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<東京怪談ノベル(シングル)>


甘い牢獄


 部屋の大掃除をしている最中に、ついつい本を読んでしまう。
 時には、大長編漫画を全巻読破してしまったりもする。
 よくある事だ、とファルス・ティレイラは思う。
 皆、やっている事だ。自分が責められるべき事ではない、とも思う。
 自分を「ティレ」と呼んでくれる女性がいる。
 様々な魔宝・魔薬を扱う商店の女主人で、ティレにとっては魔法の師匠でもある。
 彼女に、店の倉庫の整理を頼まれたのだ。
 その倉庫の奥で、本を見つけた。埃を被った、分厚い書物。
 丁寧に埃を払い落とし、開いてみた。
 読めなかった。見た事もない言語で綴られた文章の列が、延々と続いていたのだ。
 だからティレは、本文には目もくれず、挿絵に見入った。
 街が、描かれていた。
 お菓子で出来た、街である。
 チョコレートの屋根、クッキーの壁、ウェファースの塀。そんな建物が並んでいる、夢のような街。
 蜂蜜の香りがする。メープルシロップの匂いがする。ココアパウダーやシナモンが、ふんわりと香っている。
 花の香に誘われる蝶々か蜂のように、ティレは飛んでいた。背中の翼をぱたぱたと動かし、スカートの中から尻尾をニョロリとなびかせて、街の上空を漂っている。
「えーと、私……何で、こんなとこに?」
 きょろきょろと、空中を見回す。チョコレートの尖塔が、視界をかすめる。
 謎めいた書物の、挿絵の中。お菓子の街に今、ティレはいた。
「……本の中に入り込んじゃった、って事?」
 何しろ、彼女の店に置いてあるような書物である。そういう事が起こっても不思議はない、とは思う。
 帰る道を探そう、という思いが全く沸き起こって来ない。
 生クリームやチョコレートの香りが、ティレの思考能力に、甘い麻酔をかけている。
「美味しそう……いい匂い……で、でも食べちゃったら駄目よね、人様のお家だもの……」
「私のお家なら、いくら食べてもいいわよ? 可愛いお嬢さん」
 空中で、声をかけられた。
 パイやタルトやビスケットで出来た城郭が、そびえ立っている。
 その最上階近くの露台に、1人の女性が佇んでいた。
「私の街を気に入ってくれたようで嬉しいわ。お茶でもいかが? もちろん、お菓子もたくさんあるわよ」
 魔法の師匠である彼女に雰囲気の似た、美しい女性。つまり、油断がならないという事だ。
 わかっていながらティレは、ふらふらと露台に近付いて行った。
「あ、あの……初めまして。この街の、御領主様? ですか?」
「そういう事に、なるのかしらね。さ、いらっしゃい」
 女領主が、たおやかな手を伸ばして来る。
 きちんと正門から入るべきではないか、と思いながらもティレは、その手に導かれて露台に降り立っていた。


