|
sinfonia.37 ■ 長い夜
「私はもしも勇太がアナタの凶行を止める為に私に向かって死ねと言うなら、それを受け入れるつもりです」
――それが、信じるという事ですよ。
自分の眼を真っ直ぐと見つける、藍色がかった黒い双眸の持ち主に、霧絵は言葉を呑み込んだ。
「……それはつまり、溺愛している、とでも言いたいのかしら?」
「さぁ、それはどうでしょうね……」
先程までの断言する態度から一変して、凛は磔にされている中空で自嘲気味に笑いながら言葉を濁してみせた。
「……世界を見せてくれた。生きる望みを与えてくれた。半ばヤケクソ気味に、自分の死を受け入れようとしていた私に、勇太は色々なものを与えてくれました。望みを失い、絶望に慣れる為に自らそうした道を歩こうとする私に、彼は前を向く力を与えてくれたのです。
それはただの愛だの恋などと、まるで一時の感情の麻薬のような快楽を与えてくれるものではなく、もっと深く、もっと大きな想いとなって私の中に芽生え、息づいている。
これを『溺愛』などという言葉で表すのは不本意で、でも自分以外から見れば確かに溺れているかのようにも見えてしまうでしょうね」
「惚気話を聞く気はないけど?」
「いいえ、巫浄霧絵。アナタは聞かなくてはなりません」
再び表情が変わり、真剣な眼差しで凛は霧絵へと言い放つ。
――こんな戯言、無視してしまえば良い。
冷静な、至っていつも通りの霧絵ならばそう切り捨てただろう。
だがそれが出来なかった。
あの、ファングの死に際の一言が。
凛のまっすぐな言葉が、どうしても過去の自分を揺り動かしてしまう。
そのせいで、つい霧絵は思い出してしまう。
自分が、どうしてこの修羅の道へと足を踏み入れなくてはならなかったのかを。
自ら世界を呪い、虚無へと還ってしまえば良いと願うに至ったのかを。
だから霧絵は、背中を向けて歩き出そうとして開きかけたその足を再び閉じる。
まっすぐ向けられた凛の視線に対峙した。
「……私が聞かなくてはいけない理由。そんなもの、あるのかしら?」
「アナタは、あまりにも私に似ている」
凛の言葉に霧絵の眉がぴくりと動き、目を細めた。
そんな霧絵の反応に気付きながらも、凛は言葉を続けた。
「絶望の淵で長い時間を過ごし、世界を呪い、死さえも受け入れようとした。アナタはそういう意味で、私に似ています」
「……ハッ! まさか、あのオリジナル――いいえ、工藤勇太が現れなかった私を憐れむつもり?」
フザけるな、侮るな。
そんな気持ちを笑い飛ばすように、霧絵は凛に向かって告げる。
さっきまでの惚気話の延長だとしたら、とんだ時間の無駄だ。
再び歩き出そうかというところで、凛の「そうではありません」という静かな、それでいてその名の通り、凛とした表情が霧絵の足を地面に縫い付けた。
「『虚無の巫女』。そして、私の扱う神気とあまりにも似た、言うなればアナタの使う怨霊の力。それらの言葉に加えて、私がアナタに感じた奇妙な親近感。
アナタも、私と同じ一人の巫女の立場だったのではないのですか?」
凛の言葉に霧絵が僅かに目を瞠る。
それらの情報から、自分の出自を推測したという凛の勘は、あまりにも的確に霧絵の過去を露見させた。
そんな霧絵の動揺に気付き、凛は確信する。
自分の推測は間違いではなく、確実に当たっているのだろう、と。
そして同時に、霧絵の狙いを見抜いた。
「……悲しい人ですね。行き場のない終着点を、自らの命を天秤に乗せて委ねる。
悲しく、あまりに愚かな選択です」
「何を言って……――」
「――虚無の降臨」
霧絵の言葉を遮るように、凛が口を開いた。
「……恐らく、『虚無』とは神の化身ではなく、一つの思念の集合を指す言葉なのでしょう。恨みや憎悪、嘆きに叫び。そういった負の感情の集合体が生み出した、一つの産物。まがい物の神。それが虚無ですね」
「――……ッ!」
「そして、それを降臨させるには媒介が必要。『虚無の巫女』とは、その器となる存在、というところでしょう……。
では何故、アナタがその器になろうとしなかったのか。私にはそれが今、ようやく理解出来ました」
「……黙れ……」
「『媒介』が神の力を得て定着すれば、もう取り返しはつかない。だけどこの陣――これは制限を施す陣。アナタは虚無を止める方法を残しながら、虚無を喚び出そうとしている」
