのよ。あなたは野生にかえるの♪』
かえ…り…た…イ…ノ……。
カスミは咆哮を上げた。勝利の叫びだ。
「…よくできたわね〜♪ はい、ご褒美よ〜♪」
皿にのった肉をカスミの目の前の地べたに置く。そして魔女は言う。
「さぁ、ゆっくり召し上がれ〜♪」
ガツガツッとカスミはその肉を食べ始める。手を使わず、口だけで…まるで獣のように。
「そうよ、それでいいの〜♪ 可愛い子♪ あなたは私の手元にずっと置いてあげるわね♪」
満足そうに微笑み、魔女はカスミの顔を覗きこんだ。その瞳にはもう抵抗する意思の光は見えなかった。
今まで何人もこの洋館に忍び込んできた可愛い娘たちを野生化させてきたが、こんなにも楽しい獲物は初めてだった。
好事家に売るよりも、もっと愛でていたい。
魔女はペロペロと指先を舐めるカスミの頭を優しく撫でた。
3.
ダ……。
……ル…ゥ?
イアル・ミラールは同居人・響カスミの失踪後すぐに調査を開始していた。
しかし、手がかりが少なく時間は惜しむ間もなく過ぎ去ってしまった。
朝、出勤すると言ったまま帰ってこなかったカスミ。勤め先の学校の中をくまなく探し回ってみたが、何も手がかりが得られなかった。
だが、イアルはそこで噂を耳にしたのだ。
『洋館の魔女に若い女が喰われる』
カスミはまた何か悪い者に魅入られてしまったのだ。悪い予感がした。
イアルはその噂の洋館の場所を突き止めた。カスミがいなくなってすでに数か月が経過していた。
人目を避けて夜に忍び込む。嫌な気配がする。自然とイアルは腰を低くして辺りを警戒する。
人の気配がする。それ以上に強い刺激臭と獣の匂いがした。
こんなところにカスミが?
イアルの戸惑いが、一瞬の隙を見せた。
突然、茂みの中から襲いかかってきた影にイアルは拳を一撃いれた。
「ガッ…は!」
影はその場に崩れ落ち、大きく呼吸をする。それは獣の息遣いではなく、人間の…。
「グルガァァァァ!!!」
うずくまる人影を確認するまもなく、次の影がイアルに襲いかかる。ひとつではなく、ふたつ、みっつ…。
「全部…人間なの!?」
その数の多さに呆然とする。だが、体は勝手にその影を次々に薙ぎ払っていく。
カスミは…カスミもこの中にいるの?
倒れ呻く人の姿に、イアルは辺りを見回す。人の気配はまだまだある。
この中にカスミがいるのかもしれない。そう思うと、下手に手を出すことが躊躇われた。
「あらあら♪ 威勢のいいお嬢さんね〜♪ でもちょっとひどくない?」
ひどく透き通った女の声に、イアルが振り向くとそこには少し不機嫌そうな女が立っていた。
イアルの経験と勘がその女が只者ではないと知らせる。
「あら? …あなた…普通の人間じゃないのかしら〜?」
「そんなことはどうでもいいの。カスミはどこ? あなたがカスミを攫ったのでしょ?」
魔女はイアルの言葉にさらに不機嫌そうになる。
「攫った? 人聞きが悪いわ〜。自然に返してあげただけよ〜? 返りたがったのは本人の意思よ〜?」
いけしゃあしゃあと言いのける魔女に、イアルは唇をかみしめる。
どこにいるの、カスミ!
「怖い顔〜♪ 折角可愛い顔してるのに、そんなんじゃ私のペットにはなれないわね〜♪」
「カスミを返しなさい!」
イアルが魔女に攻撃を仕掛けるのと、その影が飛び出てきたのは同時だった。
「!?」
イアルが反射的に身を捻ってその影の攻撃をかわす。
「紹介するわね〜。私の可愛いペットちゃん♪」
魔女が微笑む。それは歪んだ微笑み。
イアルの目の前に、身体は汚れ放題で悪臭を放ち、唸り声を上げる野生化したカスミの姿があった…。
4.
「カスミ!?」
カスミの耳に、イアルの声は届かない。
低い唸り声をあげながら、カスミはイアルを威嚇し魔女を守ろうとしている。
「ふふっ♪ この子は本当にいい子なのよ♪ 反抗する力が強ければ強いほど、屈服したときに強い支下に置かれる。この子は本当に理想的な子♪」
ペットのようにカスミを撫で嬉しそうに笑う魔女に、イアルは飛び掛かる。
しかし、それに俊敏に反応するカスミや他の少女たちに阻まれて魔女になかなか攻撃を加えることができない。
「おとなしくしてよ〜。あなたもなかなかいい素材だし、一緒に野生にかえればいいのよ〜?」
この魔女をなんとかすれば…カスミは元に戻る!
イアルは意を決してカスミの胸元に飛び込む。
「ごめんね、カスミ」
大きく振りかぶった手を思い切りカスミの首元に叩きこむ。
カスミは悲鳴を上げることもできずに、崩れ落ちる。
「え!?」
魔女が驚く間に、イアルは次々と少女たちをカスミ同様昏倒させていく。
そして、最後に砂を掴むと思いっきり魔女の顔面へと投げた。
「ひぎゃっ!?」
目に砂の粒が入って目を抑える魔女の喉元に、イアルは思いっきり手を伸ばし首を掴む。
「カスミにこんなことをするなんて…許さない」
イアルの手が徐々に魔女を宙吊りにする。じたばたともがく魔女に抵抗する術はない。
次第にそのもがきも弱くなっていき、そして最後にはそれすらもなくなった。
しかしイアルはそのまま魔女の体を下ろさなかった。魔力が効いているうちは魔女はまだ死んではいないのだ。
イアルによって昏倒させられた少女たちが、地面の上でビクッと電気でも浴びたかのように体を跳ねさせる。
それは1人2人ではなく、その場にいる全員に起きていった。
魔女の呪縛が切れた証だ。
ようやく、イアルは魔女を地面に寝かせた。
「…カスミ!」
イアルがカスミに近づくと、カスミはおぼろげに意識を取り戻しているようだった。
「カスミ! よかった…カスミ…」
優しく微笑み、涙を浮かべたイアルにカスミは答える。
「グ…ア……アァァァァァ!!!!」
イアルは言葉が出なかった。そして、魔女の言葉を思い出していた。
『反抗する力が強ければ強いほど、屈服したときに強い支配下に置かれる』
魔女が言っていたのは、このことだったのだ。
身も心も完全に野生に支配されてしまっている。もう、魔女の呪縛などではないのだ。
「グァル! ガルルルルル!!!」
威嚇するカスミをイアルは強く抱きしめる。
「ごめんなさい…私が…私がもっと…」
こぼれ落ちる涙も、カスミには何の効き目もない。それでもイアルの涙は止まらない。
「帰りましょう、うちへ…私たちの家へ」
イアルはカスミを抱きしめたまま、家路につく。
「ウォーン!」
カスミが遠吠えすると、イアルには聞こえるはずのない魔女の笑い声が聞こえたような気がした。
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