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<東京怪談ノベル(シングル)>


Dani California



 外界での音や光源、そういった類のものから完全に遮断された空間の中、あるのは大きな円形のプール――実質的には水槽と称されるべきもののみだ。深さも相応にあり、付属される機材の様々も相まって、それが本来水泳を目的として造られたものではなく、何がしかの実験を目的として造られたものであろう事を連想させる。
 静かに波を打つ水色の水。機材の類は稼動していない。室内のいたる場所に設置されている照明は、今はその中のいくつかだけが点けられている。
 静かな波を打っていた水面が、ゆっくりと大きな波紋を広げていく。波紋は見る間に広がり、その中心がやがて内側から大きく噴き上がるような波を描いた。その中から顔を覗かせたのは短く切り揃えられた銀髪の男――奈義紘一郎。壮年に届く齢の彼の面には眼鏡もかけられてはおらず、頭髪は水を含み存分に濡れ、光源の影響もあってかプラチナのような彩色を閃かせている。
 際まで辿り着くと淵に腰をかけ、紘一郎は深く息を吐いた。顔に張り付く頭髪をざっくりとかきあげる。
 現在進めている研究の内容は想定以上に難解となっていた。ゆえに自宅に戻る機は極端に少ない。誰かに声をかけられればそれなりに手入れこそしているものの、それでもやはり無精ひげは伸びてしまっている。ろくな食事も摂らず――研究に没頭してしまうと飲食という行為を失念してしまいがちになってしまうのだが、いずれにせよ眼光ばかりが妙にギラついているのは、研究対象に向けられた興味や好奇心、貪欲なまでの知識への渇望。そういったものが満たされているからなのだろう。
 『虚無の境界』という組織の息がかかる研究所。そこに属し、組織からの依頼を請けて――あるいは依頼とはまるで関わりなく、個人的な興味の果てとして。
 重ねているのは様々な生物を使った兵器の創造だ。
 まだ塗れたままの髪をもう一度乱雑にかきあげて、紘一郎は再び水槽の中の深い水の底に身を沈める。
 そもそも、この水槽も研究に使われる生物たちを捉えておくためのものだ。最近、半ば戯れに試したのは、俗に言う蟲毒という呪術を真似てみたものだった。
 種類の異なる生物を多く水槽に放つ。餌は与えない。腹を空かしたものは他のものを餌とする。そもそも、そういった生態系は実験を行うまでもなく、自然界においてはごくありふれたものにすぎない。けれどこの水槽と自然界という広大な水中との間には、隔絶とされた確かな違いが存在する。
 生命は自らの種を絶やすことなく存続させていくための行動をとる。交わり、子を成すことで、彼らの多くはそれを可能としてきた。けれど水槽の中には種を残すための番いは存在しない。あるのは己ただひとつのみ。喰われればそこで尽きるだけのものにすぎないのだ。
 餓えに憑かれた生物が互いを喰らいあう。水槽を満たしていた数多くの生物たちは次第に数減り、代わりに肥えたものが我が物顔に水面を切っていく。
 紘一郎は水を切る。先ごろまで、戯れの実験が施されていた水槽だ。他の研究員たちは未だにこの場を厭う。ゆえに当面はこの水槽で新たな実験が行われることはないだろう。その中で泳ぎながら思索を広げる男のことも、彼らは稀有なる目で見ているのかもしれない。あるいは紘一郎もまた、彼らの間で密やかに厭われているのかもしれない。――けれどどうであっても紘一郎が意に留めるようなことに値しないのだ。
 思索を向けるべきは次なる創造。
 遥かな昔、見も知らない何かが世界を創り、生物を創ったのだという。そのまま、自然のあるがままに育ち変容していくのが正統なる流れであるならば、それを縫いつけ新たな生物――キメラを創造している自分たちは、何よりも深い業を負っているのかもしれない。