「……黙れ……!」
「自分がただ降臨させるだけでは虚無はきっと消せない。だからこそ、アナタは私という器を必要とした。毒物を扱う者が解毒剤を持つように、アナタは自分が死ねば虚無が消えるという解決方法を残したかった。
制限つきの陣をわざわざ描き、そうする事で全てを壊してしまわぬ方法を、その道筋をどうしても残す必要があった――!」
「黙りなさい!」
「――アナタは! ……アナタは今でもまだ、誰かに止めてもらいたがっている。
自分ではすでに引き戻せない位置にいるから、誰かにそれを委ねたがっているだけの、ただの憐れな人です」
凛の言葉と同時に、薄暗い室内には沈黙が流れた。
ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎が、影だけを伸び縮みさせる。
霧絵はいつもの涼しげな表情を苦々しく歪ませ、俯いていた。
「……私は、虚無をコントロールする為にこれを用意し、アナタという器を欲した。ただそれだけよ」
「……それは、失敗します。勇太がそれを見逃すはずがありません」
凛が穏やかな声で、霧絵の言い訳を一蹴してみせる。
その声に、霧絵が一体どんな表情を浮かべたのか。
凛にはそれが見えなかった。
背中を向けて歩いて行く霧絵を見送りながら、顔をあげる僅かな瞬間に見えた霧絵の表情に、哀しげに目を伏せた。
「……勇太。アナタなら、きっと……」
先程、一瞬だけ見えた霧絵の顔。
それはどこか、憑物が落ちてすっきりとした、晴れやかな表情のような気がした。
◆
一方、凛との会話を終えた霧絵が薄暗い廊下を歩いていると、不意にその足を止めた。
「今更顔を出して、一体どういうつもり?」
暗闇の奥から歩いてきたのは、黒いスラックスに黒いドレスシャツを着た一人の男。
先日勇太が傷を負った際、武彦と言葉を交わしていた男――宗であった。
ポケットに手を突っ込んだまま、目元にはサングラスをかけている。
「なぁに、いよいよクライマックスという訳だ。その顛末でも見届けてやろうかと思って、な」
地面だけ見れば冗談めいた言い方ではあるが、その口調は実に淡々としたものであった。
霧絵と対峙するように、宗は足を止めた。
「……まさか、とは思うが。情に流されて自分の進むべき道を見失う、なんて事はねぇだろうな」
「愚問ね。私が自分の道を今更踏み外すとでも?」
「……そうだな。少なくとも、俺はその光景をこれまでに三度、目の当たりにしてきたんでな」
宗の言葉に霧絵の眉がぴくりと動いた。
「……そんなに長い付き合いだった憶えはないのだけど?」
「そりゃそうさ。今回はまだ見てないから、な」
相変わらず、何を言っているのか分からない男だ。
霧絵は宗に対して訝しむ。
この男との出会いは、唐突だった。
突然自分達の研究に協力すると申し出て、事ある毎に姿を現してきた。
(……宗。一体、この男は何者なのかしら、ね)
今までは、ただの狂人の一人だろうと当たりをつけていた。
深く関わらないのだから、それで良いだろう、と。
だがここに来て、霧絵は今更ながらにこの男の存在に疑問を抱いた。
何故ならこの場所は、今まで虚無の境界の誰にも告げておらず、自分だけが秘匿してきた場所だ。
何食わぬ顔をして姿を現したこの男に、正直に言えば驚きを禁じ得なかった。
「……そういえば、宗。アナタが言っていたアレは、一体どうなったの?」
「アレ……?」
「『筋書き通りのセオリー』、だったかしら。たまに口にしていたでしょう?」
宗はよくその言葉を口にしていたのだ。
未来を予見する能力者かと尋ねた事もあったが、それは違うと首を横に振られてしまったのは今も憶えている。
霧絵の言葉に宗はくつくつと込み上がる笑いを噛み殺すかのように、肩を上下に揺らした。
「――そうだな。今回のお前の行動は、『最高の筋書き』だ」
「……なら良いわ」
短く告げてその場を去っていく霧絵を肩越しに感じ、宗は壁に腰掛けるとサングラスを外した。
「……本当に、今回ばかりはうまくいってもらわねぇと、な。
頼むぜ、勇太」
――――小さく、誰にも聞こえない声で宗は呟いたのであった。
to be continued...
|
|
|