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<東京怪談ノベル(シングル)>


氷の温泉


 冬こそ、アイスクリームが売れる。
 サスカッチ族やイエティ族などは、お得意様であると言っていい。彼らは日本のアイスが大好物なのだ。
 カナダやヒマラヤまで、アリア・ジェラーティ自らが大量納品に行く事もある。
 日本の氷菓業界を、世界各地の人間ではない客たちと繋いでいるのは、今のところジェラーティ家の販路だけだ。アリアが切り開き管理している販路である。
 世界に目を向けるのは、確かに大切な事だ。が、地元・日本での商売をおろそかにしてはならない。
 商売とは、大木である。根元の土壌が貧しければ、世界のどこへ枝を伸ばしたところで、いずれは枯れてしまう。
 だからアリア・ジェラーティは、この山を訪れていた。
 小さな身体を包む、毛皮の外套。耳当て付きの帽子から、さらりと溢れ出した青い髪。
 傍目には、ロシア人の美少女である。
 そんな格好でアリアは雪山の中、台車を引いていた。車輪の付いた巨大なアイスボックス、とも言える台車である。氷菓を満載し、大の男でもいささか苦戦するほどの重さになっている。
 それを軽々と引きながら、少女の小柄な細身が、苦もなく雪を掻き分けて行く。
 雪女一族の、とある大物が、この山には住んでいる。日本妖怪の、冬の顔役と言っていい。
 日本での商売をもっと強固なものにするために、彼女とは親密な関係を保っておく必要があるのだ。
 猛吹雪である。並の人間は、ひとたまりもないだろう。
 並の人間が、しかし迷い込んで来てしまう事はある。
 今にも行き倒れになってしまいそうな足取りで、その女性は歩いていた。歩きながら、半ば雪に埋もれている。
 台車を引き、さくさくと雪を踏み分けながら、アリアは近付いて声をかけた。
「……アイス、いる? 新発売の美雪大福・イチゴチョコ味、試供品があるよ」
「ありがとう……だけど今はアイスより、あったかいコンポタかミネストローネ……っていう気分かな」
 女性が、弱々しく笑った。凍死寸前、走馬灯を見ている遭難者の笑顔だ、と思いつつアリアは言った。
「これも新発売、ガチガチ君のミネストローネ味ならあるけど」
「お気持ちだけ、いただいておくわね。ガチガチ君はコンポタ味で懲りたから……それより貴女、地元の子? この辺りに温泉があるって聞いたんだけど、知らないかな?」
 この山に、温泉などない。少なくとも、人間が入るような温泉は。
「私、地元じゃない……けど地元の顔役みたいな人なら知ってるわ。手広く商売やってる人だから、温泉の1つ2つは持ってるかも。案内してあげる」
「た、助かるわ」
 女性が、遭難者の笑みを浮かべた。
 どう見ても、普通の人間の女性である。
 凹凸のくっきりとしたボディラインが露わな、薄手のコート。雪山を訪れるには、いささか軽装過ぎると言わざるを得ない。
 今、自分が着用しているような、ロシア帽とロシアンコートが似合うのではないか。ふとアリアは、そんな事を思った。
 アリアの思いなど知る由もなく女性が、何やら感心してくれている。
「貴女って、小さいのに力持ちなのねえ。こんな大雪の中、そんな荷物を1人で引っ張って……お家の、お手伝い?」
「お手伝いって言うか、仕事。私、寒い所でなら、いくらでも力持ちになれるから」
 言いつつアリアは台車を引き、さくさくと雪の中を進んだ。
 そうしながら、ちらりと振り返る。
 少し進んだだけなのに、女性はもう遅れていた。雪に埋もれそうになりながら、のたのたと懸命に追い付いて来る。
「……台車に、乗る?」
「そ、そんな事まで……してもらう、わけには……いかないわっ」
 たおやかな手足で雪と格闘しつつ、女性は辛うじて声を発した。
「温泉よ、温泉なのよ……美肌効果が、私を呼んでいるの。自力で、辿り着いてみせるわ」
 いくらか幼げな可愛い顔をしているが、実際は微妙な年齢に差し掛かっているのだろう。美肌効果のある温泉と聞けば、いても立ってもいられなくなってしまうに違いない。
 だから、不確かな情報だけで雪山に踏み込み、こうして遭難してしまう。
「お仕事、って言ってたわね……どんなお仕事? あ、私は響カスミ。職業は音楽教師よ」
「私はアリア・ジェラーティ。アイス屋さんよ」
 歩きながら、喋りながら、アリアはおかしなものを見つけた。
 雪の塊。いや、氷の塊に雪が付着したものだ。あちこちに、転がったり立てられたりしている。
 その1つにアリアは近付き、表面の雪を拭い落としてみた。
 青ざめ固まった、若い男の顔が現れた。
 氷の塊は、凍結した人間だった。この響カスミのような、温泉目当ての観光客であろうか。
 スキーウェアを着た者もいる。
 観光地でもスキー場でもないのに、踏み込んで来たがる輩はいるものだ。
 そして今、響カスミも同じ目に遭っていた。棺桶のような氷に、いつの間にか閉じ込められている。
 氷漬けとなった彼女の周囲で、白い小さな生き物が2匹、ぴょこぴょこと跳ねていた。
「凍った、凍った」
「友達増える、また増える」
 幼い、男の子と女の子。双子の、兄妹あるいは姉弟であろうか。
 雪ん子、と呼ばれる冬妖怪である。
 アリアは、とりあえず声をかけた。
「これ全部……あなたたちが、やったの?」
「うん。人間はね、凍らせると友達になってくれるんだよ」
 氷像と化したカスミの上に、小さな雪だるまや雪兎を載せたりしながら、雪ん子たちは言った。
「人間は、凍って死ぬと雪ん子になるんだよぉ。お母ちゃんが言ってた」
「この山、雪ん子でいっぱいになるの。みんなで遊ぶの!」
 アリアは振り返り、そこに立っていた女性に問いかけた。
「……昔話でも、したの?」
「うん、死んで雪女になった村娘の話をね……そしたら、こいつら信じちゃってさあ」
 雪ん子たちの母親……雪女が、いつの間にかそこに立っていた。
 この国における、冬妖怪の顔役である。
 アリアは、アイスボックスを開いた。
「ちょうど良かった、貴女に会いに来たの。今日はバーゲンダックの試供品を多めに持って来たわ。雪女って、意外と高級志向みたいだから」
「まあ、カナダやヒマラヤの連中には駄菓子感覚が受けてるみたいだけどねえ」
 雪女が、アイスボックスを覗き込んでくる。
「……このミネストローネ味ってのは、売れるのかい?」
「コンポタ味とミートソース味は、意外と売れたわ」
 答えつつアリアは、氷菓の試供品をいくつか取り出し、掲げ、雪ん子たちに声をかけた。
「アイスあげるから……この人たちを、お家へ帰してあげてくれない?」