 視界の先で水が大きな波を描き揺れる。
 ともすれば痩せぎすにすら思われがちな紘一郎だが、その実、高校時代三年間で通し鍛えた体躯は未だ衰えることもなく、無駄な肉もなく整えられたままだ。引き締まった長い腕が水路を切る。視界の中、紘一郎に並び泳ぐ水棲のものたちの幻影が過ぎていく。
 他の生物を喰らい肥えていったものの数は五つになり三つになり、やがて二つを残すところとなった。三つ角を描くに至ったかれらの力は拮抗し、沈黙のままに数日が過ぎた。変化が見られたのは四日目の朝のこと。
 二つが計ったようなタイミングで動き、残る一つを襲撃したのだった。二つに襲われたものは成す術もなく喰われ、やがて水槽の水の一郭を赤く染めて尽きていった。
 力を重ねた二つの生物は、種こそ異なるものの、奇妙な縁を結ぶに至ったのだろうか。――それから数日はまるで番いを得た同士のように睦まじく過ごしていた。が、それも一週間を数えた後、大きな変容を迎えることとなったのだ。
 生殖行動を行いながら互いの肉を喰らい合う。尾が水を叩くたびに水槽は赤く染まっていった。まるで泣き喚いてでもいるかのように、かれらは尾で水を叩き続けていた。水色の水はやがて赤黒い色に変わる。研究員たちは皆一様に呆然としたまま事の流れを見守り続けるばかり。
 かれらは互いの肉を喰らい合い、肉片を散らし腑を垂れ流す。尾は赤黒い水を叩き続けていた。
 水槽の深くにまで潜水する。真ん中を過ぎた辺りで動きを止めて、紘一郎は頭上で揺れる水の流れに目を向けた。
 皆が、水槽の中で起きている事態を理由もなく恐れた。打ち震え、涙するものもいた。膝をついて祈り始めるものもいた。その中でただひとり、紘一郎だけが満面に喜色を浮べて水槽の中に潜ろうと試みていた。
 蟲毒はより強力なキメラを創りあげていく実験にすぎない。呪術を否定するものではない。紘一郎は魔術や錬金術というものの学徒となり修学した身でもある。科学などというものではおよそ解明の届かぬものも、世界の至る場所に満ちている。それでも紘一郎という男の心を動かすのは己の心を煽動し満たす好奇、その一言に尽きるのだ。
 ――より間近で、かれらが迎えようとしている結着を見てみたかった。そのためには水槽の外にいるのでは間に合うわけもない。かれらの選別した終結は、かれらのすぐ間近に身を置いてこそ体感出来るものであるはずなのだ。
 けれど紘一郎の望みは他の研究員たちの制止によって妨げられた。伸ばされる数多の腕にも似た楔が紘一郎の身体を捉え、彼はそのまま冷たい床の上に押さえ込まれてしまったのだ。どうにか持ち上げた頭の先、水の中、二つの生物のすがたはもうどこにも見えなくなっていた。赤黒く染まった水は大きな波を打ち、その所々にかれらの残骸が散り浮いていた。尾が水を叩く声ももう途絶えてしまっていた。
 そうして結局そのまま、かれらの姿は水槽のどこにも見つかる事はなかったのだ。
 仰ぐ水上、紘一郎の周りで静かな波を描くそれは水色の水だ。もうかれらを目にする事はないだろう。漠然とそう思う。
 蛇は己の尾を喰らうかたちを描く事で永劫をかたちづくるのだという。かれらは、互いが互いを喰らうことでウロボロスのようなものと変じてしまったのではないだろうか。永劫を描くものとなり、紘一郎の手の及ばぬどこか遠く――高次の彼方に逃げおおせてしまったのではないのだろうか。
 ――手の届かぬ、
 紘一郎はふと口角を歪めあげる。
 ならばいずれ、手の届くものとしてしまえば良いだけのこと。高次にすら届く力を創り、そこに至れば良いだけのことだ。
 わずかに肩を揺らした後、紘一郎は水面を目指し浮上する。また次なる創造にかからなくてはならない。




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F.ayaki sakurai/MR