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覚悟と真実
日が傾きかけたある日の夕方。夕闇迫ると言うのに、遠くでは蝉が余生を惜しむかのように忙しなく鳴き続け、その中に混じってひぐらしの鳴く声も聞こえてくる。
先日降った雨の影響か、空気中にはじっとりとした湿気が含まれて心なしか息苦しい。
帰宅を済ませる会社員がまばらに歩いている以外、人が居る風ではない閑静な住宅街の路地に、青年は手にみやげ物と小さな花束を持って立ち、道の先をじっと見据えていた。
青年の名は、晶と言う。
晶は道の先にある小さな家の一つを見つめたまま、大きく息を吸い込んだ。
さっきから心臓がバクバクと音を立てて落ち着かない。緊張して、蒸し暑さもあまり感じない。だが、俄かに手のひらだけが妙に汗ばんでいる。
本当に、招かれていいのだろうか……。
そんな不安を感じつつも、今日の夕飯に招いてくれた弥生とヴィルヘルムの事を思えば断りきれなかった。
『良かったら、うちに夕飯を食べにいらっしゃい。遠慮なんていらないのよ? 人が多い方がご飯だって美味しいもの』
ニッコリと微笑む弥生の表情はとても優しげで、最初は軽く断っていたものの、結局はその笑みに誘われるまま頷いていた自分がいる。
なぜだか、どうしようもなく緊張する……。
こくりと喉を鳴らして息を呑む晶だったが、硬い表情とは裏腹にどこか嬉しさと照れくささが入り混じったような感情が窺えた。
「よし……。行こう」
誰に言うでもなく、手にした物をぎゅっと握り締めて、吸い込んだ息をゆっくりと吐き出しながら晶は一歩足を踏み出した。
******
晶が、これまで接触を避けていた弥生とヴィルヘルムの家での夕食に呼ばれる事になったのは、赤ん坊が生まれたあの冬の日の出来事にある。
あの時晶は、友人と共に出産を終えたばかりの弥生の見舞いに行く予定だったのだが、複雑な心境と気持ちの整理がどうしても付けられずに逃げ出してしまっていた。
(言える訳がない。俺が、あの二人の息子だなんてこと……。そんなこと言ってしまったら……接触をしてしまったら、未来が変わってしまうかもしれない。そうしたら今の俺は、存在しない可能性だって否めない……)
暗い自室のベッドの上で膝を抱いて顔を伏せ、悶々とそんなことを考えていた晶は顔を上げる事もなく深い嘆息を漏らす。
カチカチと規則的に動く時計の秒針の音がやたらと耳障りだ……。
「……もし、生まれてきた子供が俺じゃなかったら……」
考えられるあらゆる可能性に直面するのが怖くて、とてもじゃないが腰が上がらなかった。
その時、傍においていた携帯が思い出したようにけたたましく鳴り響き、晶はハッと顔を上げて着信画面に目を向ける。
何度も鳴り続いていて、居留守を決め込んで出なかった電話番号。鳴るのを止めてから小1時間は経った今、再び晶の携帯を鳴らしている。
どこか乗り気ではなかったが、晶は緩慢な動きで携帯に手を伸ばして電話に出ると、友人は少し呆れたような、どこか安堵したような声で話し出した。
『やっと出た。何回鳴らしたと思ってるんだよ』
「……あぁ。ごめん」
抑揚の無い声で謝ると、友人はそれ以上責めて来る様子もなくしばし黙り込んだ。
だが、ややあって、短いため息と共に話を切り出す。
『……あのさ。今、逢って来たよ。二人に』
「……そうか」
力なく答えると、まるで躊躇っているかのように少し間を置いてから友人が切り出す。
『……逢いに行かないのか?』
「……」
その問いかけに言葉が詰まった。
何も言えずに押し黙っていると、友人は穏やかで、しかししっかりとした口調で喋る。
『行って来いよ』
その言葉の中には「大丈夫だから」と言う意味も込められていて、晶は小さく息を呑み軽く唇を噛んだ。そしてそっと目を閉じ、小さく頷く。
「……分かった。行くよ」
その言葉が、晶の迷う気持ちを後押ししてくれた事に違いは無い。
電話を切り、ベッドから降りて支度を整えた晶は迷うことなく二人のいる病院に続く道へ足を踏み出す。
外に出ると、いつの間にか降り出していた雪は薄っすらと地面を白く彩り、踏むと鮮明な足跡を残していく。
この足跡のように、消えてしまうようなことがないと信じたい。
自分の踏んだ足跡に視線を落としながら心の中で物憂げに呟くと、くるりと踵を返して歩き出した。
夕方遅くに立ち寄った病院には、既に明かりが灯っていた。早くしなければ面会時間も過ぎてしまうかもしれない。
晶は屋根の下に入ると衣服に付いた雪を払い落とし、電話を切る間際に友人が教えてくれた病室へと足を運ぶ。そして、病室の前に立ってもう一度目を閉じ、落ち着かせる為に深く息を吸い込む。
大丈夫……。たとえどんな現実が待っていても、受け入れられる。何より、友人が後押ししてくれたぐらいだ。問題は無い……。
閉じていた目を開き、一歩病室へと足を踏み入れた。
その時、弥生とヴィルヘルムは腕の中でスヤスヤと寝息を立てて眠る我が子を見つめていた。
気持ち良さそうに眠る息子を見て、ふいに弥生が口を開く。
「ねぇ。ヴィル……。やっぱりこの子は……」
「……うん。そうだね。きっとそうに違いない」