 サスカッチやイエティと比べて、ずっと小柄な日本の雪男たちが、氷像と化した人々を手際良くソリに乗せ、運んで行く。雪女の命令で、温泉へと。
 この山に、温泉は本当にあった。
 雪女が経営している、人間ではない客向けの温泉旅館である。
 だから、湯は凍っていた。
 人間は、凍った温泉を堪能する術を持たない。
 人間が入れるよう、一時的に湯を解凍する事は出来るが、いくらか時間がかかる。
 だからカスミは、他の凍結遭難者たちと一緒に、凍った湯の上に放置された。
 無論、そんな記憶は残っていない。
 解凍された温泉に浸かって、元に戻る事は出来た。
 だが一体いかなる状態から元に戻ったのか、自分がどういう目に遭ったのか、そもそも何故あんな山へ行く気になったのか、響カスミは全く何も覚えてはいなかった。
「ええと……そうだ、温泉へ行こうとしてたんだっけ? まあ、それはまた今度でいいわ」
 鏡の前で、カスミは身を翻してみた。
 ロシア帽とロシアンコートが、なかなか似合っている。
 もちろん自慢などした事はないが、ボディラインにはいささか自信がある。
 ふかふかと分厚い外套に、女らしい凹凸がさり気なく浮き出ているのが、良い感じだった。
 差出人の欄には「アリア・ジェラーティ」という名前が記載されていた。
 つい最近どこかで聞いたような人名であるが、やはり思い出せない。
 どんな人物か思い出せないから、お礼に何を贈れば良いのかもわからない。
「とにかく、何か買って来ましょうか」
 それは口実に過ぎない。本当は、新しい服を来て外出したいだけだ。
「女の子だもの、ね……っていう年齢でもない? あはははは」
 いくらか引きつった笑い声を発しながら、カスミはマンションを出た。
 冷たい風が吹いた。
「お礼なんて、いらないから……」
 ロシア人少女のような服装のアリア・ジェラーティが、そこにいた。
「カスミちゃんに、私とお揃いの格好をさせてみたかっただけ」
 そんな言葉を、カスミはすでに聞いてはいない。聞こえていない。
 寒そうに身をすくませたまま、カスミは凍り付いていた。棺桶のような氷に、閉じ込められていた。
「そのうち、元に戻してあげる……」
 ロシア風の服装で氷像と化した女教師を、アリアはひょいと台車に載せ、運び去った。