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distance
メトロを使っての移動を終えて、フェイトは今クレイグのアパートを訪れていた。
電話で伝えたとおりなのだが、彼の部屋の前でインターフォンに指を伸ばしたまま、その動きが止まっている。
「…………」
フェイトの表情は決して明るいものではなかった。
電話の向こうのクレイグは慌てているようでもあった。それが気になっているのか、思考が良くない方向へと行ってしまうらしい。
もしかしたら、この扉の向こうに誰か――。
――自分の知らない『誰か』が居たら。
クレイグは女性に人気がある。彼の体を心配して部屋を訪れている存在が居てもおかしくはない。
そう思ってしまい、フェイトは深い溜息を吐いた。
そして彼はインターフォンを鳴らさず、扉の横に医務室で預かった紙袋を静かに置いて、踵を返した。
心は寂しい感情が広がったままだ。
不思議と前に進む足が重かった。
「――おっと、ユウタ。忘れもんか? だったら向かいのコーヒーショップで俺のも買ってきてくれ。Lサイズのな」
「!!」
ビクリ、と肩が震えた。
扉の開く気配などしなかったのに。
「……、……」
口を開いたが、言葉が出なかった。
何を恐れているのかと心の中で思うが、どうしてもクレイグを振り向けない。
「ここまで来て、俺の顔も見ないで帰るのか?」
クレイグの声はいつもどおり優しかった。
その声音がじわりとフェイトの心に染みこんで、思わず涙腺が緩む。
「……クレイは、ズルい」
「まぁな、自覚はある。今回の件は素直に謝るよ。だからこっち向いてくれ」
トントン、と木を叩く音が聞こえた。
クレイグが扉に添えている手の指でケージングを叩いたのだ。
それに釣られるようにして、フェイトはゆっくりと首を動かした。
視線の先にいる姿には、変わりは見られない。だが、水気を含んだままの髪がいつもと違った彼を感じて、フェイトは僅かに胸を高鳴らせた。
「ほら、入れよ」
クレイグは指と言葉でそう促してくる。
履きこまれた感じのあるジーンズの上に、白いシャツ。ボタンの掛けられていないそれの上にはタオルの存在がある。
「……そう言えば、シャワー浴びてたって……」
「まぁ、任務で色々と汚れてたからなぁ。その辺の話も、中に入ってからにしようぜ」
彼はそう言って、足元の袋を紙袋を持ち上げた。
先ほどフェイトが置いたものだった。
「…………」
「ユウタ、入らねぇとキスすんぞ」
「お邪魔します」
いつまで経っても足を進めようとしないフェイトに、クレイグがとんでもないことを言ってきた。
それを耳にした直後、フェイトは真顔になり躊躇いもなく家主を押しのけて部屋の中へと入っていく。
クレイグはそんなフェイトの行動を見て、小さく笑ってから扉を閉めた。
「座ってろよ」
「あ、うん……」
いつも通りのリビングだった。
そして位置の変わらないソファに促されて、フェイトは遠慮がちにしながらもゆっくりと腰を下ろす。
クレイグは飲み物を取りに行ったのか、すぐに台所へと姿を消した。
目に見える限りでは、『誰か』を感じるものはない。
フェイトはそこで、小さなため息を吐いた。
「……なんだよユウタ。俺を疑ったのか?」
「え、い、いや……」
クレイグがそんなことを言いながら戻ってきた。右手にミルク入りのアイスコーヒー、左手にビールの缶が収まっている。
そして彼はコーヒーのグラスをフェイトの前に置いてから、隣にどさん、と座り込んだ。直後、「……ってぇ」との声が漏れてフェイトは慌てて顔を上げる。
「クレイ?」
「あー……ほら、コレな。時間経つたびにじわじわとな」
思わず口をついて出てしまったと言わんばかりだったが、それでもクレイグは取り繕うこともせずに苦笑しつつシャツの襟を捲ってみせた。
その向こうに見えたのは赤く広がる打ち身の痕である。
「明日以降は青くなりそうでなぁ」
「……ちょっと、クレイ。ちゃんと見せて」
ハハ、と笑いながら言うクレイグに対して、フェイトは厳しい表情を見せて身を乗り出す。
そして彼の返事を待たずにシャツを掴んでバッとそれを広げた。
「…………っ」
両肩と左の脇腹。そして二の腕辺りにある赤い色。
フェイトの知る限りではクレイグにそんな痣があることは記憶に無い。
間違いなく、数時間前の任務での怪我の証だった。
「こんな、体で……あの時、俺を背負ってたのか……」
「見た目が大袈裟なだけさ。それに、顔は守ったしな?」
「茶化すなよ」
フェイトが距離を詰めてきたので、クレイグが若干身を引いた形となりながらの会話だった。
傍から見ればフェイトが彼を押し倒している構図になるのだが、本人はそれどころではないらしい。
「……まぁ、な。俺も医務室でまともにこの痕見て、自分でも引いたよ。だからお前に何も言わずにさっさと帰ってきちまったんだ」
「クレイ……」
「俺も結構、弱ぇなって思ってさ。精神面ではかなりタフだと自負してるんだけどな。お前を守るって言っときながら、このザマかよってな」
クレイグがそう言いながら苦笑する。
自分を嘲笑っているのだ。
そんな彼の表情を見て、フェイトはゆっくりと俯いた。
「幻滅したか?」
「そんなこと、無い……」
クレイグの右手が伸びてくる。