赤ん坊の子供を見つめていた視線が、どちらからともなく上げられて重なる。
二人はこの時、同時に思い出していたことがあった。
いつだったか、誰が言ったのかもう覚えていないが、先ほど来ていた友人の友達の男の子が来たとき、『3人並ぶとまるで親子みたいだね。どこかしら似てるからかな? 雰囲気?』と言われた事がある。
あの時、男の子はどこか困ったような、気まずそうな笑みを浮かべてその言葉を否定していたが、二人の心の中には引っかかる物を覚えていたのだ。
何も言わず去っていたその男の子を見送りながら、もしかして……と薄々気付き始めていたが、こうして子供が生まれて実際に目の前にいるのを見るとそれは確信に変わっていた。
「あの子は、私たちの……」
弥生がそう呟いた時、そっと遠慮がちにカーテンが開いた。
ハッとなった二人が同時にそちらに目を向けると、そこには遠慮がちな様子で立っている晶の姿がある。
「……あ、すいません。面会時間ギリギリに来てしまって……」
「……いいのよ。来てくれて嬉しいわ」
戸惑いを隠しきれない様子の晶は、ふわりと優しく微笑んで出迎えてくれた二人の対応に内心安堵の息をついた。そして弥生の腕に抱かれている子供に目を向けると、晶は俄かに目を見開き、そして目元を緩ませた。
今にも泣き出しそうで、しかし、どこか嬉しさを隠し切れないようなそんな表情を浮かべている。
晶は嬉しかった。弥生の腕に抱かれていたのが紛れもない自分だったことに。嬉しくて上手く言葉で言い表せないが、ただ胸に迫る喜びに打ち震えた。
あぁ……。もう、大丈夫だ……。
胸の奥につかえていた物が取れたように、肩から力が抜けるのが分かる。
自分が今まで考えていた事はただの杞憂に過ぎなかった。それが分かってようやく晶の心に落ち着きを取り戻させていた。
「どうぞ。ここに座って下さい」
ヴィルヘルムが空いていた丸椅子に腰を下ろすように促すと、我に返った晶は勧められるままにそこに腰を降ろした。
「あ、あの……、出産おめでとうございます」
「ありがとう。雪で足元が良くない中来てくれて、本当に嬉しいわ」
心底喜びを隠し切れない様子で微笑む弥生に続き、ヴィルヘルムも微笑んだ。
「来てくれないのかと思いました」
「あ、いえ。すいません。それに、何も持ってこなくて……」
「いいのよ。あなたが来てくれただけで私たちは嬉しいわ。ねぇ? ヴィル?」
「あぁ。そうだよ」
晶は暖かく出迎えてくれた二人の様子を窺うかのように、そろりと視線を上げる。すると、弥生は笑みを浮かべたままこちらを見つめ、やがてヴィルヘルムへと視線を移す。
ヴィルヘルムはそんな弥生の視線を受け、一度軽く頷くと今度は真っ直ぐに晶に向き直り見つめ返してくる。
「アキラくん……。少し、訊きたいことがあるんです」
「……はい」
二人の表情を見て、晶には二人が何を訊きたいのか予測がついた。
今なら大丈夫。全てを打ち明けても、俺は俺と言う存在を信じていられる。
晶もまた一度しっかりと頷くと、ヴィルヘルムは口を開く。
「君は……私たちの子供、だね?」
「……はい」
「未来から来たのね?」
「はい」
迷うことなく、晶は二人の言葉に頷いた。
「なぜここへ来たのか、俺自身にも解らないんです。ただ解っていた事は、過去のあなた達に接触する事で、未来を変えてしまうかもしれないと思うと怖くて、今まで本当のことが言えませんでした」
晶の話を聞いた弥生たちは、申し訳なさそうに表情を曇らせる。そしてそっと晶の手を取り、握りながら呟いた。
「……今まで気付けなくて、ごめんなさい」
弥生の言葉に、晶の胸はぎゅっと掴まれたような音をたてる。
それは決して悲しい意味ではなく、どちらかと言えば喜びで胸が詰まったと言った方が正しいかもしれない。
僅かに潤んだ瞳を上げて見つめ返してくる弥生の姿に、思わず目頭が熱くなるのを感じた。
その時、逆の手をヴィルヘルムが握り返して来たことに僅かに驚き、そちらに視線を向ける。
「一人で、今まで辛かっただろう。君が無事に元の時代へ戻れるよう、これからは一緒にその方法を探させてくれないかな」
ヴィルヘルムの言葉に、晶はいよいよ胸がいっぱいになった。
じんわりと胸の奥からこみ上げる熱い物に、目が赤くなる。
晶は一度視線を手元に下げ、片方ずつ握り締められた二人の手の温もりを感じながら瞳を閉じる。そして小さく頷き返した。
「……はい。ありがとうございます」
吐息交じりのその言葉に、二人は嬉しそうに目を細めた。
「なぜ、あなたが晶と言う名前なのか、やっと解ったわ」
その言葉に、晶は顔を上げて弥生を見つめ返すと、弥生は微かに目尻に涙を滲ませながら口を開く。
「あなたの名前は、今はもう亡くなってしまった、私の親友の名なの。そしてその名前は……生まれたこの子へも……」
弥生は胸に抱いた我が子へ愛おしむような眼差しを落とす。
「あなたは、私たちにとって最高の宝物よ」
「……っ」
その言葉に、晶は言葉に詰まり、やがて嬉しそうに緩やかな笑みを浮かべた。
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