 メイドが大勢いる。執事も大勢いる。
 1人の例外もなく、メイドは美少女ばかり、執事は美少年ばかりである。
 だが全員、仕事もせずに立っているだけだ。邸内のあちこちで、何もせずに佇んでいる。怠けている、と言うよりも時が止まったかのように。ティレが挨拶をしても、返事をしてくれない。
 メイドも、執事も、菓子だった。
 ケーキドーナツやビスケット生地が、たおやかで精巧な実物大の人型を成し、チョコレートやクリームで出来た衣装をまとい、ゼリーやキャンディーの瞳を輝かせている。
 メイド及び執事の格好をした、菓子の人形であった。
「食べてみたい? その子の手足とか、あの子の生首とか」
 女領主が、にこやかに問いかけてくる。ティレは慌てて、首を横に振った。
「い、いえいえ……みんな、すっごく良く出来てて……食べるの、もったいないくらい」
 不気味だ、というのがティレの本音である。
 嫌な予感もした。
 そんなものは、しかしシナモンの効いたアップルパイの香りを吸い込んだ瞬間、消えて失せた。
 クリームがたっぷりと豊かでいて少しもしつこくないショートケーキを頬張った途端、あらゆる警戒も疑念も、ティレの中から吹っ飛んで消えた。
 ストロベリータルト。チョコレートケーキ。蜂蜜をかけたドーナツ。
 様々なお菓子が、テーブルに並べられている。ティレ1人を、もてなすためだけにだ。
「ああ、駄目……肥る、肥っちゃううぅ……」
 うわ言のような声を漏らしながらもティレは、手と口を止める事が出来ずにいた。
 空になった皿が、凄まじい速度で積み上げられてゆく。
「大丈夫。肥ったら、私の魔法で脂肪を抜いてあげるわ」
「でっ出来るんですか!? そんな事!」
「だから安心して、お菓子を堪能してね……お飲物、ロイヤルミルクティーで良かったかしら?」
 女領主が、紅茶を注いでくれた。
「す、すみません。ありがとうございます……あの、どうして私に、こんなに親切にしてくれるんですか?」
「貴女が、この本の埃を丁寧に払ってくれたからよ」
 女領主が、微笑んだ。
「物を、とても大事にしてくれる子なのね」
「お姉様の……あっいや私がお世話になっている人の、大切な商品ですから」
 菓子の甘味がこびりついた口の中に、砂糖の入っていないミルクティーが心地良い。
 あつかましくブラックコーヒーも所望してみようか、とティレは少しだけ思った。
 女領主が、謎めいた事を呟いている。
「あの女とは、いつか決着をつけないと……ね」
「? 何か、おっしゃいました?」
「いえ、何でもなくてよ」
 女領主が、にっこりと笑った。
 そうしながら、ティレの頭をそっと撫でる。
「私、実はね……恩を着せたくはないのだけど、貴女に1つお願いがあるの」
「何でもしますよ? 私、何でも屋さんですから」
「あらあら、いいのよ。貴女は何もしてくれなくて」
 頭を撫でていた手が、すっ……と動いた。
 女領主の綺麗な細腕が、ティレの首に絡み付いてた。
「あ……あの……?」
「恐がらないで。貴女は、何もしなくていいの……私に、任せてくれればいいのよ」
 何を、などと訊いている場合ではなくなった。
 ドロリとした、おかしな感触が、全身に絡み付いて来たのだ。
 ねっとりとした重さが、生暖かさが、覆い被さって来ていた。
「えっ何……きゃああああああああああ!」
 お菓子で出来た城郭に、ティレの悲鳴が可愛らしく響き渡る。
 大量の、蜂蜜かメープルシロップか判然としないものが、竜族の少女を包み込んでいた。
 翼がはためき、尻尾がうねり暴れて、激しく飛沫を散らす。
「なっ何これ! やめて、助けてお姉様ぁあああ!」
「私のものに、おなりなさいな……あの女よりも、貴女を大切にしてあげるわよ?」
 蜂蜜のようなメープルシロップのようなものが、声を発した。あの女領主の、涼やかな声。
 ティレの耳元に、全身いたる所に、囁きかけてくる。
 羽ばたく翼に、うねる尻尾に、元気良く暴れる手足に、トロリとしたものが容赦なく絡み付く。
 得体の知れぬ感触が、ぐっしょりと服に染み込んで来て素肌を侵蝕する。
 スイーツの甘味に似たものを、ティレは舌ではなく全身で感じていた。
「貴女は永遠に美しく愛らしく、そして美味しくいられるのよ……このお城にいる限り、傷む事もなく」
 たった今、ご馳走になったアップルパイやショートケーキにも勝る極上の甘味が、ティレの神経を、感覚を、心を、全てを蕩かしてゆく。
 蕩けたものが、竜族の少女ファルス・ティレイラではないものとして再構成されてゆく。
「貴女はずっと、美味しそうな……けれど誰も口にする事のない……」
 女領主が、何か言っている。
 だがティレの耳は、可憐な耳朶の形をしたホワイトチョコレートの塊と化していた。もはや、何も聞こえない。
(お姉……さ……ま……)
 ふわふわのスポンジケーキに変わりつつある脳で、ティレは、その言葉だけを思い浮かべた。


 メイド姿の菓子人形が、1体増えた。
 ホワイトチョコレートの肌が綺麗な、美しい少女。尻尾をうねらせ、翼をはためかせ、元気良く暴れながら時を止められている。
「可愛いわ……本当に、美味しそう……」
 魔族の女領主は、呟いた。この場にいない女性に、語りかけていた。
「早く、助けにいらっしゃい……私、この子を食べてしまうかも知れないわよ? だって、あんまり可愛いから……」