指先がフェイトの頬に触れて、そのまま耳まで滑りこんできた。
それを受け入れて、フェイトは再び彼を見やる。視線の先にある、見慣れた顔。いつもは自信に満ちているそれが、今は少しだけ怖がっているようにも見える。
「俺は十分、クレイに守ってもらってるよ。今日の任務だって……クレイが居てくれなきゃ、どうなってたか」
「危なっかしいじーさんもいるしなぁ。あいつ、お前に銃向けてやがった」
「グランパは……最初から、そのつもりで俺の監視をしてる人だからね。俺みたいに虚無と深く関わった過去がある存在が、IO2でエージェントとして動いてるのも、上層のほうでは重要項目みたいだからさ」
フェイトの言葉に、クレイグは納得がいっていないようだった。
あの老エージェントに盗聴されていたことも含めて、やはり不満が拭えないらしい。
「彼は自分の役目を貫いている誠実な人だよ」
「やり方が卑怯なんだよ。お前が良くても俺が嫌だ」
「うん、だから……クレイはクレイの思うようにいてくれたらいいし。俺も簡単には『そう』ならないし、なるつもりもないからさ。あ、でも、今回みたいな自分を犠牲にする方法はもうやらないでよ」
フェイトはクレイグのシャツを掴んだままでそう言った。
相変わらずの体勢のままだったが、表情は真面目である。最後の方の言葉は語気が強く、若干怒っているかのようでもあった。
クレイグは思わず表情を崩して、困ったように笑ってから「わかったよ」と言った。
「……それから、改めてだけど……こんな俺を受け止めてくれて、ありがとう」
「ユウタ……」
今日のフェイトの心情は忙しかった。だが、最初に抱いていた尖った気持ちはもうどこにも存在はしない。
今はどちらかと言うと、照れの部分が大きいようだ。
そして彼は、それを隠すかのようにして次の行動に移った。
視界に映り込んだままの、クレイグの痛々しい打撲の痕――。
フェイトはごく自然に、それの一つに唇を寄せてきた。
「――――」
さすがのクレイグも、そんなフェイトの行動に顔色を変える。
何の躊躇いもなく自分の肌に触れるその唇を、平常心を保ったままで受け止めろという方が無理な話である。
「……あー、ユウタ?」
「なに?」
確認のために名前を呼ぶと、フェイトは変わらずの返事をくれる。
それを間近で見て、クレイグは「はぁ」とため息をこぼした。
そしてフェイトの肩に手をかけて、徐ろに身を起こす。
「お前、自分が何してるか自覚無いだろ?」
「一応、早く良くなりますようにって言う、おまじないのつもりだったんだけど」
「……まぁ、そりゃありがたいけどな」
きょとんとした顔を見つつ、苦笑する。
そしてクレイグはフェイトの顎に手を添えて、起こした上体を彼の方へと傾けさせた。
「クレ……」
「黙ってろ」
フェイトがクレイグの名を呼ぼうと口を開く。
だがそれは、彼の言葉と行動に遮られる形となった。
目の前にあるのは見慣れた金糸。それが近いな、と思った時には反応すら出来ない状態であった。
数回、瞬きをする。だが、今の距離は少しも変わりなかった。
「……、……」
ふ、と唇に息が掛かるのを感じて、思わず瞳を閉じる。
「……目を閉じるタイミング、違うだろ?」
クレイグがそう言って笑ったが、フェイトは言葉を作ることが出来なかった。
一気に高まった羞恥心で、彼の姿を垣間見ることすら出来ずにいる。
「かわいいなぁ、俺のユウタは」
「お、俺のって……」
「違わねぇだろ。……それから、何か誤解してたみたいだから一応言っとくが、俺は特別なやつ以外は自分の部屋には入れねぇよ」
言い切る言葉と、フェイトが数分前まで心に育てていた誤解を断ち切る言葉をアッサリと告げたクレイグの表情は、いつもの色だった。
唇に残る熱。
色々と言いたいことがあったが、フェイトはそれを言えなかった。
心を支配している感情が今はそれどころでは無かったからだ。
一度息を飲み込んでから、再び口を開く。
「……クレイ、俺は……」
「さーて、明日から休暇だなぁ。旅行でもするか?」
フェイトが何かを言いかけた直後、クレイグはそれを遮るようにして話題を変えた。
それに驚き瞠目するが、彼の言葉の内容にも更に驚き、表情を崩す。
「え? クレイも……?」
「まぁ、見た目だけで言えば結構な怪我だからなぁ。お前の電話の後に連絡来て養生休暇出されちまったよ」
「そ、そうなんだ……」
困っているかのような言い回しではあったが表情はそうでもないクレイグに対して、フェイトは若干呆れ顔になった。
クレイグはそんなフェイトに小さく笑って、右手を彼の頭の上にぽんと乗せてから自分へと引き寄せる。
「――言葉の続きは、その時にでも聞かせてくれ」
「!」
低い声が耳元に降ってきた。
至近距離で囁かれたその声音に、フェイトは素直に肩を震わせる。
全身が痺れるかのような響きは、もう幾度かこの距離で耳にしている。だがそれでも、慣れることは出来ない。
テーブルの上に置かれたままになっているアイスコーヒーのグラスから、カランと氷が動く音がした。
それに気づくも、フェイトはその場から動くことが出来ずに暫くクレイグの腕の中に収まっているのだった。
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